3 『テセウスの舟』――名前って、そんなに大事?
看護師が出ていくまで、ビビは黙っていた。
ドアが閉まる音がして、足音が廊下へ薄れていく。間を置いて、隣のベッドから声が戻ってきた。
「普通じゃなさそうだったね」
「聞いてたの」
「カーテン薄いから」
「盗み聞き」
「病室の標準機能だと思う」
「いらない機能」
弦青はそう言って、口を閉じた。喋るたびに声の通り道が熱を持つ。それでも沈黙に戻ると、もっと別のものが聞こえてくる。医師の説明、母親の息をこらえる音。「元通りになるとは言えない」。あれが頭の中で何度も再生されるくらいなら、カーテン越しの変な会話の方がまだマシだった。
それを認める気はなかった。
「さっきの、聞こえた」
「何が」
「元通りになるとは言えない、ってやつ」
弦青は答えなかった。口に出されると、さっきより嫌な言葉に聞こえた。
「元通りってさ」
「何」
「私ら、どこまで戻ったら、元通りなんだろうね」
そこで、点滴のチューブが手首に触れた。
弦青は反射的に指を引こうとして、引けなかった。指先がかすかに動いただけなのに、肘の奥まで嫌な痛みが走る。会話の続きより先に、息を整える必要があった。
「……今、それ聞く?」
「今じゃないと、たぶん聞けないじゃん」
「……勝手すぎる」
「うん」
「認めないで」
「元通りって言葉、けっこう便利だよね」
「何が」
「だって、どこまで戻ったら元通りなのか、誰も言わないし」
そこで、少しだけ間が空いた。
「テセウスの船って知ってる?」
続けて投げられた言葉に、弦青はしばらく反応できなかった。
「……船のやつでしょ」
「そう。壊れたところを直して、直して、最後に元の部分がほとんど残ってないやつ」
「雑な説明」
「詳しくやる?」
「いらない」
「即答」
「何が」
「詳しく聞きたい間じゃなかった」
「分かったふりしないで」
返事の代わりに、ビビが笑った。今度は布の擦れる音ではなかった。短くこぼれるような笑いだった。病室の中では少し浮いていて、だからこそ耳に残る。
弦青は天井を見たまま、息を整えた。
――『テセウスの船』。
漫画で読んだことがある。全部の部品を交換された船は、同じ船なのか。元の部品で組み直された船が別にあったら、本物はどちらなのか。そういう話には、たいてい「自己同一性」という言葉がついてくる。
事故に遭う前なら、まともに答えられたかもしれない。
いや、答えられたつもりになっていただけかもしれない。
今は、その話が近すぎた。
弦青は右手の指先に力を入れた。爪がシーツをわずかに噛んだ。肘を動かそうとしても、腕はほとんど動かない。胸は重い。左脚は布団の下で、自分のものではない重さだけを持っていた。息を吸うたびに、あちこちが別々に文句を言う。
これがまだ、自分なのか。
その問いを頭に浮かべた瞬間、口の中の苦味が濃くなった。
「元の部品がなくなったら、別物でしょ」
弦青は言った。
「船体も、帆も、舵も、名前の板まで替えたら、それはもう別の船だと思う。昔と同じ名前で呼んでるだけ」
「名前って、そんなに大事?」
「大事でしょ」
「そうなんだ」
「何、その言い方」
「じゃあ、なんで私の名前聞いたの」
「……呼ぶためでしょ」
「ほら。名前、いる」
弦青は黙った。
ビビは、自分の本名も、病名も、何も言わない。ただビビと名乗った。Bベッドだからビビ。冗談みたいな名前。冗談みたいなのに、その名前を呼ばせる気でいる。
「……変なの」
「うん。自覚はある」
「名前だけ残ってても、中身が変わったら意味ないと思う」
「じゃあ、中身ってどこ?」
「知らない」
「知らないのに別物って決めるの、ちょっと早くない?」
弦青は口を閉じた。
腹が立った、というより、言葉が指先に触れたみたいな感じだった。痛いほどではない。でも、無視するには位置が悪い。ビビは正論を言っているわけではない。むしろ、ところどころ抜けている。なのに、その抜けた言葉ほど、今の弦青には避けづらかった。
「私、元通りにはならないって言われた」
言葉が、喉の奥から勝手に落ちた。
隣のベッドが静かになる。
弦青は続けようとして、喉が詰まった。言ってしまったことが、急に恥ずかしくなった。医師の前でも、母親の前でも口にしなかった言葉だった。痛い、怖い、嫌だ。そんな簡単な言葉すら飲み込んでいたのに、本名も知らない相手に何を言っているのだろう。
「元通りにならないまま生きても、それってまだ私なのかなって」
最後の方は、声が掠れた。
病室の外で、誰かの足音が止まった。ドアが開くかと思ったが、足音はまた遠ざかっていった。機械の音だけが残る。消毒液の匂いが、さっきより濃い。
ビビはすぐには答えなかった。
軽い声で返されると思っていた。雑な慰めを言われたら、怒ればいい。怒る方が楽だった。けれど、沈黙が少し長かったせいで、弦青は自分の言葉をもう一度聞かされた気がした。
「私ならさ」
やがて、ビビが言った。
「死んでないなら、まだ同じ船ってことにしとく」
「……雑」
ビビは否定しなかった。
「今ので慰めたつもり?」
「言ったあとで、違うかもって思った」
弦青は返事をしようとして、喉の奥で止まった。
「でも、沈んだって決めるのは早いと思った」
「決めたくて決めてるわけじゃない」
「知らない。だから、聞いてる」
弦青は返事をしなかった。
喉の奥が痛い。目も乾いている。泣きそうなのではない。ずっと見開いていたせいにしたかった。目を閉じると、事故の音が来そうで嫌だった。開けていても、逃げ場があるわけではない。
「榎木弦青」
ビビが、不意にフルネームで呼んだ。
看護師が呼んだ時とは違って聞こえた。医療者の確認ではない。書類の名前でもない。白い布越しに、こちらへ投げられた名前だった。
「何」
「名前、ちゃんと残ってるじゃん」
「看護師が呼んでたからでしょ」
「それでも、残ってる」
「だから?」
「今日はそれでいいんじゃない。名前を呼ばれて、嫌そうに返事した。榎木弦青、本日分は沈没してません、って感じ」
「何それ」
「確認」
「正式な確認じゃなさすぎる」
「正式なのは、もう今日は足りてるでしょ」
弦青は目を閉じた。
正式なことばかりだった。たしかに、今日聞かされた言葉はどれもそうだった。診断名、処置名、手術名、同意書、後遺症、経過観察。どれも必要なのだろう。必要だからこそ、逃げられない。そこへビビは、「本日分は沈没していない」などという、ほとんど落書きみたいな確認を持ってきた。
くだらない。
くだらないのに、息が通った。
「……ビビ」
呼んでから、弦青は自分で驚いた。
「何?」
「あんた、ずっとそこにいるわけ」
「まあ、だいたい」
「だいたいって何」
「病室の住人にもいろいろあるんだよ」
「ないでしょ」
「あるかもしれないじゃん」
「本名もないのに?」
「本名がない人間にも、明日の朝ごはんくらいは来るんだよ」
「来るの?」
「来るでしょ。来なかったら怒る」
弦青の喉から息が漏れた。笑った、というには弱い。咳になりそこねた音にも近かった。胸に響いて痛かったので、弦青はすぐに顔をしかめる。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
「お、正直」
「今のは痛かっただけ」
「痛いって言えるの、えらい」
「褒めないで」
「じゃあ、えらくない」
「それも嫌」
「難しい患者だ」
「患者って言うな」
言い返したあとで、肋骨の内側が鈍く響いた。声を出したところだけが熱を持って、そこから遅れて息が浅くなる。弦青はシーツを掴もうとして、指先が布をかすめただけで終わった。
黙っているより、マシだった。
そう思った瞬間、余計に腹が立った。ビビと話している方が楽だなんて、認めたくなかった。
「……寝る」
弦青は言った。
「話しかけないで」
「寝るまで?」
「起きても」
「厳しい」
「そういう声、疲れる」
「じゃあ、静かにしてる」
病室に、機械の音が戻ってきた。
廊下を誰かが通る。足音は一度遠ざかり、しばらくしてからナースコールが別の場所で鳴った。シーツからは洗剤の匂いがして、消毒液の匂いはその下に薄く残っている。舌は乾いたままで、手足はシーツの中に沈んだまま動かない。何ひとつ変わっていないはずなのに、さっきまでとは、耳に入る順番が違っていた。
弦青は目を閉じた。
暗くなると、事故の断片がすぐ近くまで来た。雨を踏んだタイヤの音、手から滑ったスマートフォン。画面に走った亀裂。濡れた横断歩道の白い線が、目の前で斜めに傾く。
青だったはずだ。
そう思った瞬間、喉の奥が狭くなった。息を吸おうとしても、胸の途中でつかえる。身体が、まだあの横断歩道の上に残っているみたいだった。
仕切りの向こうから、小さな声がした。
「ねえ、まだ起きてる?」
「……話しかけないでって言った」
「確認だけ」
「何の」
「沈んでないかどうか」
弦青は目を閉じたまま、しばらく黙っていた。
沈んでいる気がした。ずっと。水の底ではない。白い天井の下、薄い毛布の中、痛みと薬の匂いの奥に沈んでいる。手を伸ばしても水面がどこにあるのか分からない。
でも、返事はできる。
「沈んでない」
掠れた声で言うと、向こうでビビが息を吐いた気配がした。
「じゃあ、今日はそれでいいじゃん」
「……船は?」
「知らない。そこは明日の弦青に聞けばいいじゃん」
「投げた」
「うん。今日はもう重い話、持てないでしょ」
「勝手に決めないで」
「今日の分は浮いてる。以上」
弦青は返事をしなかった。
自分で決める。そんなことができる状態には思えなかった。事故が決めた。医師が決める。手術が決める。動かない腕と、重たい手足と、名前のついた書類が、自分の代わりにこれからのことを決めていくのだと思っていた。
それなのに、ビビは簡単に言う。
沈んでいるかどうかまで、勝手に渡すな。
そんなふうに聞こえた。
腹が立った。
でも、その腹立たしさは、今日聞いたどの励ましよりも温度があった。
「……おやすみ、榎木弦青」
ビビが言った。
「さっきからフルネームなの、何」
「じゃあ、弦青」
「勝手に下の名前で呼ばないで」
「注文が多い」
「普通でしょ」
「じゃあ、明日までに呼び方考えとく」
「明日も話す前提なの」
「だって、入院って暇だし」
「暇って言える状態じゃないんだけど」
「そうだね」
「そこで真面目に返さないで」
「じゃあ、明日考える」
ビビがまた笑った。
弦青は目を閉じたまま、唇を動かした。笑ったわけではない。痛くて、乾いて、勝手に歪んだだけだ。そういうことにした。
眠りはすぐには来なかった。
痛みも、不安も、元通りにならないという言葉も、全部まだそこにあった。けれど、隣には、変な名前の少女がいて、弦青の身体を壊れた船みたいに扱いながら、それでも沈んでいないと言った。
雑な理屈だった。
弦青はその雑さを否定しきれないまま、ゆっくり息を吸った。




