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第一章2  『そして神は言った。「信じるな」と』

※ ※ ※ ※ ※


深夜、窓ガラスを風が叩いた。カタカタ、と鈍い音が何度も続く。まるで外の何かが、しつこく中へ入りたがっているように。


古びて湿気で少し膨らんだ木枠の隙間から、冷たい空気が一筋、ベッドまで届く。風が強まるたび、腕の肌がぞわりと粟立った。


「はぁ……この風、マジで嫌いなんだよな」


手にはライトノベル。ページはもう柔らかく、角は何度も折り返した跡で丸くなっている。栞代わりに折った跡は、途中で読むのをやめた証だった。


部屋は薄暗い。椅子の背には脱ぎ散らかした服が山になり、ゴミ箱の脇にはカップ麺の空き容器が積み上がっている。机の上の本は今にも崩れそうな均衡を保ち、古いものは背表紙が剥がれかけていた。


灯りは机の小さなスタンドライトだけ。皺の寄ったシーツの上に、震える黄色い光の輪を落としている。部屋の残りは影に沈み、その影は、灯りが風に揺れるたびにわずかに動いた。


『勇者は金もなく、寝る場所もないまま異世界に召喚された。あてもなくあたりを探し回っていたが、不意に王国の兵士が声をかけてきた』


「……つまんね」


ページの端を指でなぞる。続きは読まない。外では風がまたガラスを叩いた。まるで夜そのものが、まだそこにいると言い聞かせるように。


ドサリ、と本をベッドに落とす。埃が小さく舞い、スタンドの光の中に浮かんで消えた。腕を伸ばし、枕元に積んだ同じシリーズの巻を探る。くたびれた背表紙と折れた角を指先でかき分け、目当ての一冊を引き出した。


「これだ」


適当なページを開き、独り言のように声に出して読む。眠気で声はすでに掠れていた。


「――海は緋色に染まり、獣たちが姿を現した。杯は――」


「最初から読まないと話がわかんねぇけど、最初、つまんねぇんだよな……いいや。もう寝よ」


パタン、と本を閉じる。ライトを乱暴に叩き消し、危うく倒しかける。布団に丸くくるまり、隙間風から逃げるように潜り込んだ。ガラスを叩く風は不規則に続き、次第に遠のいていく。やがて眠気が完全に勝った。静かな暗闇に引きずり込まれながら――それが、あの散らかった部屋で眠る最後の夜になるとは、まだ知らなかった。


戻ってきたのは、あの青空だった。数秒前の体感では漆黒だったはずの空とは、まるで別物だ。石段に腰掛け、市場を行き交う人混みをぼんやり眺めながら、次に何をすべきか考えている。


あたりの喧騒は、自室の静けさとはまるで違う。石畳の上で軋む荷車、硬貨が手から手へ渡る音、幾重にも重なる話し声――なぜか苦もなく理解できる言語だったが、その理由はうまく説明できない。


頭のてっぺんが陽に温められる。時折、奇妙な羽をした鳩――そう呼んでいいのかも怪しい鳥が、石畳の隙間をついばみながら頭のすぐ近くを飛び過ぎ、そのたびに小さく肩を震わせた。


「ここに来る前に、もっとマシな人生送っときゃよかったな……」


思ったより小さな声だった。数メートル先で商人たちが値段を叫ぶ声にほとんどかき消される。見たこともない形の野菜を並べる者もいれば、自分の世界のどの店でも見たことのない色に染めた布を売る者もいる。膝に置いた自分の両手をじっと見つめる。そこに答えがあるかのように――あるのは、日光を浴びてこなかった、いつも通り青白い手だけだった。


「何もしてなかったな……夜通し本読んで、しかも飽きて最後まで読まなかった」


この半年間を、思わず振り返ってしまう。同じような日々の繰り返し。閉め切ったカーテン。深夜まで顔を照らしていたスマホの青白い光。読み終わらない漫画の山。両親に部屋から出ない理由を聞かれるたび、少しずつすり減っていった言い訳。すべてが、まったく違う世界の石段から見返すと、途方もなく空虚に感じられた。


パン、と自分の頬を叩く。乾いた音が周囲の喧騒にかろうじて紛れる。それで少しは持ち直したのか、石の冷たさで痺れた足を揺すりながら立ち上がる。膝から嫌な痺れが這い上がってきた。


「冒険者の学校について、誰かに聞いてみるか」


果物屋の近くで話し込む二人組に、恐る恐る近づく。何をするつもりなのか自分でも半信半疑のまま、短く、頼りない足取りで。だが直前で引き返した。見知らぬ相手に事情を説明すると考えただけで、顔が羞恥で熱くなる。近づいては、また下がる――それを二度繰り返す。ポケットの中の手には汗が滲んでいた。結局、誰にも声をかけられないまま、あてもなく歩き出し、その学校とやらを探し始めた。知らない路地を本能だけで進み、適当な角を曲がっては、数分後に同じ場所へ戻ってきたことに気づく。


『さて……どこにあるんだ』


不揃いな石畳に足音が響く。頭上では布の天幕が、風に揺れるたびに顔に落ちる影の形を変える。暖かい日差しと、ふとした木陰の涼しさが交互に訪れ、日陰を通るたびに、ほっと息をついた。何度か「もう通った道だ」と思う通りに出くわしたが、角を曲がるとまったく別の場所で、そこには別の露店と別の人々がいた。迷い込んだ少年の存在になど、まるで関心もない様子で。


※ ※ ※ ※ ※


探し始めてから、もう何時間も経っていた。何一つ見つからないまま。太陽は空をだいぶ渡り、真っ白だった光は暖かみを増して地平へ傾き始めている。歩き通しの足は疲労を訴え始めていた。似たような通りばかりで、次第にどれも同じに見えてくる――同じ焦げ茶色の木造家屋、同じ継ぎ接ぎだらけの天幕、同じ古びた石の水場が何度も現れる。まるでこの世界そのものが、彼を疲れさせるためだけに作られた迷路のようだった。


「クソ……」


近くの家々の傾いた屋根の隙間から差し込む陽光に、思わず目をやる。うなじを焼くその強さはもう不快なほどで、晴れた空を見上げるたびに目を細めずにいられなかった。


『この世界、何が違うんだろうな……』


ポケットに両手を突っ込み、また歩き出す。俯いたまま、背を丸めて。石の上を引きずるように足を運ぶ。歩き通しの疲れが、一歩ごとに重くのしかかってくる。まるで自分の脚が、あてもなく歩き続けたこの数時間分の恨みを訴えているかのように。


「誰かに聞こう。こんなアホみたいな世界で迷子になりたくない」


噴水の近くで賑やかに話す若者の集団へ、ゆっくり近づく。苔むした石の器に水が絶えず落ちる、心地よい音が響いていた。声をかけようと口を開きかけたその時、風が乱れた前髪を揺らしながら、彼らの会話の断片を運んできた。


「もう勇者様、召喚されたんだって! あの化け物たちを倒すために!」


「だよな! どんな人だろ、あはは」


『勇者ねぇ……まあ、興味ないけど』


「なあ、君たち、冒険者の学校ってどこにあるか知ってる?」


小さく頭を下げ、小声で「お願い」と付け足す。子供たちの好奇の視線が上から下まで自分を舐めるのを感じながら。


子供たちは戸惑った顔でこちらを見上げ、見たこともない服装を上から下まで検分する。生地も裁断も、この世界のどこにも属さないもののように。互いに顔を見合わせてから、一人が答える勇気を出した。


「えっと……まっすぐ四区画くらい先で、それから左に曲がったところだよ、お兄さん」


素早く頭を下げて礼を言い、すぐさまその方向へ駆け出す。額を汗が伝う。灰色のセーターが風でばたつき、行き交う人々をぎりぎりで避けながら進む。驚いた顔で身を引く者もいれば、真昼の雑踏にまぎれて気づきもしない者もいる。だが、止まりきる前に――曲がり角から剣を携えた男たちが不意に現れ、行く手を完全に塞いだ。反応する間もなかった。


ドンッ、と全身を突き上げる衝撃とともにぶつかった。二人の男を巻き込んで、腕と脚と鎧が絡み合いながら石畳に転がる。金属同士がぶつかる音が響き渡り、周囲の視線を一斉に引き寄せた。


「あ……」


肺から押し出された息を取り戻そうと呻く。肋骨から首の付け根まで、鋭い痛みが走った。周りで見ていた人々は青ざめて動きを止め、口元を手で覆う者、小声で囁き合いながら倒れた三人を指差す者――大声を出せば自分にまで災いが及ぶとでも思っているように、誰もが声を潜めていた。


高森はどうにか立ち上がる。まず片膝を冷たい石畳につき、パンパンとズボンとセーターの埃を叩き落とす。落下の衝撃を大きく受け止めた右肩に鈍い痛みが広がり、腕から指先まで嫌な痺れが走った。


「すみません!」


ほとんど体を折るくらいの勢いで頭を下げる。両手は膝についたまま、叱責か、怒声か、何かしらの反応を覚悟していた。だが返ってきたのは、ぶつかった衝撃とは不釣り合いなほど落ち着いた、乾いた問いだけだった。その静けさは、どんな怒鳴り声より不気味だった。


「お前、この世界の人間じゃないな?」


「え……はい」


自分の声が思いのほか小さく、幼く響く。まだ散り切らない野次馬と兵士たちの視線が、いくつも突き刺さるのを感じながら。


鎧の重みに似合わない速さで兵士たちが立ち上がる。関節が軋む音がわずかに聞こえた。ろくな説明もないまま、両腕を有無を言わさぬ力で掴まれ、そのまま連行される。抵抗も質問も無視され、周囲の人々が道を空けながら、視線だけを兵士と少年の間で行き来させていた。


市場の喧騒と、熟れた果物、なめし革、鍛冶場の煙が混ざった匂いを後にして、どんどん広い通りへと進む。石畳の広場では、隣家の洗濯物の合間で裸足の子供たちが遊んでいた。やがて、風雨に磨り減った石像が並ぶ大通りの先に、巨大な城が姿を現す。像の顔はすでに何世紀もの風雨で削れ、誰を模したものかもわからない――かつての英雄か、王か。この世界すら忘れかけている誰かの姿だった。城そのものは晴れた空を背に堂々とそびえ、細い塔の先には円錐形の屋根、旗がゆるやかにはためいている。市場ほどの強さを失った風にわずかに揺れながら。


鉄で補強された重厚な扉が、ギィ、と重い音を立てて開く。両脇に控えた兵士に押し開けられ、そのまま中へ。高い天井の廊下を進む。長い窓から差し込む金色の光の帯が、磨かれた石の床に幾筋も落ちていた。やがて辿り着いたのは豪奢な広間。壁一面を覆う深紅の壁掛けが、両脇で灯る松明の光を吸い込み、磨かれた床と、彼を取り囲む面々の厳しい表情の上に、暖かな輝きを投げかけていた。


通りで捕らえられた時の乱暴さとは打って変わり、驚くほど丁重に椅子へ座らされる。壁と同じ深紅のビロード張りの、背の高い椅子だった。目の前には数段の大理石の階段の上に設けられた壇があり、白く整えられた髭と、飾り気のない簡素な冠を頂いた老齢の男が、金の装飾が施された玉座に腰掛けている。冠の下の白髪も同じ色をしていた。玉座は暖かな灯りの下で鈍く輝き、松明の炎が揺れるたびに小さな煌めきを放つ。玉座の両脇には二人の兵士が彫像のように立ち尽くし、剣の柄に手を添えたまま、一言も発せず様子を見守っていた。


「ようこそ。私はギャクラの王だ。お前の力が必要で、ここに呼んだ」


高森は固まった。重々しい緊張感がその場に満ちていく。部屋の隅々まで張り詰め、沈黙がほとんど手で触れられそうなほど濃くなっていく――松明の爆ぜる音さえ、いつもより大きく響くほどに。


過去の戦を刻んだ柱の彫刻、天井から下がる艶やかな金属の燭台、本物の宝石のような輝きを放つ玉座の装飾、磨き抜かれてほとんど自分の歪んだ姿が映り込むほどの大理石の床――一瞬、その豪華さに気を取られる。子供のような好奇心で、目がその一つ一つをなぞっていく。この場の重さとは不釣り合いなほどに。だが、期待に満ちた王の視線と、返答を待つ兵士たちの張り詰めた辛抱強さに気づき、ようやく我に返る。声は辛うじて、しっかりと出た。


「わかりました」


『まさか、俺、召喚された勇者なんじゃ……よっしゃあ』


胸の内で、馬鹿げた高揚感が泡立ち始める。宝くじを買ってもいないのに当たったような感覚。表向きには、この場にふさわしいだろう澄ました顔を保ちながら。だが頭の片隅では、小さな声がしつこく問いかけていた――自分のお気に入りのライトノベルの一巻すら最後まで起きて読み切れなかった人間に、王が何を期待できるのか、と。今夜だけは、その声を無視することにした。


「詫びとして、しばらくは城に滞在するがいい」


「はい、はい」


数秒前の神妙さとは打って変わった様子で、飛び跳ねるように立ち上がる。まるで状況の重さが一瞬で蒸発したかのように。特に礼もせず王に背を向け、気安い足取りで城の中を歩き始める。汚れたスニーカーの底で、上質な赤い絨毯を無造作に踏みしめながら。土の跡が点々と残っても、それを口にする使用人は一人もいなかった。


「俺、何かスキル持ってたりして」


不眠の夜に読み漁ったライトノベルの主人公たちを真似て、右手を厳かに掲げる。意志の力だけで大魔法を呼び出そうとするかのように、精一杯集中し、指先を天井へわずかに反らせ、一秒ほど息まで止める――それが何かの助けになるとでも言うように。


だが、何も起きなかった。火花一つ、光一つない。虚空で震える自分の手と、気まずい静寂だけがそこにあった。通りかかった使用人たちが訝しげな横目を寄越す。何をしようとしているのか理解できないまま。一人などは足を緩め、何か壮大なものが起きるのを待つように立ち止まったが、結局何も起きなかった。


「まあ、いいか」


肩をすくめ、失敗をさして気にも留めない。その日の残りは、城の果てしない廊下をぶらぶらと歩いて過ごした。ドーム状の天井が自分の足音を何倍にも響かせる。丁寧に手入れされた庭を見下ろす窓に足を止めては、幾何学模様に刈り込まれた生垣や、見たこともない色の花に囲まれた石の噴水を眺めた。庭のひとつで、白い花の茂みに屈み込む老いた庭師を見つけた。聞き覚えのない言葉で、子守唄のような節を口ずさんでいる――なぜか、その響きが妙に安心できるものに感じられた。


石のくぼみに飾られた古い鎧を眺める。へこみの一つ一つが、自分の生まれるずっと前に戦われた戦を物語っていた。継ぎ目に残る黒ずみの由来は、あえて想像しないことにした。時折、歴代の王たちの肖像画の前で足を止める。描かれた瞳が、通り過ぎる自分をじっと厳かに見つめているようだった。額の下の金の銘板に刻まれた名は、彼には何の意味も持たなかったが。鎧姿の厳めしい男たちの絵もあれば、杖を手にした眼差しの強い女性の絵もある。中でも一枚、他より小さく隅に追いやられたその絵には、年齢に見合わない悲しげな表情の少年が描かれていた。高森はなぜか、その前で予定より数秒く足を止めた。


途中、洗濯かごを抱えた侍女たちの一団が、好奇心と警戒心の入り混じった目でこちらを見送った。彼が離れて聞こえなくなった頃、押し殺した笑い声を交わしていたが、その含み笑いの調子だけで、何を話していたかは察しがついた。


やがて夜の帳が王国を包む頃、城の窓は深い青に染まり、廊下の油灯が一つ、また一つと灯っていく。物静かな足取りの使用人が、小さなガラス製のランタンに守られた蝋燭を手に、松明の灯る廊下をいくつも抜けて、割り当てられた部屋の前まで案内した。短く一礼して立ち去り、後には遠のいていく足音の余韻だけが残った。


『くそ、みんなに勇者だって自慢したかったのに……ま、明日から勇者としての生活が始まるか』


布団に潜り込む前に、部屋を見回す。花模様の彫刻が施された濃い色の木の衣装棚。窓際の椅子。金縁の姿見には、乱れた髪と自分の世界の服のままの姿が映っている――ほんの数時間前まで、まったく違う空の下、家路を歩くただの高校生だった、その唯一確かな証だった。


見知らぬ、柔らかく香りのついたシーツの上に横になる。自分の世界に置いてきたくたびれたマットレスとの違いに、思わず頬が緩んだ。布団に丸くくるまりながら。部屋にはドライラベンダーの香りがほのかに漂っていた。シーツの間にそっと忍ばせた小さな匂い袋から来ているらしい。マットレスは自分のものよりずっと硬く、それでいて寝心地はよく、何年も忘れていた柔らかさで迎えてくれた。ベッド脇の小さな木のテーブルには、誰かが水差しと空のカップを置いていってくれていた。まだ理解しきれない、静かなもてなしの証だった。


窓の外、この見知らぬ世界の星々が、地平線に残るわずかな残光の間から一つ、また一つと顔を出し始める。昼間歩き回った街の喧騒とはまるで違う城の静けさが、石壁の間にゆっくりと満ちていく。木材が夜の冷えで軋む音や、遠くを見回る兵士の足音だけが、時折その静寂を破った。その静けさは不安どころか、いつしか彼を深い眠りへと誘っていった。眠りに落ちる直前、頭の片隅に残っていたのはただ一つ――久しぶりに、今が何時かを気にする必要がまるでないという想いだった。

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