5 『胡蝶の夢』―― 夢でも、泣いたら残るよ。
機械音だけが、急に近くなった。ビビの言葉は軽かった。昨日なら、その軽さで半音だけずれて、重い話の向きが変わった。けれど今の一言は、逃げる前に弦青の身体へ当たった。
――動けないのに。
事実だった。だから、すぐには怒れなかった。怒るための身体が、どこにもなかった。
弦青はシーツの上で指を動かした。爪の先に、布のざらつきが戻る。動いている。たったそれだけ。殴るどころか、白い布一枚を動かすこともできない。
「今の」
ビビの声が小さくなった。
「言い方、間違えた」
弦青は天井を見たまま、息を吸った。深くは吸えない。途中で胸が詰まる。吸えるところまで吸って、痛みに当たる手前で止める。
「……謝ってる?」
「謝ってる。ごめん」
弦青は、すぐには返せなかった。ふざけていない声だった。
「別に」
やっと、それだけ返した。
「間違ってないし」
「間違ってなくても、言い方はある」
「今さら?」
「今さら覚えた」
ビビの声に、いつもの調子が戻る。
弦青は目を閉じかけて、やめた。暗くすると、雨の匂いがまた近づいてくる。開けていても、白い天井がある。どちらにしても、逃げる場所は広くない。
その時、病室のドアが小さく開いた。
看護師が入ってきた。足音で分かった。昨日と同じ人かどうか、声を聞く前には分からない。
「榎木さん、起きていますか」
「……起きてる」
「息苦しさはありますか」
「……寝た気はしない」
言ってから、答えになっていないと思った。目を閉じていた時間はある。途中で意識が途切れた覚えもある。けれど、眠ったというより、痛みと薬の間に何度か沈んだだけだった。
便利な言葉だった。
便利すぎて、腹が立った。
看護師は怒らなかった。ベッド脇の機械を確認し、弦青の顔を覗き込む。手首に指が触れる。冷たくはなかった。人肌の温度が、逆に気持ち悪い。自分の皮膚が自分のものではない場所へ、誰かの温度だけが正確に入ってくる。
「夢を見ましたか」
弦青は返事をしなかった。
看護師は急かさない。弦青の目元を見て、枕元の小さなライトを落とした。明るさが変わると、天井の白がやや遠くなった。
「怖い夢を見たあと、呼吸が浅くなることがあります。苦しくなったら呼んでくださいね」
「怖いって言ってない」
「はい。言っていません」
看護師はそれ以上踏み込まなかった。綿棒に含ませた水を唇に触れさせる。水の冷たさが皮膚から舌へ移り、喉の奥までは届かないまま消えた。口の中の苦味が薄くなる。
「もう少し、眠れそうですか」
「寝たら、また夢見るかもしれない」
それは、看護師に言うつもりのない言葉だった。
声が落ちたあと、弦青は自分の手元を見ようとして失敗した。首を動かす前に、肩の奥が嫌な形に固まる。
看護師はしばらく黙っていた。
「夢を見ないようにするのは、少し難しいかもしれません」
「……知ってる」
「でも、起きた時にここが病院だと分かるように、声をかけることはできます」
弦青は看護師を見なかった。
ここが病院だと、誰かに確かめてもらわなければならない。
そのことが、ひどく腹立たしかった。
「……いい」
「分かりました。無理に話さなくて大丈夫です」
看護師はそう言って、布団の位置を直した。左脚のあたりで布の重さがわずかに変わる。触れられていることは分かるのに、どこをどう直されたのかは、遅れて届く。その遅れが、また夢の続きのようだった。
ドアが閉まる。足音が廊下へ流れていく。病室は、さっきより薄暗い。すぐには声がしなかった。
「ビビ」
呼んでから、弦青は後悔した。
呼ぶ必要はなかった。確認する必要もない。黙っていれば、ビビがいるかいないかを決めずに済んだ。声が返ってこなければ、また胸の奥が冷える。それが分かっていて、呼んでしまった。
「何?」
返事はすぐに来た。
弦青は目を閉じた。
胸の奥にあった硬いものが、ゆるむ。安心した、と言うには腹立たしい。それでも身体は勝手に反応していた。息が深くなる。機械の音が遠のく。
「……別に」
「呼んだだけ?」
「違う」
「じゃあ何」
「返事、するんだと思っただけ」
声は返ってこなかった。
その沈黙は、看護師がいた時の静けさとは違った。ビビが言葉を選んでいる沈黙だった。顔は見えない。ただ、声が出る手前で止まっていることだけは分かった。
「いるよ」
ビビは言った。
短い言葉だった。
それなのに、弦青の胸に落ちるまでに、時間がかかった。いる。どこにいるのかは分からない。白い布の向こうなのか、昨日と同じ場所なのか、それさえ確かめられない。ただ、弦青の声が届く場所にはいる。
どれも確かめられない。
でも、今はそれでよかった。よくないのに、それで足りてしまった。
「軽い」
弦青は言った。
「存在確認って、もっとちゃんとするものじゃないの」
「じゃあ、診察券出す?」
「あるの?」
「ない」
「ないんだ」
「保険証も今は休業中」
「あんた、終わってる」
「でも、返事はできる」
その言い方が、妙に残った。
呼ばれて、返事をする。
昨日、名前の話をした時も、ビビはそんなことを言っていた。名前が必要なのは呼ぶため。呼ばれたら返事をするため。呼ぶ側と返す側がいれば、とりあえずそこに何かはある。
弦青は白い布を見た。
やはり、まっすぐ下がっているだけだった。ただ布がある。向こうにいると信じるには頼りなく、いないと決めるには近すぎる距離。
「夢でも?」
弦青は聞いた。
「何が」
「夢でも、返事できるでしょ」
「できるね」
「じゃあ意味ない」
「夢で返事されたら、起きたあとちょっと残るじゃん」
「残ってどうするの」
「知らない。でも、何も残らないよりは面倒でしょ」
「面倒くさいものを残さないで」
「もう残ってるかもよ」
弦青は返事をしなかった。
目尻の熱はまだある。涙ではない。そう思うことにした。夢の中で泣いたわけでもない。ただ、目が乾いている。病室の空気が乾いている。消毒液の匂いが強い。そういうことにしておけば、何も認めずに済む。
ビビが静かに言った。
「夢でも、泣いたら残るよ」
その言葉は、妙に残った。
夢でも、泣いたら残る。
弦青はまぶたを閉じた。雨の匂いが戻ってくるかと思ったが、すぐには来なかった。代わりに、ビビの声だけが耳の奥に残っている。夢なのか、現実なのか、そんなことを決める力はもうなかった。ただ、雨の中へ引き戻されないで済むなら、今はそれでよかった。
「泣いてない」
「うん」
「見えてないくせに」
「見えてないから、そういうことにしておく」
「……ずるい」
「見えてたら、もっと困ることもあるでしょ」
弦青の口元が、かすかに動いた。笑ったわけではない。頬の筋肉が疲れて、勝手に歪んだだけだ。そういうことにした。
眠気はまだ来ない。
眠りたいわけでもなかった。眠ればまた雨が来るかもしれない。青信号だったはずの光が来るかもしれない。自分の手からスマートフォンが抜ける感覚が、もう一度来るかもしれない。
それでも、起き続けるには身体が重すぎた。胸の痛みは鈍くなり、かわりに全身が湿った布をかけられたように沈んでいく。指先の感覚も、喉の痛みも、電子音も、全部が遠くなる。
「ねえ」
ビビが言った。
「何」
「眠るまで、話してようか」
「頼んでない」
「うん」
「うるさい」
「小さく話す」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、つまらない話にする」
ビビはそう言って、本当にどうでもいい話を始めた。
病院のカーテンはなぜ白いのか。もしピンクだったら余計に落ち着かないのではないか。青だったら水族館みたいで、黄色だったら給食のゼリーを思い出す。病室のスリッパはなぜあんなに音がしないのか。ナースコールのボタンに名前をつけるなら何がいいか。
どれも、本当にどうでもよかった。
どうでもよすぎて、弦青は何度か「知らない」と返した。喉が痛むから返事を減らしたいのに、ビビの話は返事をしなくても勝手に続き、たまに弦青が黙ると、間を置いてから別のどうでもいい話へ移った。
その間、雨の匂いは戻ってこなかった。
病室は相変わらず病室だった。機械の音があり、白い天井があり、痛い身体がある。夢であってほしい現実は、夢であってくれない。
それでも、弦青が眠りの縁に落ちる直前まで、ビビの声は途切れなかった。
「ビビ」
声になったのか、自分でも分からなかった。
「いるよ」
返事はあった。
今度は、それ以上確かめなかった。
夢でも現実でも、返事が残るなら、ひとまずそれでいい。そう思ったわけではない。ただ、次に目を開けた時、また白い天井があったとしても、すぐに雨の中へ戻らなくて済むかもしれないと思った。
弦青は、浅く息を吸った。
夢に落ちる直前、誰かが小さく言った。
「おやすみ、弦青」
返事をする前に、意識は白い病室の底へ沈んでいった。




