ルシエント・アーデント
私は、彼らが誰なのか知らなかった。アーデントという家がどんな家なのかも、知らなかった。
この家は、ヴァレニオ王国のアーデント村の村長の家だと、周りの人たちは口々に話している。ヴァレニオ王国という名前なら聞いたことがあった。別の世界にある国ではなく、プエボと呼ばれていたころに生きていた、この同じ世界の中にある国だ。それなのに、アーデント村がどこにあるのかも、ヴァレニオ王国がどの方角にあるのかも、私には見当がつかない。前に暮らしていた国から、どれほど離れた場所なのかさえ分からなかった。
みんなが私に笑いかけてくる。そのたびに、嬉しがるべきなのか怖がるべきなのか、私は決められずにいた。
新しい母は慎重な腕で私を抱き上げ、新しい兄はそのすぐそばに立ち、新しい父は二人の隣に並んでいる。絵に描いたような、満ち足りた家族に見えた。そういう家族がどんな温度をしているのか、私は知らない。母が死んでからは、なおさらだった。
私に分かっているのは、いまの名前がルシアン・アーデントで、プエボではないということだけだ。
しばらくして、母は私を小さな寝台へ運んだ。窓から入る光が敷布の上で揺れている。母は隣に腰を下ろし、胸に抱いて乳をくれた。気まずさはなかったし、嬉しさもなかった。腹が減っていて、だから飲んだ。それだけのことだった。
かつて私は、大人たちが家の中でしていることを見たことがある。声を聞いたこともある。無理やり、その近くに置かれたこともあった。だから私の体は、他人の体を目にすることに慣れてしまっている。
けれど、いまは違う。この新しい母は、私にひどいことをしない。ただ抱いて、乳をくれるだけだ。それでも、自分が何を感じればいいのかは、やはり分からなかった。
乳を飲んでいる最中、窓の外から二人の男の声が聞こえてくることがある。低くひそめた声で、父と兄のようにも思えたが、確かめる術はなかった。話の中身はほとんど理解できない。ただ、その声がこの部屋のものではないことだけは分かった。
そんなとき、私は飲むのをやめて窓のほうへ顔を向けようとする。すると母の手が私の頭をなで、湧き上がる好奇心を包み込むように押しとどめた。
「大丈夫よ、ルシアン」
何が大丈夫なのか、私には分からなかった。それでも、柔らかな声が耳の奥まで届くと、私はまた乳を飲み始めた。
時が過ぎるにつれて、体は少しずつ言うことを聞くようになった。手を持ち上げられる。小さな物をつかめる。首を動かして、あたりを見回すこともできる。
寝台の上から、兄と父が剣の稽古をする姿をよく眺めた。庭でやる日もある。兄は木剣を握り、父はその前に立って、振り方を見せていた。木と木のぶつかる乾いた音が、窓ガラスを越えて届く。こんな光景は、前の人生では一度も見たことがなかった。以前の私が暮らしていた路地裏で目にしたのは、通りで殴り合う人たちと、家の中で怒鳴り合う声ばかりだったからだ。
馬も見た。庭先を通っていく馬は大きくて、獣の匂いが風に乗って部屋まで流れてくる。私はいつまでも目で追った。人が馬の背に乗って落ちずにいられるのが不思議だった。路地裏にたまに現れた兵士たちも、ああして乗っていたのだと思う。
兄は、何かがうまくできるたびに嬉しそうな顔をした。父はそんな兄に笑いかける。私は寝台から、それを見ているだけだった。
ときどき、二人は私が見ていることに気づく。
「ルシアンも剣を習いたいのか」
父に訊かれても、私は答えられなかった。喉が動かないのではなく、答えるべき言葉がどこにも見つからなかった。
兄が木剣を持ち上げ、空へ向かって大きく一振りする。
「大きくなったら、僕が教えてあげる」
剣を習いたいのかどうか、私には分からない。ただ、兄の動く手を見ていた。
やがて、母と父が兄の赤ん坊のころの話を始めた。
「小さいころのお兄ちゃんは、ルシアンよりずっとよく泣いたのよ」
母の言葉に、兄がぱっと振り向く。耳の先がほんのり赤くなっていた。
「そんなに泣いてないよ」
母は笑いをこらえるように、口元をわずかに歪めた。
「お母さんが離れるたびに泣いていたじゃない」
兄は頬をふくらませ、拳を腰に当てて言い返す。
「赤ちゃんだったからだよ」
父も声を立てて笑った。何がおかしいのか、私には分からなかった。けれど、兄が二人に食ってかかる様子を見ていると、私の口からも音がこぼれた。どうしてそんな声が自分から出たのか、私にも分からない。気づくと、全員の目が私に集まっていた。
「ルシアンが笑った!」
兄が駆け寄ってきて、顔いっぱいに笑う。みんなはまだ私に笑いかけていた。私が笑っただけで、どうしてそんなに嬉しそうなのか、やはり理解できなかった。
別の日のことだ。私はひとりで部屋に寝ていた。廊下から響く足音で、目が覚めた。
足音は、少しずつこちらへ近づいてくる。
一歩。
二歩。
三歩。
体が一瞬で固くなった。部屋の外を歩いているのが誰なのか、私には分からない。ただ、昔の家で聞いた足音の記憶だけがよみがえり、気がつくと私は泣いていた。
扉が開いた。母がすぐに駆け寄って、私を抱き上げる。
「ルシアン、お母さんはここよ。お手伝いさんが花瓶を拭いているだけだから」
母は私の背中をさすり、柔らかな声で話しかけ続けた。泣き止もうとしても、体の震えだけは止まらない。母は私が落ち着くまで、ずっと抱いていてくれた。叱らなかったし、黙れとも言わなかった。
それでも私は、足音を聞くたびに怖くなる。扉の閉まる音に飛び上がることもある。急に抱き上げられると、泣いてしまうこともある。この怖さがいつ消えるのか、そもそも消える日が来るのかどうかも、私には分からなかった。
日々は、そんなふうに過ぎていった。眠り、目覚め、母の乳を飲む。父と兄の稽古を眺める。窓の外の人声を聞く。みんなが笑うときには私も笑い、足音や、過去を思い出させる何かに触れたときには泣いた。
家族は、私のことを穏やかな赤ん坊だと思っている。
私は、いつも穏やかなわけではない。ただ、自分が何を感じているのかを、まだ言葉にできないだけだ。
ある日、母は窓辺で私を抱いていた。外では、父が二人の男と話している。男たちの服装は、前の国で見てきた人々のものとは違っていた。誰なのかも、何を話しているのかも、私には分からない。ただ、アーデント村とヴァレニオ王国という名前が、何度か聞こえた。
男たちの後ろには、広い庭が見えた。大きな屋敷の前を、人が通り過ぎていく。柵のそばには馬がつながれ、尾を振っている。どれも私には馴染みのないものだった。けれど、ここは前の人生と同じ世界のはずなのだ。ただ私は、違う家族のもとに、違う国に、一度も知らなかった場所に生きている。
母がうつむいて、私の額に口づけた。顔が間近に迫り、乳と日向の匂いが鼻先をかすめる。それでも私は、嬉しがるべきなのかどうか、まだ分からないままだった。この人を信じていいのかどうかも、分からなかった。
ただ、この人に抱かれているあいだ、私は痛い思いをしていない。
いまのところは、それで足りていた。




