第一章1 『 異世界に来てしまった!』
──何もかもが、最悪だ。
財布に金もないまま、真夜中の街に飛び出した。おまけに、隣には誰もいない。
いや、金がないというのは少し大げさか。財布の底に小銭が残っている。心細さをどうにか誤魔化せる程度には。
今夜は本当なら、パーティーに向かうはずだった。身なりを最低限整え、少しばかり浮かれた気分で家を出たのだ。だが、待ちぼうけを食らわされた。
こうなれば手ぶらで帰るしかない。プライドは、出かける前より少しばかり傷ついていた。
少年の名は高森最後。高校三年生。
平成八年生まれ。校則がすでに緩くなっていた時代――そのおかげで、彼のような人間でも何ヶ月か気づかれずに済んでいた。
実際、六ヶ月も学校に行っていない。気づけば引きこもりになっていた。ベッドの脇に積まれた漫画を読み、それ以外は特に何もせず、同世代の誰もがそうするように時間を潰す。世界がつまらなく見え始めた時、誰もがそうするように。
最近は、両親との距離もさらに開いていた。
会話は短く、機械的で、必要最低限にまで削られている。部屋の中から漏れる「おはよう」。食後にすぐ閉じる扉の向こうから聞こえる「もう食べた」。あとは、廊下に居座る住人のように長く続く沈黙。
三人とも、もうその距離の縮め方を知らない。誰かが決めたわけでもないのに、日々少しずつ積み重なっていった距離だった。
夜空を見上げる。雲一つない。
星との間を遮るものは何もなく、オリオン座さえもくっきりと見て取れた。近所の暗い屋根の上で、冷たく、遠く輝いている。
髪型――と呼ぶのもおこがましいそれは、伸びっぱなしの前髪が無造作に額へ落ちているだけのものだ。目には濃い隈が浮かび、ここ最近ろくに眠れていないことを物語っている。
黒のシャツに、袖口が少しくたびれた灰色のパーカー。動きやすい黒のパンツが、冷えたアスファルトを踏むたびに揺れる。白いスニーカーの靴底は、もうすっかり擦り減っていた。
「はぁ……やっぱり出かけるんじゃなかった」
俯いたまま歩き続ける。背中を丸め、両手をポケットの奥まで沈めて。夜が奪っていく体温を、少しでも取り戻そうとするかのように。
静まり返ったビルの間を風が抜けていく。深夜の湿った冷気を運びながら、無人の道を滑るように渡り、時折、忘れられたビニール袋を歩道の縁石に打ちつけていた。
この時間、他に歩いている人影はない。遠くを走る車の音と、数ブロック先で明滅するネオン看板だけが、眠った街の静けさをかろうじて破っていた。
石を蹴った。何メートルか転がったそれは、側溝に消えていく。
見上げた月は、地平線から迫る灰色の雲にゆっくりと呑まれつつあった。銀色の輝きが、屋根の上から少しずつ削られていく。
乾いた足音だけが、帰り道の道連れだった。
「家に着いたら、謝ろう」
そう口にした瞬間だった。
何かが、変わった。
すべてが、ふっと止まる。世界そのものが息を止めたように。
足元のアスファルトも、街灯も、静かに並ぶビルも――すべてが、真っ白な空間に少しずつ塗り替えられていく。まるで見えない雫が、見慣れた景色の上に落ち続け、一筆ずつ、それを塗りつぶしていくかのようだった。
目を見開く。理解が追いつかない。
透明な、水のような波が白い空間の上に広がっていく。それが通り過ぎた場所から、新しい輪郭が浮かび上がってくる。見知らぬ家々の形。木造の屋根。石畳の道――どれも、生まれてから一度も目にしたことのないものばかりだった。
『……これは、何だ』
一秒前まで漆黒だったはずの空、星が散っていたはずの空が、今は濃い青に染まっている。どこか別の場所の、真昼のように。
足元がしっかりと実体を伴い、地面として固まった。次の瞬間、景色全体がチューニングの狂った映像のように瞬いた。光の断片が震え、ようやくこの見知らぬ空間に落ち着く。
頭がぼうっとする。左耳の奥で、キーンという高い音が鳴り続けていた。プールに長く潜っていたあとのような感覚だ。
周りでは、見たこともない服を着た人々が行き交っている。笑い合い、話し込み、何もないところから突然現れたこの少年の存在などまるで気にも留めずに。
『こ、ここは……どこだ?』
『待てよ……』
一拍置いて、何かがかちりと嵌まる感覚があった。疑問は、あっという間に、ほとんど高揚に近い確信へと変わっていく。
「異世界に召喚された――!」
両手を空へ突き上げ、腰を前に突き出しながら叫んだ。まだ現実だと信じきれない、青い空を見つめたまま。声は通りのざわめきを突き抜け、何人もの好奇の視線を引き寄せた。
近くを通りかかった人々が、明らかな困惑の表情でこちらを見る。何人かは一瞬だけ足を止め、首を振ってからまた歩き去っていった。
彼はそんな視線を気にも留めず、慌てて財布をポケットから取り出し、震える指で中を確かめる。
「円って……この世界でも使えるのか?」
一枚一枚、小銭を数える。まるでその小さな仕草に、自分の生存そのものがかかっているかのように。
「……見てみよう」
小銭を財布に戻し、群衆の中へ歩き出す。膝はまだ動揺で微かに震えていたが、足取りだけは決めていた。理論を試せる店を探して。
『中世風の世界……らしいな』
歩きながら、道の両側にそびえる石造りと木造の建物を眺める。二階建てや三階建てのものもあり、黒ずんだ梁が壁を斜めに走り、小さな窓には分厚く歪んだガラスが嵌まっている。
色褪せた布の天幕が市場の露店の上ではためき、古びた木の柱に支えられていた。しゃがれ声の商人たちが、声を張り上げて商品を売り込んでいる。見たこともない色をした果物。刺繍の入った布。革の敷物の上に並べられた、鈍く光るナイフ。
焼きたてのパンの匂いが、家畜と湿った土の匂いに混ざり合う。時折、甘い香辛料のような香りも漂ってくる――嗅いだことのない匂いだった。
すべてが異質で、それでいて、ひどく鮮やかだった。ほんの少し前まで、自分の世界で骨まで凍えていた寒さすら、一瞬忘れてしまうほどに。
群衆をかき分けて進む。見たこともない姿の獣に引かれた荷車を避け、店先で賑やかに話し込む人々を通り過ぎる。大人たちの足の間を子供が駆け抜け、野良犬が屋台の下に落ちた食べ残しを嗅ぎ回っていた。
足元のアスファルトは、いつの間にか不揃いな石畳に変わっていた。何世代分もの足跡に磨り減った石。踏みしめるたびに響く音も違う――乾いていて、どこか古い。
やがて足を止めたのは、小さな宝石店の前だった。ショーウィンドウが色とりどりの光を放ち、たちまち目を引きつける。ガラスに反射した陽光が、小さな虹となって踊っていた。
「あの、円って使えますか?」
「円? 何だ、それは」
店主――働き詰めの手と、無造作に整えられた白髪混じりの髭を持つ中年の男が、怪訝そうに首を傾げた。この見慣れぬ服を着た若者が何を言っているのか、まるでわからないという顔だった。彼が店先に近づいてきた時から、その奇妙な身なりはとうに目に留まっていたらしい。
高森の目が大きく見開かれる。冷たい汗が一筋、頬を伝った。積み上げたばかりのわずかな希望が、数秒で崩れ落ちていくのを感じながら。
「……いえ、何でもないです。お邪魔しました」
店主はさして気にする様子もなく頷き、また店先の宝石を並べ直し始めた。この若者の頭の中で今まさに崩れ去った小さな絶望など、知る由もなく。
肩を落とし、高森はその場を離れた。当てもなく人混みを歩き、自分のものではない空を映す水たまりをいくつも避けながら、やがて表通りの喧騒から少し離れた石段を見つけた。高い建物の影に、半ば隠れるようにして。
そこに腰を下ろす。膝に肘をつき、状況の重みを一気に受け止める。まるで今まで、体だけが惰性で走り続けていたかのように。
『……異世界、か。円すら使えないのに、どうやって生きていけばいいんだ。クソ。挨拶すらできなかった……』
両手で自分の頬を一度、強く叩いた。肌がじんと熱くなるほどの強さで。その痛みで思考を振り払い、目の前の問題に意識を戻そうとする。
『冒険者の学校とか、この辺にあるんだろうか……最初から転生だったら、もっと楽だったのに』
しばらくそのまま座り続けた。石の冷たさが手のひらに伝わってくる。行き交う人々のざわめきが絶えず耳に届く――急ぐ足音、誰かの笑い声、遠くで軋む木製の荷車の音。
高く昇った太陽が、うなじをわずかに温めていた。数分前――彼自身の体感では――まで凍えていた夜との落差が、妙に現実味を欠いていた。
一度、深く息を吸う。見知らぬ世界の空気で肺を満たし、ようやく立ち上がった。両手でズボンの埃を払い落とし、誰かに話を聞く覚悟を決めながら。




