第一章 龍について
最初の章は、龍とは何かについて書く。一言断っておくと、私にできるのは、五十年のあいだに見たもの、聞いたもの、数えたものを並べて、そこから言えることと言えないことの境目に、杭を打っておくことだけである。学問とは杭打ちである、と私は思っている。畑を作るのは、後から来る誰かでよい。
まず、龍という言葉から始めたい。北の私の郷では、翼のある大蜥蜴のようなあの姿を龍と呼ぶ。だが南の谷では、山ほどもある猪の主を龍と呼び、東の川筋では、淵に棲む大亀を、西の高地では、群れを離れて雲を踏む馬を、海辺では、燃える尾を引く大鳥を、それぞれ龍と呼んでいる。姿はてんでばらばらである。蛇もいる。私たちが絵物語で見る、あの角と髭のある長いお方もいる。つまり龍とは、姿かたちの名ではない。人が、あるものたちに出会ったとき、これはもう獣ではない、と観念して差し出す言葉である。籠のような言葉だと思えばよい。中身は一頭ごとに違う。
では、その籠に入るものたちに、共通することは何か。私の帳面から拾えるのは、四つである。第一に、途方もない魔力を身の内に湛えていること。龍のかたわらでは、羅針の針が狂い、焚き火の炎が風もないのに伏せる。第二に、魔導を巧みに使うこと。ただし人のそれとは似ても似つかない。私たちは呪文の言葉を組んで、ようやく火の玉ひとつを呼ぶが、龍は唱えない。望むだけである。雨の龍が身じろぎすれば雲が集まり、猪の主が眠れば山の獣が冬を先取りして眠る。世界のほうが、龍の機嫌を先回りして整うように見える。第三に、長命であること。数百年は当たり前で、最も古い方々は、神代からの千年を超えて生きているという。そして第四に、人の言葉を解すること。ただし、解することと、話してくれることは、別の話である。
龍とは、生まれつき特別な種族なのではなく、成った者たちだといわれる。神代のころ、生まれながらに豊かな魔力を持つ生き物が、そこかしこにいた。その大半は寿命のうちに死んだが、ごく稀に、長く生き延びる者がいた。生きるほどに魔力は溜まり、溜まるほどに命は延び、延びるほどにまた溜まる。そうして幾百年ののち、あるところで境を越え、獣でも鳥でもない、別のものに昇りつめる。書物には、昇華と呼んだり、抜ける、と言ったりする。龍は、龍という種に生まれたのではない。猪として、亀として、蛇として生まれ、長い長い生涯の果てに、それぞれ一頭きりの何かに成ったのである。
だから、こう言ってしまいたい。龍という種は、いない。一頭ごとに、その一頭という種がいるだけである。私が龍語と呼んでいるものも、正しくは一頭ごとの言葉の集まりで、方言などという生易しい違いではない。それでも根のところに共通の骨組みがあることは、五十年の書き取りで確かめてある。骨組みが同じなのは、彼らが同じ世界から魔力を汲んで成ったからだろうと私は考えている。
人と龍との間柄は、土地によってまるで違う。雨の龍を神に準ずるものとして祀り、年に一度の舞を欠かさない地方がある。山の主と境を分け合い、こちらの尾根までは伐らない、あちらの谷までは下りない、と暗黙の約定で百年暮らしてきた村がある。淵の大亀に子の名を報せに行く川筋の習わしもある。逆に、宝を抱く龍を討とうとして、幾代もの勇士を谷底に積んだ土地もある。どちらが正しいという話をする気はない。ただ帳面の上では、龍を祀る土地と龍と争う土地とで、龍の振る舞いそのものはさほど変わらない。変わるのは、人の側の語り方である。このことは、覚えておいて損がない。
もうひとつ、書いておかねばならない伝えがある。人の身でありながら、修めた果てに龍に至った者がいた、という話である。互いに遠く離れた三つの土地で、私はこの伝えを聞いた。細部はまるで違うのに、骨だけが同じだった。事実かどうか、私には言えない。龍に確かめる機会は、生涯に一度しかなかったし、その夜には、これよりも先に訊きたいことが多すぎた。ゆえにこの伝えは、聞いたことの頁に、聞いたままを書き留めるにとどめる。
最後に、本書の枠を引いておく。名と棲み処が人に知られている龍は、私の帳面で二十と六頭ある。知られていない龍がその何倍いるのかは、誰にも分からない。五十年で私が会いに行けたのは、そのうち十七頭。姿を拝めたのは十一頭。そして、書くに足る出会いになったのは、七つの旅である。次の章から、その七つを、古い順に書いていく。行程も、路銀も、失敗も、待ちぼうけの日数も、あったとおりに書く。龍の話であると同時に、龍に会いに行くとはどういうことかの話でもあるからだ。矢を持たずに山へ入る者が、これから七度、山に入る。




