第四話 柊サクヤ2
兄さんにもらった革財布をポケットにつっこんで家を出た。時刻は十二時半くらいで、明らかにさっきより熱くなっている。おれはほぼ無意識に舌打ちをしそうになった。
歩きながら、なんとなく市内で飯を食うんだろうなと思った。すぐに少女が駅はどこにあるかと聞いてきた。おれは、電車はこむからバスで行こうと言った。
バスに揺られている間、おれはやることがなかった。隣の窓際の席では、少女が通りすぎる景色をぼんやりと見ていた。
ほんとうにふしぎに思う。おれがだれかと一緒にいるなんて、ふつうなら考えられないことだ。当たり前のように家に入れたことも、並んで座っていることも、よく考えればおかしなことだ。
今だって、ほんとうなら自分が窓際の席を占拠していないとおかしなはずなのに、なぜだかそうしていない。じつに不可解だ。
おれにとって少女が特別な存在なのかと言えば、きっとそうではない。
少女の名は柊サクヤ。おれと同じ中学三年生で、彼女とはおそらく小学校に入る前からの付き合いになる。お互いの親の仕事の関係で昔から顔を合わせることが多かった。
サクヤは、周囲に壁をつくるおれが、ある程度ではあるが、気兼ねなく話せる数少ない一人だった。
サクヤは一言で言って、可憐な子だ。目つきがやわらかく、だれにでも優しく話しかける子で、性別を問わず人気が高い。特に男子からは女神のような扱いを受けていて、〈サクヤ姫〉または単に〈姫〉なんて呼ばれたりしている。
もちろん、コノハナサクヤノヒメからとったものだ。そもそもが、彼女の名前の由来がそこにあるのだが、〈サクヤ姫〉という言葉を聞く度、おれは、たしか正式名称はコノハナサクヤノビメ、じゃなかったっけ、なんてことを考えるのだった。
おれがとある事件を引き起こし、謹慎処分として市内から田舎に飛ばされ、中学入学と同時に一人暮らしを始めてからも、サクヤはことあるごとに訪ねてきた。
今、こうして当然のように隣に座っていることからも、彼女がおれにかなり心を開いていることがわかる。表面的には明るく振舞っていても、どこか暗い影のある彼女にとって、おれみたいに隔絶的な人間はなにかと都合がいいのだろう。
だが、おれはサクヤに心を許してはいない。どれだけ長い付き合いでも、お互いのことをどれだけ深く知っていたとしても、おれは、彼女に本心を明かすことはない。
その証拠に、サクヤはおれのことを名前で呼ぶが、おれはサクヤのことを名字で呼ぶ。名前っていうのは、その者の魂の一部だと思う。
名前を呼ぶ行為はすなわち、相手の魂の輪郭に触れることにひとしい。一度触れてしまえば、心はほだされ、次第次第気づかぬうちに相手へと心を開いていき、己の魂をむき出しのままさらすことになる。
おれがこの世でいちばん嫌いなことは、本心を人に知られることだ。本音を知られるくらいなら死んだ方がましだと、本気で信じている。
本心には、その者のもっとも脆弱な部分が隠されていて、つかまれれば、いつ後ろから襲いかかられるかわかったものではない。いわゆる背後の一突きってやつだ。
だから、どれだけサクヤがおれを信用していたとしても、おれがサクヤに同じ感情をいだくことはない。




