一度だけ
「だめだ。」
ワイヴァーンは手綱を引き寄せた。厩舎の裏庭で、馬が鼻を鳴らした。
「まだ、僕の頼みを聞いてないよ。」
返す言葉を探して、僕は唇を結んだ。
「聞くまでもない。お前、母上が商人を見るときの目で俺を見てるぞ。」
ワイヴァーンは手綱をさらにきつく握った。
「母上は、自分の手で人に渡すなと言った。父上は、もっと厳しい。俺はお前に何も渡さない、ルシアン。渡したら、俺は何かを失う。」
そこでワイヴァーンは黙り込んだ。緑の髪が片側に跳ねたまま、額に皺が寄っている。謎でも解いているような顔だった。
「失う……か。」
自分の言葉をなぞるように呟いたあと、ワイヴァーンは唐突に声を上げた。
「勝負だ! あの石のそばの道でな!」
そう言い捨てて、説明もなく行ってしまう。
「おい、それはずるい!」
遠ざかる背中から、声だけが返ってきた。
「渡す話じゃない。失う話だ。」
僕はその背中に向かって言い返した。
「それなら、卑怯な逃げ道を探してるだけだ。台所で、やり方が分からないと言ったのは兄上だろう。僕は、ひとつ見つけたんだ。」
ワイヴァーンの足が止まった。長いあいだ僕を見ていた。顔の上を、苛立ちとも羞恥ともつかないものが動いていく。やがて馬のほうへ目を逸らし、うなじを掻き、鼻から長く息を吐いた。
「一度だけだよ。」
僕がそう言うと、ワイヴァーンは鼻で息を吐いた。
「二度、いや、もっとだろ。」
僕は引かなかった。
「一度か二度。」
ワイヴァーンは僕から目を離さなかった。
「ばれたら母上に説明するのは俺だぞ。お前も、一緒に説明するんだ。」
僕は少し考えてから答えた。
「兄上は、僕の兄上だ。」
筋の通らない言い分だった。それでも、ワイヴァーンには意味が伝わったのだと分かった。
その夜、僕は床の下に、すべてを集めた。誰にも見えない場所だ。引き出しの菓子は、小さな石ほどに固くなっている。夕食のパンは、袖の形を覚えてしまった。母上が持たせてくれた白い布包みのパンには、一度も手をつけていない。それから、ソレンヌの籠にあった林檎がひとつ。書斎に誰もいない隙に、僕が取ったものだった。
林檎をしばらく見つめてから、ほかのものの隣に置いた。ワイヴァーンはこの林檎を知らない。僕は教えなかった。ミラも選ぶのを手伝ったのだと、母上が言っていた。ミラが嫌がるかどうかは分からない。たぶん、嫌がらない。小皿の菓子を一つではなく二つ取ったと、本人が打ち明けてくれたのだから。
僕はそのすべてを、あの白い布で包んだ。布の隅に小さな刺繍があったけれど、ほかのことを考えていた僕は、気に留めなかった。
翌朝、父上はすでに穀倉へ向かい、母上は書斎で何かを書いていた。僕とワイヴァーンは裏門から出た。護衛がひとり、あとをついてくる。中年の男で、いつも自分の靴ばかり確かめるように俯いていた。僕の馬は小さくて大人しく、手綱を握る力は、数週間前よりずっと弱くなっていた。
「もう震えてないな。」
ワイヴァーンの声に、僕は手綱を持ち直した。
「震えたことなんてない。」
馬の足音が、しばらく二人のあいだを埋めた。
「秋まで震えてただろ。」
僕は前を向いたまま答えた。
「あれは、寒かったからだ。」
ワイヴァーンは肩をすくめた。
「まあいい。あのときは冬だったしな。」
麦畑の最後の一枚を過ぎると、道は上り坂になった。低い枝が道に垂れ下がり、護衛は深く身を屈めなければならない。窓から、もう数えてあった。息を六つ。
包みは、鞍の袋に入っている。屋敷の庭を出たときから、僕の手はずっとそこにあった。
集落は、記憶のとおりだった。低い家々と、色の揃わない藁の屋根。煙の出ていない煙突は四本。もしかすると、いまは五本かもしれない。二度は数えられなかった。
あの子は、石の上にいた。
同じ場所に、同じ足で座っていた。片方は麻袋にくるまれ、もう片方は裸のままだ。今日はひとりだった。遠くから僕たちが来るのを見ていて、少しも動かず、視線の向きさえ変えなかった。
「今だ。」
ワイヴァーンが、振り向かずに囁いた。
僕たちの後ろで、護衛が枝を避けて身を屈めた。僕は包みを取り出し、指のあいだから滑り落とした。音は、ほとんど聞こえなかった。
手を離れた、その瞬間だった。布の隅が上を向いているのが、目に入った。濃い青の、小さな刺繍。Aの文字。
僕は息を止めた。
「ルシアン?」
ワイヴァーンが振り向いた。その目が草の上に落ち、それから僕の顔へ移る。口が開いて、何かを言いかけ、また閉じた。
「俺は、何も見てない。馬に気を取られててな。」
ワイヴァーンは馬を急がせ、護衛を追い立てるように前へ出た。僕もあとに続いた。一度だけ、振り返った。
あの子は、まだ動いていなかった。草の上の包みを見て、それから僕たちを見る。数えているのだと分かった。包みまでの距離か、僕たちまでの距離か、護衛が振り向くまでの時間か。長くは待たなかった。僕たちが曲がり角に差しかかるころ、石から降りて、布を両手で拾い上げた。噛みつくかもしれないものでも見るように、それを見つめた。
隅を開く。中身は見えなかった。ただ、あの子が止まったのが見えた。体じゅうが止まっていた。長すぎるほどの時間だった。
それから、あの子は顔を上げ、僕を見た。感謝でも、疑いでもない目だった。名前をしまっておく人の目だった。
僕は、目を逸らさなかった。
曲がり角が、視界を断ち切った。
「あの布のことだけど。」
ずいぶん離れてから切り出すと、ワイヴァーンは前を向いたまま答えた。
「分かってる。」
僕は手綱を握り直した。
「見たの?」
ワイヴァーンは僕のほうをちらりと見た。笑みが歪んでいて、少し慌てていた。
「何も見てないって、言っただろ。」
そう言い張ったあとで、ワイヴァーンは声を落とした。
「でも、見えたよ。Aの刺繍があった。」
僕は馬の首に視線を落とした。
「母上が自分で刺したんだ。うちの食卓の布は、全部。」
道の先で、木々が揺れていた。
「これから、どうなる?」
僕はすぐには答えられなかった。手綱をいじりながら、前方の、木々の向こうに見え始めた屋敷を見ていた。
「分からない。何も起きないかもしれない。あの子の母親が村長に返して、村長が父上に返すかもしれない。そうしたら、父上は知ることになる。」
ワイヴァーンの口調は軽かった。けれど、肩だけがこわばっていた。
「父上はいつだって知ってるさ。まあ、見てみようぜ。」
僕は、小さな馬のたてがみに目を落とした。
母上は、自分の手で渡してはいけないと言った。どうしてそうしたのか、自分でも説明がつかなかった。ただ、あの子が布を開いたときの手が、応接間にいた僕の手と同じように震えていたことだけは、分かっていた。
その気持ちを抱えたまま、庭に着いた。馬は自分で厩の前に止まり、僕は降りた。膝が、思っていたより弱くなっていた。
馬を引いていくと、母上が玄関の階段に立っていた。たまたま外へ出てきただけのように見える。母上の目はワイヴァーンを見て、僕を見て、それから、空になった鞍の袋へ移った。
「馬は楽しかったですか。」
ワイヴァーンの答えは、早すぎた。母上は必要以上に長く、ワイヴァーンを見つめた。
「夕食の前に、湯を浴びなさい。二人とも。」
それだけだった。僕はその一言を夕方じゅう繰り返し、そこに書かれている以外のものを、何ひとつ見つけられなかった。




