4 『胡蝶の夢』——夢なら、覚めれば戻れるはずでしょ。
雨の匂いがした。
目を開けるより先に、榎木弦青はそれを吸い込んでいた。濡れたアスファルトの匂いだった。足元で水が跳ねた。靴底が横断歩道の白線を踏む。信号は青だった。青だったはずだ。
そう思った瞬間、横から何かが近づいてくる。最初は、水を裂くタイヤの音だけだった。その音はすぐに、耳の奥を削るようなブレーキ音へ変わった。
手の中のスマートフォンが、一度だけ白く光った。
画面の端に通知が浮かんでいた。誰からだったのかは分からない。確かめようとする前に、手首から先の感覚が抜ける。スマートフォンは弦青の手を離れ、濡れた地面へ落ちていった。
誰かが叫んだ。
自分の声だったのか、そうでなかったのかを確かめる前に、身体が地面から剥がれた。
空が見えた。
いや、空ではなかった。道路に溜まった水がひっくり返り、街灯も、青信号も、車のヘッドライトも、同じ水の中で伸びて、割れて、弦青の身体ごとどこかへ運ぼうとしていた。どれが上で、どれが下なのか分からない。
痛みは、遅れて来た。
来る前に、弦青は目を覚ました。
病室だった。
雨はなかった。代わりに、枕元の機械音が近くにあった。胸は速く上下しようとして、そのたびに肋骨の内側で何かが引っかかる。息を吸いすぎると痛む。吸わずにいると、音だけが近づいてくる。
――ピッ。
間を置いて、もう一度。
――ピッ。
その音だけが、間違えずに戻ってきた。昨日からそこにあった音。昨日、という言葉を頭の中に置いた途端、それが本当に昨日だったのか分からなくなる。
白い天井の端に点検口があり、蛍光灯の輪郭がぼんやり滲んでいる。視界の端では小さな光が点滅し、カーテンの白だけが、昨日と同じ場所にまっすぐ垂れていた。唇には水の味が残り、看護師の声も、医師の説明も、耳の奥に貼りついている。
――元通りになるとは言えない。
その言葉だけが、夢よりもはっきりしていた。
どれも知っている。知っているのに、起き抜けの頭では、それらが夢の続きを装って並んでいるだけにも見えた。
弦青は右手の指を動かそうとした。命令は、指先までまっすぐ届かない。身体の中を遠回りして、ようやく人差し指の先に触れる。
動いた。
爪の先が、シーツに引っかかった。それだけで、浅くなっていた呼吸がひとつ戻った。
夢なら、こんなふうに痛む必要はない。
そう思ったあとで、夢でも痛い時はある、と別の考えが割り込んできた。夢の中で転べば、起きたあとも膝に痛みの残骸がある。夢の中で泣けば、目覚めた時にまぶたが重い。夢は夢のくせに、身体のどこかへ勝手に居座る。
目尻が熱かった。
泣いたのかと思った。涙が流れている感触はない。ずっと開いていたせいで乾いたのか、夢の中で何かをこぼしたのか、区別がつかなかった。
夜明け前にも、看護師に「尿の管、違和感ありますか」と聞かれた。
最初、何を言われているのか分からなかった。尿の管。布団の下、自分の中から細いものが伸びている。その先が袋につながっている。見たくなかったのに、看護師が確認する手元だけで分かってしまった。あれは自分の身体から出ているものだった。
痛いというより、気味が悪かった。
身体の内側に、自分では触れない異物がある。尿意があるのか、ないのかもはっきりしない。下腹の奥だけが重くて、そこから先を自分で閉じることも、終わらせることもできない。
看護師が袋を持ち上げ、目盛りを見た。
量を見ている。色を見ている。
弦青の身体から出たものが、数字になっていく。出した実感もないのに、出たものだけがそこに溜まっている。そのことが、どうしようもなく気持ち悪かった。
怒る場所がないと、惨めさだけが残る。
トイレに行きたい、と言う必要すらない身体になっている。行きたいかどうかを自分で決める前に、身体の出口が管につながれている。
生きている。
こんな形で、まだ生きている。
白い布の向こうは静かだった。
昨日、あそこにはビビがいた。「Bベッドだからビビ」「本名は休業中」と名乗り、「丁寧な名前の方がつらい時もある」と言った少女。『テセウスの船』を病室まで引っ張ってきて、沈んだと決めるにはまだ早いなどと、ほとんど落書きのような理屈を弦青の胸元に置いていった少女。
本当に、昨日のことだったのだろうか。
顔も見ていない。名字も、本名も知らない。白い布の向こうにいた、ということ以外、弦青は何ひとつ確かめていなかった。
痛みと薬と眠りの切れ目に聞いた声を、昨日の出来事だと決めていいのか分からない。
それなのに、呼ぶ前から返事を待っている自分に気づいた。
そのことの方が嫌だった。
弦青は白い布の端を見た。
まっすぐ下がっているだけだった。向こう側は見えない。身体を起こすことも、首をひねって確かめることもできない。見る、という簡単なことにさえ、今の弦青の身体は許可を出さなかった。
許可って何だ。
自分の身体なのに。
「生きてる?」
声は唐突に来た。
弦青は、息を吸い損ねた。返事をするより先に、胸に詰まっていたものが一段だけ下がる。そのことに腹が立った。
「……勝手に生存確認しないで」
声を出した途端、喉の奥に砂をこすりつけられたような痛みが走った。眉を寄せようとして、顔の筋肉がうまく動かないことに、また小さく傷つく。
「じゃあ、死亡確認する?」
「……もっと嫌」
「生きてる方に一票入れておく」
「投票制じゃない」
何かがかすかに擦れた。笑った音にも、布が揺れた音にも聞こえた。
弦青は返事を続けようとして、息が浅くなっていることに気づいた。夢の残りが、まだ胸の内側に張りついている。車のライト、雨の匂い、青信号だったはずの光。思い出すたびに、吸える息が減っていく。
「けっこう、うなされてたよ」
弦青は目だけを動かした。
「見てたの」
「見えてない。聞こえた」
「なら、黙ってて」
「黙ってたよ。今まで」
たしかにそうだった。ビビは、弦青が目を覚ますまで声をかけなかった。昨日の印象では、眠っていようが死んでいようが話しかけてくる相手に思えたのに、今朝はしばらく黙っていた。
その沈黙が、喉の奥に引っかかった。
「夢?」
ビビは、今度だけ声を落とした。
弦青は答えなかった。答えたくなかった。夢の話をすれば、あの濡れた道路をもう一度口の中に入れることになる。口に入れたものは言葉になって、今度は病室の中に残る。
「嫌なやつ?」
弦青の指先が、シーツを噛んだ。
爪が布に引っかかっただけなのに、右腕の奥へ嫌な痛みが広がる。昨日より痛いのか、昨日の痛みを身体が覚え始めただけなのか、分からない。
「……なんで分かるの」
「病室って、変な音するから」
ビビはすぐに言った。
「空調とか、廊下の台車とか、遠くの水音みたいに聞こえる時あるし。あと、弦青の息、さっき変だった」
「変って何」
「吸うのが下手だった」
「説明が雑」
「じゃあ今のは忘れて」
ビビは軽く戻した。だが、弦青の中には、引っかかりが残った。夢の中身は言っていない。それなのに、ビビの声はそこへ触れてくる。弦青は考えるのをやめた。事故のあとに見る夢など、だいたいろくなものではない。そう片づけたかった。今の弦青には、そのための力も足りなかった。喉は乾いている。胸は痛む。考えをひとつ奥へ押し戻すだけで、息が乱れる。
「胡蝶の夢って知ってる?」
弦青は目を閉じた。
「……また始まった」
「入院二日目、ビビの雑学コーナー」
「勝手に続けないで」
「じゃあ、弦青の悪夢対策会議」
「もっと嫌」
間が空いた。
廊下で足音がした。誰かが病室の前を通り過ぎる。ゴム底の靴が床をこすり、遠ざかっていく。足音が消えると、電子音がまた前に出てきた。
「蝶の夢を見る話」
ビビの声は、昨日より言葉を選んでいた。説明しようとしているというより、弦青の呼吸が追いつく場所を探しているように聞こえた。
「人が蝶になった夢を見るんだけど、目が覚めたあと、自分が蝶の夢を見ていた人間なのか、人間の夢を見ている蝶なのか分からなくなる」
「知ってる」
「だと思った」
「じゃあ聞かないで」
「知ってる話の方が、今は楽かなって」
弦青はすぐに言い返せなかった。
知らない話を聞く余力はない。知っている話なら、頭の中に置き場所があった。
――荘子の『胡蝶の夢』。
夢と現実の境界が揺らぎ、自分が何者なのか分からなくなる話。事故の前なら、面白がれたはずだった。今は、その問いが胸の内側に近すぎた。
「夢なら、覚めれば戻れるはずでしょ」
言うつもりのなかった声が落ちた。
落ちたあとで、弦青はまぶたの裏に力を入れた。そんなことを言いたかったわけではない。夢であってほしいなどと、誰かに知られたかったわけではない。
ビビはすぐに返さなかった。
軽い返事を待っていた弦青の胸の中で、空振りした怒りだけが行き場をなくす。
「じゃあ、戻るならどこ?」
やがて、ビビが聞いた。
「事故の前」
「いつの前?」
「知らない。横断歩道を渡る前とか、家を出る前とか」
「もっと前は?」
「……何が言いたいの」
「戻る場所って、たくさんあるから」
弦青は目を開けた。
天井は変わらず白かった。昨日と同じ白。見覚えはないのに、もう何度も見たものとして目の奥へ居座っている白。その白さを見ていると、事故前の自分が本当に学校へ行っていたのか、朝に顔を洗ったのか、制服に袖を通したのか、だんだん怪しくなる。
夢だったのではないか。
駅までの道も、教室のざわめきも、スマートフォンの通知も、誰かの笑い声も、全部、弦青が病室で見ていた長い夢だったのではないか。だとしたら、今のこの身体が本物で、事故前の自由に動く身体は、夢の中の蝶の羽だったのかもしれない。
その考えは、あまりにも腹立たしかった。
弦青は唇を開いた。喉が痛むと分かっていても、言葉を出さないと、その考えに押し潰されそうだった。
「昨日までの私が夢だったなら、今の私は何なの」
「起きたばっかりの人」
「そういうことじゃない」
「じゃあ、起きたばっかりの蝶」
「……最悪。今の私に、それ言う?」
「蝶、そんなに嫌?」
「今、羽とか言われたら殴る」
「動けないのに?」
言ってから、ビビが一瞬、息を止めたように黙った。
弦青は返事をしなかった。




