第一章3 『知識の書庫』
窓から朝日が差し込んでいた。
外では鳥がのんきに鳴いている。二メートル上、柔らかすぎるベッドの上で繰り広げられようとしている惨劇など、知る由もない様子で。
「あ……」
布団に顔を突っ込んで寝返りを打つ。自分がどれだけベッドの端に寄っていたか、計算に入れていなかった。
結果は一瞬だった。ドスン、と鈍い音。それから、魂の奥底から絞り出したような「痛って」。
跳ね起きる。髪は鳥の巣、シャツは使い古しの紙みたいにシワだらけだ。
椅子にかけてあったセーターをじっと見つめる。五分――正確に五分、自分の優柔不断さで計測した時間――迷った末に、結局それを羽織った。哲学的な結論に達したからではない。単に寒かったし、考えるのに疲れただけだ。
『くそ……異世界だったの、忘れてたわ』
顎が外れそうなほど大きなあくびをひとつ。目やにを手の甲で擦り取る。
「よし……」
体を伸ばし、首を回し、頼まれてもいないマラソンにでも出るみたいに肩を温める。
そして、まるで新時代の幕開けを宣言するかのような厳かさで叫んだ。
「今日からお前の新しい一日だぞ、西郷孝盛!」
気合十分に両腕を後ろへ振り上げる。
と、片方の肩がバキッ、と痛々しい音を立てて応え、決意表明の叫びは途中から情けない悲鳴に変わった。
歯を食いしばる。爆弾処理でもするみたいにそろそろと腕を元の位置に戻す。
「いてて……まあいいや。食堂行くか」
扉へ向かい、廊下に出る。いつもの光景――赤い絨毯が敷かれた長い廊下、こんな朝早くからどこにそんなやる気があるのかわからないくらい笑顔で掃除する使用人たち。
食堂の扉を開けると、そこには国王が上座に座り、両脇には絵から抜け出てきたような、額に飾るのを忘れられたような美女が二人。
年上の方は赤髪に白いものが混じっているが、肌はほとんど時の影響を受けていないように滑らかだ。時間が彼女にだけ妙な優しさを見せているらしい。
若い方は赤に青の筋が入った髪で、目――これが目を引く――大きく輝くダイヤモンドのような色。左目だけはルビーそのもの。奇妙なのに美しい組み合わせだった。
『きれいだな』
そう思っただけで、他に何も言わず一番遠い席まで歩いて座った。
断りもなく。礼儀もなく。場の空気を和ませようという最低限の意志すらなく。
国王の額に汗がひと粒。
沈黙があまりに重くなって、王妃も王女も食事の手を止めた。咳払いをひとつして、誰かが口を開かねばと決めたのは国王自身だった。
「さいごーくん。もう二日も城にいるのに、まだ部屋から出ようとしないね。何か気に入らないことでもあったかな」
顔を上げ、何か――まあまあ礼儀正しい何か――を返そうとした。
「えっと……」
だが音節を言い終える前に、若く甲高い、許可など求めない怒りの声がそれを遮った。
「パパ! 別の勇者を召喚するべきだわ! 何もする気のない、私たちに寄生するだけの役立たずが来ちゃったのよ!」
視線を下げる。何も言わずに椅子から立ち上がった。
国王が手振りで娘を制しながら、同時に勇者にも座るよう促す。
『何も知らないくせに』
所詮、腹の立つ王族が二人。俺の何を知ってるっていうんだ。
王妃が席を立ち、こちらへ近づいて肩に手を置く。本心らしい謝罪をつぶやきながら。
国王は、というと、表情をより深刻なものに切り替えた。
「さいごーくん。外へ出る前に、書庫でこの世界について学んでおくといい。あくまで勧めだが」
異論など許さない口調だった。王妃はまだ肩に手を置いたままで、それで何かを――今にも滑り落ちそうな何かを――支えようとしているようだった。
うなずいて、それだけで食堂を出た。大きな廊下を歩き、運が良ければ噂の書庫に繋がる扉を探して。
『場所くらい聞いておくべきだったな』
適当に扉を開ける。中には巨大な書庫があった。城のどんな階にも収まりそうにないほど大きく、それでいて建物の他の部分と繋がっているようには見えない。
足を踏み入れると、灯りがひとりでにチカチカと点る。棚という棚に蜘蛛の巣が垂れ下がり、何十年も積もったような分厚い埃を照らし出すのに十分な明るさだった。
『王様、書庫の管理サボってるな』
隣人が一ヶ月ゴミを出していないのを確認するような口調で、そう思う。
扉を閉める。その向こう、城のどこかで、その扉は跡形もなく消えた。
「さて……」
棚をひとつずつ回り、手のひらで埃を払っては背表紙を確かめる。ほとんどはピンとこない題名ばかりだったが、ひとつだけ目を引いた。
――『十二使徒』
本を抜き取り、机に置く。座って、表紙の埃を息で吹き飛ばしてから開いた。
「さて、何を語ってくれるんだ、お前は」
『すべては七百年前に始まった。●●●と呼ばれる者が最初の七使徒を創り、彼らは長きにわたり人々を助けた。それぞれが固有の名を持っていた――知恵の使徒、水の使徒、と続く。知恵の使徒は自らの得意とする分野で他者を助け、水の使徒はどんな地域であろうと人々の渇きを癒した。癒しの使徒は治せぬはずの傷さえも治した。長い平和が続いたが、十七年後、創造主は理由を誰にも明かさぬまま、自らの創造物を消し去ろうとした。人々はそれを許さなかった。彼を自宅で捕らえ、絞首刑に処した。使徒たちは打ちのめされ、しばらくその消息は途絶えた。六年後、人々は神を名乗る存在の夢を見るようになる。その願いはいつも害をもたらすものだった。人々はみな拒んだ。その年、太陽は三日間昇らなかった。かの神の怒りの証しとして。数ヶ月後、使徒たちは戻ってきたが、もはや以前の彼らではなかった。彼らはもう自らを知恵の使徒とは呼ばなかった。今や、罪の使徒。そして世界中に混沌をまき散らした』
孝盛は一息ついた。
「まあ……それ、人間側の自業自得じゃねぇか」
読み進める。
『使徒たちは重大な過ちを犯した。異世界から勇者を召喚したのだ。その勇者は彼らを塔に封じた。塔は年月を経て砂漠の砂に埋もれ、二度と場所を特定できなくなった。やがてその地には怪物じみた生き物が現れるようになり、その一帯はアンタレス砂漠――あるいは呪いの砂漠と呼ばれるようになった。膨大な闇の魔力が滞留していたためである。使徒を封じた勇者は王国を興し、子孫を残した。ただひとつの絶対的な掟とともに――百年ごとに新たな勇者を召喚せよ。彼らが解き放たれたときのために』
「情報量、多すぎだろ」
本を閉じ、棚の元の位置へ正確に戻す。
別の本を探す。埃を吹き飛ばして、その表紙に妙なものを見つけた。
「『……の遺跡』? なんだこの変な題名。てか、なんで最後の部分、線で消されてんだよ」
机へ運び、開き、残った埃を吹き払って読み始めた。
『これはある者によって奇妙な形で創られた遺跡である。塔と似て、試練に満ちた場所だが、こちらの遺跡は誰にも知られていない。塔への入り口の手前に位置し、まずはこの遺跡の試練を乗り越えねばならない。この場所は致命的である。それをやり遂げた者がひとりいた。七百年後、遥か未来において、ほぼ不可能に近いことを、もうひとり成し遂げた者がいる。だが私は確信している。今これを読んでいるのは、その人物なのだと。伝えたいことがある。お前にやってほしいことが。あるいは、止めてほしいことが』
続きを読む前に、扉の方から慌ただしい足音が響いた。
騎士たちの声が上ずっている。どこを探しても見つからない、と叫んでいる。国王の声までもが、初めて本気で狼狽していた。
「くそっ」
扉を開けて廊下へ出る。
「ここにいます!」
背後で扉を閉める――もう向こう側だ。
国王が駆け寄ってくる。顔面蒼白で。
「どこにいたんだ! 城中を探させたんだぞ!」
謝りつつ、至って平然と付け加えた。
「書庫にいました。ていうか、あそこ少し掃除した方がいいですよ」
振り返って扉を指差そうとした。
――扉がなかった。
目を見開く。
「え……?」
国王が困惑した顔でこちらを見た。
「だが、ここに書庫などない」
信じられない思いで振り返る。
「でも、俺、書庫に入りましたよ。まさにここに」
窓の外に目をやる。夜だった。入ったときは明け方だったはずだ。数十分――どんなに長く見積もっても四十分程度――しか経っていないと思っていたのに、実際には何時間も過ぎていたというのか。
国王は、すでに取り繕った声音でやわらかく答えた。
「まあ……今日はもう休んだ方がいい。この件については、明日、落ち着いて話そう」
孝盛はそれ以上何も言わなかった。廊下を歩き、まっすぐ自室へ向かう。瞳孔は開いているようで、同時に妙に小さく――恐怖なのか好奇心なのか、自分でも決めかねているような感覚のまま。
部屋に入る。灯りもつけず、暗いままベッドに腰を下ろす。
――この世界に来てから初めて、眠気がまったくなかった。




