異国からの客
私は、剣の稽古が終わるころには、いつも腕が鉛のように重くなっている。この日もそうだった。ウィーヴァンと打ち合っていた木剣の切っ先は、胸の前で細かく震え、掌には柄の木目が赤く食い込んでいた。
「もう一本」
兄の声が、乾いた庭の空気を渡ってきた。
私は木剣を持ち上げた。震えを悟られまいと肘に力を込めるが、切っ先はなおも揺れている。
「疲れたのなら、そう言えばいい」
兄は木剣を軽く肩に担ぎ、私の腕のあたりへ視線を滑らせた。
「まだ疲れてない」
声が思いのほか掠れて、自分でも驚いた。
「それなら、打たれるのを待っているような立ち方はやめろ」
その一言に、私は爪先の向きを変え、踏み込む足の幅を広げた。兄は満足げに顎を引き、ゆっくりと木剣を振り下ろす。私は柄を両手で支えて受け止めた。木と木がぶつかる硬い音が、庭の石壁に跳ね返って響き渡る。腕の骨の奥まで、その衝撃が染み込んでいった。
稽古は、それからほどなくして終わった。今日はもう十分だと、兄が汗を拭いながら告げる。私は黙って頷き、木剣を地面に置くと、兄が追加の稽古を思いつく前に、その場を離れた。
腹の虫が鳴いていた。そして私は、菓子のありかを知っている。
稽古のあとで台所へ忍び込み、何か口に入れるのは、もうずっと前からの習慣だった。家に食べ物が足りないわけではない。食卓はいつも皿で埋まっているし、欲しいと言えば誰も咎めはしない。それでも私の手は、許しを乞うよりも先に、こっそり掴み取るほうへ動いてしまうのだ。
台所の皿には、焼き菓子がいくつか載っていた。甘い蜜の香りが、湯気の名残とともに鼻先をくすぐる。私は二つをポケットに押し込み、もう一つを手に取った。
玄関のほうから、賑やかな声が流れてくる。
父と母が、客を迎えているのだ。挨拶の声が幾重にも重なり、笑い声と、杯の触れ合う澄んだ音が混ざっていた。言葉のひとつひとつまでは聞き取れない。けれど、屋敷が見知らぬ人々で満たされていることを知るには、それで十分だった。
皿の上で、私の手が止まった。
客が来るということは、まだ知らない人と顔を合わせなければならないということだ。彼らは微笑みかけ、声をかけ、返事を待つだろう。手を差し伸べてくるかもしれない。あれこれと問いかけてくるかもしれない。そして何より、前の人生で路地裏に積もった記憶が、胸の底から這い上がってきて、体の震えを呼び起こすのだ。
菓子を口に押し込み、私は逃げ道を探して視線を巡らせた。
「ルシアン」
振り向くと、ウィーヴァンが台所の戸口に立っていた。
「父さんと母さんがお客様をお迎えしている。お前にも応接間へ来てほしいそうだ」
口の中の甘さが、急に舌に重く貼りついた。
「いま食べてる。父さんと母さんには、僕は部屋で本を読むのに忙しいって言っておいて」
兄は腕を組み、呆れたように片眉を上げる。
「食べるのも読むのも、あとでできるだろう」
私は手に残った菓子を見下ろした。兄の視線がその先を追い、やがて深い溜息となってこぼれ落ちる。
「ルシアン」
その呼びかけが終わるより先に、私は床を蹴っていた。
廊下を駆け抜け、階段を二段飛ばしに駆け上がる。背後で兄が何かを言ったようだが、内容までは分からなかった。ただ、足音が追ってこないことだけは感じ取れた。二階の廊下の角で、私はカーテンの裏へ滑り込み、分厚い布の埃っぽい匂いの中で息を殺した。兄の靴音が遠ざかるのを待ってから、別の廊下を選んで自分の部屋へ向かう。
揺れの収まらないカーテンに、兄はようやく気づいたらしい。首を横に振る気配が、階下から伝わってきた。
「また、ルシアン様に逃げられましたか」
客間の方角から戻ってきた使用人が、兄の隣で同じように首を振っている。
「応接間へ連れていくどころか、捕まえることもできなかったよ」
兄の苦笑まじりの声を、私はもう聞いていなかった。
自室に入ると、扉に鍵をかけ、椅子を取っ手の下へ噛ませてから、寝台の脇に膝をついた。足元の床板は、どこを押せばいいかを知らない者の目には、他の板と少しも変わらない。
けれど、私は知っている。
板をずらし、自分で作った狭い空間へ身を滑り込ませた。居心地のいい場所ではない。梁の角が背中に食い込み、袖には埃が張りつき、澱んだ空気が喉の奥に絡む。それでも、部屋の中に立つだけの人間には、決して見つけられない隠れ家だった。
懐の菓子も、一緒に連れてきた。
この隙間を見つけてから、見知らぬ客が訪れるたびに、私はここへ潜り込んでいる。床下にひとり座り、菓子をゆっくりかじりながら、応接間の会話を拾おうと耳を澄ます。たいていは遠すぎて、声が滲んでしまう。けれど稀に、名前や地名が、はっきり聞こえることがあった。
今日は、アーデント村からそう遠くない隣の村の名が聞こえた。ソレンヌ村。訪れたのはその村の長で、父がアーデント村の長であるのと同じ立場の人らしい。
菓子を噛みながら、私はさらに耳を澄ました。
父の声がわずかに響き、すぐに別の人の笑い声に呑まれる。母が受け答えをしている。誰かが、家同士の良い関係について語っていた。私は板に耳を押し当てたが、届くのは切れ切れの言葉だけだった。
もう少し近づこうと、体をずらす。その途端、頭上の板がきしりと小さく鳴った。
私は凍りついた。音を立てないよう、呼吸さえ細く絞り、ゆっくりと、ゆっくりと体の向きを変えていく。
けれど、その失敗が、近づいてくる足音を呼び寄せてしまった。
廊下から、誰かがこちらへ向かってくる。
扉が開き、靴音が寝台のすぐそばで止まった。
私は息を止めた。
次の瞬間、頭上から、女の子の声が降ってきた。板一枚を隔てただけの、すぐ近くからだった。
「そこに、誰かいるの?」




