座り続けて
屋敷は、父上とワイヴァーンが発ったあと、いくらか軽くなったように聞こえた。
夜明け前に、三頭の馬と一人の護衛が門を出ていった。僕は二階の窓辺に立ち、東の道に彼らの背中が見えなくなるまで見送っていた。冷えた窓枠に額を押しつけていたせいで、木目の跡がしばらく消えなかった。
出発の前、父上は玄関先で僕の前に足を止めた。持ち上がりかけた手は途中で止まり、そのまま体の脇へ戻っていった。
「二日だ。母上の言うことをよく聞きなさい。」
僕は靴の先で石畳の継ぎ目をなぞりながら、顔だけは上げていた。
「はい、父上。」
父上はしばらく僕を見下ろしていた。僕が一歩下がるのを待っていたのかもしれない。けれど僕が下がらないと分かると、うなずいて鞍に上がり、馬を出した。馬上で振り返ったワイヴァーンが、二本の指で忍び足の真似をしてみせる。隠れるのも程々にしろ、という合図だと僕には分かった。
屋敷の中の足音が、二人分減っていた。数えるつもりもないのに数えてしまう。抜けた歯の跡を舌で確かめる人のように。廊下を踏む左足の重たい音はなく、木剣が棚に戻される音もない。朝食のあいだ、僕の手はテーブルの下に隠れていなかった。それに気づいたのは、皿が空になってからだった。
昼近く、南の道から使いの騎手が着いた。一番年下の侍女がスカートをたくし上げて駆け込み、台所では鍋が慌ただしく持ち上げられ、続いて匙の落ちる音がして、響きが消えきる前に拾い上げられた。そのあとで、母上が手の中の本を閉じながら書斎から出てきた。
「穀物商人です。来週のはずでした。父上は留守です。」
母上は誰に向けるでもなく言葉を置き、そのまま僕の前で足を止めた。これから何を命じられるのか、僕にはもう分かっていた。頭の中では、台所裏の貯蔵室へ抜ける道筋をたどっていた。
「あなたも出迎えなさい。」
足の裏が床に貼りついたように重くなった。それでも僕は、最後の抜け道を探して口を開いた。
「部屋で待っていてはいけませんか。」
母上は少しも視線を逸らさなかった。
「今日はだめです。」
その短さが、逃げ道の最後の一本を塞いだ。僕は言葉を継ごうとして、息だけを吐いた。
「母上、僕は……」
母上は声を大きくしなかった。ただ僕を見つめていて、その目には逃げ込める隙間がひとつもなかった。
「ルシアン。あなたはアーデント家の次男です。いつか、こうして客をひとりで迎える日が来ます。稽古は今、この家で始めるのです。客がただの商人でいるうちに。」
喉の奥が狭くなった。僕は声が割れないように、ゆっくりと唾を飲み込んだ。
「僕が嫌だと言ったら?」
母上は表情を動かさないまま、僕の問いを受け止めた。
「嫌でも構いません。そこに座りなさい。」
母上は顎で、応接間の右側の椅子を示した。僕は何も答えずに歩いていき、腰を下ろした。座面は思っていたより冷たかった。母上の手が背中に触れる。押す力ではなく、背骨をまっすぐに起こすだけの短い接触だった。助けなのか強制なのか、僕には分からず、僕の体にも決められなかった。
商人は間もなく着いた。二人の護衛は外で待たされている。恰幅のいい男で、口髭が濃く、埃っぽい街道には不釣り合いなほど高価な外套を着ていた。必要以上に深く頭を下げ、そして笑った。
「エリラ奥様。こちらのお屋敷は、いつ伺っても温かいですな。そして、こちらがルシアン坊ちゃまで?」
笑顔は広く、歯並びは揃っていて、歯茎に近いところが黄ばんでいた。僕はその歯を見ていた。最初に目に入ったのがそれで、目を離すことができなかった。大人は、こんなふうに笑いながら扉に鍵をかけることもできる。
「こんにちは、旦那様。」
自分の声は、思っていたより小さかった。母上は僕のほうを見なかったが、肩がわずかに下がった。息を止めていて、それをいま吐いたかのように。
「いいお子さんだ。」
商人は外套の内ポケットに手を入れた。指先が布の奥を探るあいだ、僕の目はその手から離れなかった。
「坊ちゃまは、甘いものはお好きですかな?」
取り出されたのは、色紙に包まれた小さな包みだった。手のひらが僕のほうへ開かれる。近すぎた。
僕は動かなかった。動かないと決めた記憶もない。ただ数えていた。椅子から扉まで八歩。外に護衛が二人。隅で盆を持つ一番年下の侍女。隣の母上は、走って逃げるには近すぎて、押しのけるには厳しすぎた。
「ありがとうございます。でも、いりません。」
商人の指が、包みの上でほんの少し止まった。
「いらない、と?」
笑みは崩れていなかった。僕は膝の上で、握った指の数をもう一度数え直した。
「もう食べましたから。」
商人は声を立てて笑い、手を引っ込め、包みを卓上に置いた。何も起こらなかった。僕はまだ座っていた。それがいちばん奇妙だった。
二人は穀物の話を始めた。僕にはほとんど分からなかったが、耳は傾けていた。商人の手を見ているより、そのほうが楽だったからだ。南では値が上がっている、北の不作のせいで、と商人は語り、母上はうなずいた。商人はいくつかの地名を挙げた。聞いたことのないものばかりで、ひとつだけ知っているものがあった。東の集落。商人はそれを、取るに足らないことのように、笑いながら口にした。
「セヴェリン様は、いまごろ現地をご覧になっていらっしゃるでしょうな。」
母上の声は平らなままだった。
「ええ、あちらにおります。お返事は、いつまでにご入り用ですか。」
商人は笑みを保ったまま、ゆっくりと首を傾けた。
「急ぎません、奥様。ですが、お待たせするほど、高くつきますぞ。」
母上の横顔は、石のように動かなかった。
「存じております。」
そのやり取りの中で、商人が帰ったあとも僕の中に残ったのは、あの一言だけだった。待たせるほど、高くつく。どうしてその言葉を、しまっておかなければならない気がしたのか、自分でも分からなかった。
商人は最後まで同じ笑顔で暇を告げ、母上は扉まで彼を見送った。僕は椅子に座ったまま、扉が閉まる音を聞いてはじめて、自分の手に気づいた。手は激しく震えていて、噛み合わない歯の音が、自分の耳に届いていた。
立ち上がったのに、足はどこへも僕を運んでくれなかった。母上が戸口に立っていた。近づいてはこない。十分に離れた場所から僕を見ていて、それがわざとなのだと、僕は少しずつ気づき始めていた。
「よく耐えました。簡単なことではありません。」
僕は答えなかった。舌が口の中で張りついていた。
「誇らしく思います。」
母上はそれを、ほかのどの言葉とも同じ平らさで口にした。褒められたはずなのに、胸のどこにも、それを置く場所がなかった。
「明日は別のお客様がいらっしゃいます。今日ほど重要な方ではありません。あなたはまた、そこに座るのです。」
背中には、母上の手の感触がまだ残っていた。僕は顔を上げ、乾いた声を絞り出した。
「明日、ですか?」
母上は少しも急がなかった。
「明後日も。それが、あなたを震えさせることでなくなるまで。」
膝の上で小刻みに跳ねる指を、僕は押さえつけようとして、失敗した。
「もし、できなかったら?」
母上は、僕が予想したより長く僕を見つめていた。顔は変わらなかった。けれど眉のあいだに、見覚えのあるものがあった。助けたいのに助け方が分からない人の剣を、僕が拾い上げるのを待っていたときの、ワイヴァーンの顔だった。
「そのときは震えるのです。そして、座ったままでいなさい。」
聞きたい言葉ではなかった。何を聞きたかったのかも、僕には分からなかった。
その夜、僕はベッドの脇の板をずらし、床下の狭い隙間に潜り込んだ。袖に埃がまとわりつく。息苦しい場所だった。けれどここなら、誰にも僕の手は見えない。
羊皮紙とペンを持ってきていた。ソレンヌへの手紙だ。最初の一語は宛名でなければならない、と母上は教えてくれた。僕は「ミ」の字を力を込めすぎて書き、インクが縁から滲んだ。
指でこすって消そうとした。染みは余計に広がった。
新しい羊皮紙を出す。もう一度「ミ」を書く。今度はゆっくりと。
頭の上の廊下を、母上の足音が通っていった。僕の部屋の前で止まり、ノックもしないまま去っていく。僕がそこにいないことを知っているのかどうか、分からなかった。
僕は宛名を書き終えた。ミラ、と。
その下に一行を書いては消し、書き直しては消し、蝋燭がほとんど燃え尽きるまで、それを繰り返した。




