どのくらい
翌朝の食卓で、母上はそれを告げた。ワイヴァーンにフォークで皿を叩くのをやめなさいと言った、そのすぐあとだった。
「明日、最初の集落へ毛布と毛織物を届けに行きます。ルシアンも一緒に。」
僕は匙を下ろした。食卓の端で、父上は読んでいる手紙から顔を上げなかったが、頁をめくる指だけが止まっていた。
「こいつは、まだ行ったことがないだろ。」
ワイヴァーンがそう言うと、母上は茶を注いだ。
「だからです。馬車に座って、降りずに、見ていなさい。それだけです。」
父上の目は、手紙に落ちたままだった。
「もし、何か訊きたがったら?」
そこで母上は初めて、僕のほうへ顔を向けた。
「訊いても構いません。答えられることは答えます。ただし、ひとつだけ決まりがあります。集落では、自分の手で何かを人に渡してはいけません。」
僕は眉を寄せ、唇だけを動かした。
「どうして?」
母上の視線は、僕から動かなかった。
「受け取った子は、ほかの人から、なぜあの子だけが貰えたのかと問われるからです。援助はすべて村長を通し、記録を残します。そうすれば妬まれることも、疑われることもありません。」
僕はうなずいた。左の袖に入れたパンが、さっきまでより重くなった気がした。
馬車は小さく、年老いた栗毛の馬が引いていた。道の穴をすべて覚えているような足取りで進む。後ろには、毛布をきつく畳んで縄で縛った荷車が続き、二人の使用人が付き添っていた。
母上は背筋を伸ばして僕の隣に座り、両手を膝に置いていた。道のあいだじゅう、一度も僕を見なかった。わざと余白を作ってくれているのだと、そう思えた。
東の道は、最後の麦畑を過ぎたあたりから細くなった。道の左に立つ茎は短く色が抜け、いくつかは時季を待たずに倒れていた。父上は、雨が遅れて来て早く去ったと言っていた。けれど、失望した土地がどんな姿をしているのかは、言葉では見えてこなかった。
集落は、曲がり角の向こうに唐突に現れた。家はどれも低く、壁は傾き、屋根には色の揃わない藁が継ぎ当てられている。数えてみると十一軒あった。信じられなくて、もう一度数えた。
十一軒。煙の出ていない煙突が、四本。
村長は、ほかの家より少し大きな家の前で待っていた。背の曲がった老人で、帽子を胸に抱えている。馬車が止まるなり頭を下げ、母上が降りると、さらに深く頭を下げた。
「エリラ奥様。」
母上は挨拶を返さなかった。
「年寄りと、いちばん小さい子からです。病人は何人ですか。」
村長は帽子を胸に当てたまま、背を丸めた。
「二人でございます、奥様。お婆さんと、子供が一人。」
母上の声は大きくなかったが、そこに隙間はなかった。
「名前を控えなさい。夕方までに、二人に会います。」
村長は慌てて何度もうなずいた。母上がこういう場所に何度も足を運んできたのだと、僕はそのとき悟った。想像もしていなかったことだった。
母上は家々のあいだを、数えるように歩いていった。頭の中の帳面と食い違うものを見つけるたびに足を止め、答えが筋の通るまで問いを重ねる。開いた戸口から、藁の上に寝かされた子供の傍らに膝をつく母上が見えた。母上は子供の額に掌を当て、それから自分の肩掛けを外して、子供にかけた。顔色は、少しも変わらなかった。
別の戸口の前で、一人の女が母上を引き止めた。声は低く抑えられていたが、「担保」という一語だけが、僕の耳まで届いた。
母上は足を止めなかった。
「セヴェリン様とお話しなさい。それまでは、何にも署名してはいけません。」
女は、速すぎる動きでうなずいた。母上の袖口を掴んでいたことに、そこで初めて気づいたように、指を離した。村長は手の中の名簿に目を落とし、紙が小さく震えていた。
僕は馬車に残っていた。それがつらかった。座ったまま見ていると、子供たちが戸口の陰から一人、また一人と姿を現した。敷居のところに立ったまま、近づいてはこない。母上が読み聞かせてくれる物語の子供たちのように、荷車へ駆け寄る子はいなかった。ただ待っていた。どこまで離れていれば、奪おうとしたと思われないのか、測っているようだった。
僕は、その立ち方を知っていた。
道の端、最後の家の近くに、大きな石があった。その上に、男の子がひとり座っている。
僕と同じくらいか、少し年上に見えた。茶色の髪はくすんで、前髪が額にかかるほど伸びている。左足には麻袋の切れ端が藁縄で括りつけられ、右足は裸だった。両手は膝の上で固く握られている。
その子は毛布を見ていなかった。母上も、馬も見ていなかった。見ていたのは、僕だった。羨むでも、感心するでもない目だった。
距離を測る人の目だった。
僕は見返した。なぜなのかは分からない。気づけば手が袖のほうへ動き、パンの入っている場所で止まっていた。
手で渡してはいけない。
男の子は、僕の手の動きを見ていた。その目が袖へ降り、また僕の顔へ戻ってくる。何も言わなかった。動きもしなかった。
「アレン!」
いちばん近い家の戸口に、痩せた女が現れた。視線は男の子を探り当て、それから馬車へ移り、側面の木に刻まれた紋章で止まった。女は僕のほうへ、ひどく素早く頭を下げた。僕の視界に長く留まることを怖れているようだった。
「入りなさい。今すぐ。」
男の子は石から降りた。走らなかった。足を引きずるように歩いていく。麻袋を巻いた足が、わずかに地面を擦っていた。いちばん強く残ったのはそれだった。走れば目を引くと、その子は知っていたのだ。
扉が、その背中の後ろで閉まった。
母上が馬車に戻ってきたのは、夕方近くだった。スカートの裾に埃をつけ、眉のあいだに細い線を刻んでいる。二人の使用人が、空になった荷車を引き上げた。馬車が動き出した。
年老いた馬は、道の穴ごとに自分で歩みを落とした。車輪の軋みが、僕たちの沈黙の隙間を埋めていた。
「あなたは、何かを見ましたね。」
母上は、こちらを向かなかった。
「煙の出ていない家が、四軒。」
軋む車輪の音のあとで、母上の声が重なった。
「十一軒のうち。」
僕はうなずいた。
「はい。」
母上はどうして分かったのかとは尋ねなかった。しばらく黙っていた。車輪の音が、二人のあいだを通っていった。
「それは良いことです。数え続けなさい。」
そこで母上は言葉を切り、それから続けた。
「ただし、数えるだけではいけません、ルシアン。そこで止まってしまうなら、数字は誰も助けてくれません。」
僕は膝の上で指を握った。
「それなら、僕は何をすればいいのですか。」
母上は、前の道を見ていた。
「それは、あなたが探すのです。私が代わりに言うことはありません。」
不公平な言葉だと、僕は思った。
馬車が止まると、ワイヴァーンが門のところで待っていた。両手を懐に入れ、緑の髪を夕方の風になびかせて、平気な顔を作ろうとしていた。うまくはいっていなかった。
母上が屋敷へ入っていくのを見届けてから、ワイヴァーンは口を開いた。
「どうだった?」
僕は馬車から降りた。足が固くなっていた。左の袖には、パンがまだ入っている。頭の中では、石の上から向けられた一対の目が、離れないままだった。
「ワイヴァーン。」
僕は呼びかけて、それから問いを続けた。
「次はいつ、集落まで馬で行くの?」




