第ー章6 『初めての魔法』
髪はぐしゃぐしゃに乱れ、額に張りついている。灰色の雲に覆われた空が、ぽつり、ぽつりと最初の雨粒を顔に落とし始めた。その冷たく、しつこい雨粒こそが、鍛錬の後に落ちた真っ暗な穴の底から、孝盛を引きずり出したものだった。
ゆっくりと目を開ける。まだ眠りと覚醒の狭間で、目の前の光景に焦点が合うまで少し時間がかかった――花、草、乾いた血の跡がすでに雨水と混ざり始めている。慎重に体を起こし、できるだけ服の泥を払い、空を見上げた。
「降りそうだな」
体中の筋肉がまだ痛みを訴えるまま、城の入口へ向かう。玄関をくぐった瞬間、何かがおかしいと気づいた――使用人がひとりもいない。ひとりも。この時間はいつも掃除で賑わっている廊下が、完全にがらんとしていた。
一瞬、警戒が走ったが、疲労がその疑念を上回った。
『休んでるんだろ』
あまり自信のないまま、そう思いながら王の間へと続く大廊下を進む。
左右を見渡す。沈黙があまりに重く、気づかぬうちに肩に溜まっていた緊張を緩めようと、長いため息をついた。
『なんか、おかしいな……』
落ち着かない様子で両手を動かす。何をすればいいのかもわからないまま。
王の間の扉の前に着き、開ける。軋む音の残響が、完全に空っぽの空間に消えていった。
引き返そうと振り向く。そのとき――足音が聞こえた。すぐ後ろで。
勢いよく振り返る。
「なんだてめ……」
言い終わる前に、すべてが一気に消えた。まるで意識を刃で断ち切られたかのように。
また、雨粒が顔に落ちる感触がした。
跳ね起きる。心臓が早鐘を打つ。
「今の……何だった?」
すべてがまったく同じままだった。花、草、血。ゆっくりと立ち上がり、たった今体験したことを整理しようとするが、噛み合うピースがひとつも見つからない。
『夢だったのか? いや……雨が降り出す前に、雨を見た。予知だったのか? それとも俺の頭がおかしくなったのか? 一体何が起きてる?』
手のひらで口を覆う。目を見開いたまま、無理やり唾を飲み込んだ。
「何だかわからないし、何を意味してるのかもわからない。でも、王様を見つけて、これを伝えないと」
必要以上に一瞬、動かないまま立ち尽くす。それから手を下ろし、うつむいたまま歩き出した。歯の間から低く呟きながら。
「あのクソ師匠、どこ行きやがった」
城へ戻る。王の間の扉を開ける。またしても、誰もいない。今度は、来ないとわかっている返事を待つことはしなかった。踵を返して正面玄関へまっすぐ向かう。その先には、次第に暗くなる空の下、巨大な都市が広がっていた。
石段をひとつずつ下りる。頭上の雲は、まだ遠い最初の稲光を宿し始めていた。階段を下りきる頃には、この世界に初めて足を踏み入れたあの広場に、また立っていた。
遠くに宝石屋の店が見えた。足早にそこへ向かう。
「こんにちは!」
いつもの男が帳場から顔を上げる。最初は困惑した様子だったが、やがて見覚えのある顔だと気づいて表情が変わった。
「ああ、お前か。『円』とかいう変なもんで払おうとした貧乏坊主」
孝盛は気まずげに頬をかいた。
「うす……」
「まあ、挨拶だけなら、気をつけてな」
立ち止まらず先を進む。国王を、リガスを、誰でもいい、答えをくれる人物を目で探す。誰も見つからなかった。
『くそ、みんなどこ行きやがった』
広場の真ん中で立ち止まる。どこへ向かえばいいかもわからなくなった。そのとき、聞き覚えのある声が背後から呼びかけた。
「孝盛くん?」
勢いよく振り返る。そこにいたのは王女だった。
「ああ、お前か……えっと……」
途中で言葉が止まった。名前を――一度も聞いていなかったことに、今さら恐ろしいことに気づいたのだ。
『くそ、名前、一回も聞いてなかった』
彼女は最初困惑していたが、やがてその沈黙の意味を理解した。
「アメリア。私、アメリアよ」
孝盛はほっとした顔で笑った。
「よし、わかった。王様かリガス、どこにいるか知ってる?」
彼女は首を振った。
「そうか。どこにいそうか、心当たりは?」
もう一度首を振る。今度は先ほどより不安げに。
「そうか……」
次の一手を考えようとしたそのとき、王女の肩越しに何かが目に入った――遠く、紫のローブに包まれた人影。背筋を凍らせたのはローブそのものではなく、顔――というより顔の不在。昼の光すら貫けないほど濃い影だった。
その人影が短剣を手に、まっすぐアメリアへ向かって飛びかかってきた。
考えるより先に体が動いた。
「危ない、アメリア!」
彼女を後ろへ引き寄せ、自分が刃と彼女の間に割って入る。短剣が右前腕の掌側を貫いたが、痛みに耐えながら、相手の武器を弾き飛ばそうと肘打ちを叩き込んだ。
「逃げてください、王女様!」
『こいつ、どこから湧いて出たんだ』
歯を食いしばりながら、まだ揉み合っている。
「てめぇ、何者だ」
沈黙。返事はない。だが孝盛は放さなかった。空いた手で、相手の腹に何発か直撃を叩き込む。効果はなかった。
『今日習ったこと、使うしかないか』
こめかみを伝う汗にもかかわらず笑みを浮かべ、何か――何でもいい、有利になるもの――を目で探す。左手側に、剣を売る店があった。
後方へ跳んで距離を取り、その店へ走ろうとした。だが敵は瞬きの間に目の前へ現れ、顔面へ一撃を叩き込んだ。まだ残っていた人々が悲鳴を上げ、四方八方へ散っていく。
できる限り速く立ち上がり、よろめきながら店へ向かって走った。二撃目をぎりぎりでかわし、扉に頭から突っ込む。扉ごと吹っ飛びながら、手近にあった剣を掴み、すぐさま敵へ切っ先を向けた。
敵は短剣を掲げたまま、まっすぐ突っ込んできた。孝盛は剣を振り上げ、綺麗な一太刀を狙ったが、敵は素手でその刃を止めた。まるで何の苦もなく。そのまま貫こうと身構える。
視界の外から放たれた蹴りが、敵を壁へ吹き飛ばした。
「な……」
振り返る。そこにいたのはリガスだった。
「さっさとここを離れろ、坊主」
考える暇もなかった。頷いて、その場から走り出す。一度だけ振り返った――リガスと敵が、店の残骸をさらに叩き壊しながら激突しているのが見えた。
『こんなの、意味わかんねぇ!』
走り続けた。恐怖が足よりも先に体を押し出していた。まっすぐ、首都の門へ向かって。
「この世界、みんなおかしいだろ……」
巨大な門を開け、壁の向こうに広がる果てしない森を前に、一瞬だけ立ち止まった。
「あんな連中のせいで死んでたまるかよ」




