床の上に立つ少女
私は動かなかった。それなのに、頭上の板がこつんと一度だけ鳴った。誰かの指の関節が、木目を軽く叩いたのだ。
「もしいるなら」
細い声が、板の隙間から糸のように降りてくる。その震えに合わせて、埃の粒が闇の中をゆっくりと舞った。
「私、誰にも言わないから」
その言葉を聞いた拍子に、手の中の菓子が砕けた。指の間から零れた屑が、土の床に乾いた音を立てて落ちていく。蜜の甘い匂いが、砕けた欠片から湿った暗がりへ広がった。
屑を見つめたまま、私は考えた。聞こえてきたのは大人の声ではなく、子どもの声だった。それでも、信じていいのかどうかは分からない。
少しのあいだ、板の向こうで誰かが待っていた。衣擦れの音がして、頭上の気配が座り直す。
「私はミラ」
名乗る声は、澄んでいて少し早口だった。私は返事をせず、砕けた菓子の残りを掌の中で握り直した。
「あなたのお母さんに、この部屋で待っていてって頼まれたの。あなたはたいていここにいるからって。でも、ひとりでいるのは好きじゃなくて」
板の上で、靴の底が床を軽くこする音がした。私は喉を固くしたまま、息だけを細く吐いた。
応接間のほうから、笑い声がまた流れてくる。床下で、私は残った菓子を握りしめ、この隠れ家がまだ秘密のままなのかどうかを、必死に測っていた。
「下にいるのは分かってるの」
ミラは急いだ様子で言葉を継いだ。
「見たわけじゃないわ。二つ手前の部屋を通ったとき、何かが動く音が少しだけ聞こえたから」
私の視線は、もう一度、床に散った屑へ落ちた。
憎らしかった。ミラが憎いのではない。頭の上に渡された板と、白く散らばった菓子の屑が憎かった。
「出てこなくてもいいのよ」
ミラの声は、変わらず柔らかかった。板の上で、ドレスの裾が木の床をなぞる気配がする。
「少し話したかっただけ。それから、お父さんとお母さんを待つだけだから」
柔らかな声が、安全の証になるとは限らない。昔、微笑みながら扉に鍵をかける人がいた。その記憶が、背筋を冷たい指でなぞっていく。
けれどミラは、板を持ち上げようとはしなかった。大人を呼びに行くこともしなかった。ただ、板の向こう側に腰を下ろして、そこにいるだけだった。
長い沈黙のあと、私はようやく口を開いた。喉の奥が乾いて、舌が上顎に張りついている。
「誰にも、言わないで。兄さんにも、使用人たちにも」
自分の声が、ひどく掠れて耳に返ってきた。
ミラはすぐには答えなかった。板の上の気配が、考え込むようにわずかに揺れた。
「分かった」
その返事が嘘ではないかを、私は暗闇の中で確かめようとした。確かめきれないまま、もうひとつ、口にした。
「お菓子を取ったことも、言わないで」
小さな笑い声が、板の上でこぼれた。
「私も、二つ取ったわ」
悪びれたところのない声に、私は手に残った菓子を見下ろした。縁がもう、半分崩れている。
「台所から?」
ミラが身じろぎしたのか、板がかすかに鳴った。
「ううん。応接間の近くの、小さなお皿から」
そこは危ない場所だった。大人たちに近すぎる。私なら、あの皿には決して手を伸ばさない。
「どうして取ったの」
問いかけると、板の向こうから、ふっと息が抜ける音がした。
「お腹が空いていたの。それに、あなたのお兄さんが、あのお菓子をすすめてくれたから」
あまりに素直な答えだった。私は言うべき言葉を見つけられず、指先で菓子の縁を崩した。
そのとき、廊下を歩く足音が聞こえた。
体が一瞬で固まった。背中を床下の土に押しつけ、胸の鼓動を耳の奥で数える。板の上のミラも、ぴたりと息を止めた。足音は部屋の前でいったん止まり、それからゆっくりと遠ざかっていく。
音が完全に消えてから、私はやっと息を吐いた。
夜に近づいてくる足音とは違う。そう胸の内で言い聞かせるのに、少し時間がかかった。
「あなたの名前は」
ミラの問いが、静けさの中に落ちた。
私は頭上の板を見つめた。昔の名前が、ガラスに映る影のように浮かんで、消える。プエボ。眠ることを知らない、私の奥底に残り続ける名前だ。
けれど、この家で、私はルシアンだった。
「ルシアン」
その響きは、思っていたよりもずっと柔らかかった。名を呼ばれただけなのに、胸のどこかが小さく軋んだ。
「私はミラよ」
私は少し俯いて、土の匂いを吸い込んだ。
「さっき聞いた」
板の上で、小さく笑う気配がした。ミラは、むっとするどころか、楽しそうだった。
「それなら、もう知り合いね」
私は握った菓子の欠片を見つめ、首を横に振った。見えるはずもないのに、そうせずにはいられなかった。
「まだ違う」
ミラの声が、板のすぐ近くまで寄ってきた。膝をついて、耳を木目に寄せたのかもしれない。
「まだ?」
私は少し迷って、舌の上で言葉を選んだ。
「君は、僕の名前を知っただけだ」
板の向こうが、しばらく静かになった。応接間の笑い声だけが、遠くで揺れている。
どうしてか、私の口の端が、ほんのわずかに動いた。ミラには見えなかったはずだ。そうであってほしいと思った。
遠くから、母が私を呼ぶ声がした。
「ルシアン?」
血の気が引いていく。私は体を折り畳み、梁の奥の狭い隙間へ這い込む構えを取った。母に知られれば、出ていくことを許してくれるかもしれない。けれど、屋敷には客がいる。見知らぬ人々がいる。応接間へ連れていかれるかもしれない。
「ルシアン?」
母の呼び声が、さっきよりも近づいてきた。
板の上で、ミラが立ち上がる気配がした。ドレスの裾が揺れ、靴が一歩、扉のほうへ向く。
「だめ」
私は囁いた。声が震えて、自分でも情けなかった。
ミラの足が、ぴたりと止まった。
「言わないわ」
その一言を聞いて、私はようやく床下から這い出した。誰もいなくなった部屋で、袖と膝の埃を払い落とし、寝台の縁に腰を下ろす。
母の足音が、扉の前まで来た。扉が開き、床板が軋みながら寝台のほうへ近づいてくる。軋みが、さっきまで私が潜んでいた場所の真上で響いた。
「ルシアン、お母さんは、あなたがこの部屋にいるのを知っているわ」
母の声は、どこまでも穏やかだった。私は菓子を握りしめたまま、母の足元だけを見ていた。
「お客様には、まだ会えないなら会わなくていいの。ただ、あなたが無事かどうか、確かめたかっただけ。それから、ミラと会って、少しお話ししてくれたらいいなと思って」
私は何も答えなかった。指に力がこもり、菓子の縁が崩れて、粉のように零れた。
返事を待っていた母は、やがて静かに一歩だけ下がった。
「夕食を部屋で食べたいなら、使用人に言ってね。運んでもらうわ。食卓で食べてもいいのよ」
扉が静かに閉まり、母の足音は階下へ消えていった。私はその音が聞こえなくなるまで、身じろぎひとつしなかった。
かつて母と呼んでいた人のことを、思った。それから、私の頭に慎重に触れる、今の母の手を。菓子をなぜ隠すのかと、一度も問い詰めなかった声を。
しばらくして、扉の外に出ると、廊下の床には布をかぶせた皿が置かれていた。誰かが運んでくれたのだろう。私はすぐには手を出さず、扉のそばに立って、屋敷の物音に耳を澄ました。
少し待ってから、扉をわずかに開け、皿と杯を部屋の中へ引き入れた。
食べ終えると、一階の台所へ降りていった。
母は台所の椅子に腰かけ、小さな本を読んでいた。私に気づいても、どこから出てきたのかとも、どこにいたのかとも訊かなかった。
ただ、微笑んだ。
私は母の隣に座った。まだ、客人たちに会う気にはなれなかった。知らない女の人や男の人を思うだけで、いまでも体が竦んでしまう。
そして、この屋敷のどこかで、昼から夕方にかけて、ソレンヌ村から来た一人の女の子が、私の秘密を知ってしまった。それでも彼女は、誰にも私を差し出さないと、約束してくれたのだった。




