第八話 振り返る時間がありません
契約書の最後の欄に、ヴィオラは自分の名を書き入れた。
ランメルト商会、拡張契約。辺境の商業ギルドが正式に認めた、隣国との交易路の共同運用契約だった。半年前、荷は薬草図鑑一冊きりだったことを思えば、随分と遠くまで来たものだ。契約書の署名欄には、公爵家の名も、誰かの後ろ盾を示す一文もない。ただ、ヴィオラ・ランメルトという名前だけが、そこにある。窓から差し込む光が、その署名の上に静かに落ちていた。
立会人を務めたギルドの書記官が、最後の頁を確認しながら、感心したように呟いた。
「これで正式に、あなたの商会ということになりますね」
書記官は、そう告げながら、写しを一部差し出した。ヴィオラは、それを丁寧に受け取り、鞄に収める。誰かの手柄として扱われることのない、自分の名前だけの契約書だった。六年間、公爵家の帳簿に書き続けてきた数字とは、まるで違う重みがある。あの帳簿には、どれだけ丁寧に記帳しても、自分の名前が載ることはなかった。今、目の前にあるこの一枚には、それが当たり前のようにある。
書記官が、鞄に収められていく契約書を見ながら、尋ねた。
「以前は、どちらかの商会にお勤めだったのですか」
「以前は、家の帳簿を預かっておりました」
それ以上は説明しなかった。書記官も、深くは尋ねてこない。この土地では、以前の身の上を根掘り葉掘り聞くことは、あまり歓迎されない作法だった。誰もが、多かれ少なかれ、何かを置いてこの土地へ流れ着いている。
書記官が退室したあと、ヴィオラはしばらく、その署名を見つめていた。かつての家政の帳簿と、今の契約書。同じ手が書いたものなのに、扱われ方はまるで違う。数字を扱う手つきは、六年前から何も変わっていないというのに。
窓の外では、ギルドの荷馬車が、いつも通り出入りしている。誰かが自分の名を知っているという事実に、まだ慣れていない自分に気づく。半年前は、名前を尋ねられることすら、警戒の対象だった。今は、名を尋ねられれば、素直に名乗ることができる。それだけの変化に、半年という月日が必要だった。
署名を終えたその足で、ヴィオラは辺境の学問所へ向かった。腕には、古い薬草図鑑を抱えている。実母の形見であり、六年分の調合の覚え書きが、余白にびっしりと書き込まれた一冊だった。
学問所の老学者は、図鑑を受け取ると、しばらく無言で頁をめくり続けた。指の動きが、時折止まる。書庫の奥から漂う、古い紙の匂いが、公爵邸の書庫とは違う静けさを持っていた。
「これほど詳細な実地の記録は、我々の書庫にもありません。お預かりしてよろしいのですか」
「はい。誰にも見られないまま、棚の奥に仕舞われているよりは、ここで誰かの役に立つほうが、この本にとってもよいと思います」
老学者は、深く頷いた。誰にも価値を認められなかった趣味の本が、今では学問所の基礎資料として扱われる。半年前には、想像もしなかった行き先だった。手放す寂しさより、この本がようやく正当な場所を得たことのほうが、ヴィオラには大きかった。
「差し支えなければ、記した本人の名も、資料に添えたいのですが」
老学者が、遠慮がちに尋ねた。分厚い眼鏡の奥の目が、期待するように光っている。ヴィオラは、少し考えてから頷く。誰の目にも触れなかった余白の書き込みに、初めて自分の名前が添えられることになる。それを拒む理由は、もうどこにもなかった。
夕刻、商会の仲間たちが、店先に集まってきた。宿の女主人が料理を持ち寄り、麻布を商う女が余った端切れで飾りを作り、パン屋の主人が焼きたての菓子パンを山ほど抱えてやってくる。半年前、誰も彼女の薬に手を伸ばさなかったことを思えば、この賑わいは、まだ少し現実味に欠けるほどだった。店の軒先に吊るされた提灯は、この街の祭りで使うものを、宿の女主人が借りてきたものらしい。
「拡張、おめでとうさん。これで、もっと大きい商いができるね」
宿の女主人が、そう言って、ヴィオラの肩を軽く叩いた。ヴィオラは、その気安さに、素直に礼を返す。半年前なら、こうして肩を叩かれることにも身構えていただろう。
「先日のホールでの一件も、あんたらしいと思ったよ。声も荒げず、それでいてはっきり断る。ああいうのは、なかなかできることじゃない」
麻布の女が、飾りを結びながら、そう付け加えた。パン屋の主人も、頷きながら口を挟む。
「公爵様とやらも、随分としょげた顔で帰っていったらしいな」
「そのお話は、もう結構です」
ヴィオラは、それに小さく笑みを返しただけで、多くは語らなかった。あの日のことは、もう振り返る対象ではない。宿の女主人が、話題を変えるように、新しい皿を卓に運んでくる。誰も、それ以上は深追いしなかった。
レナートも、少し遅れて顔を出した。手には、祝いの印だという、辺境特有の織物が一巻き。仕事帰りのまま、上着の袖を軽くまくり上げている。
「開拓庁からの正式な祝いだ、ということにしておいてください」
「私的な贈り物、ということにはしないのですか」
「そこは、あなたに任せます」
レナートは、そう言って、初めて少し照れたような顔をした。いつも率直な物言いをする男の、珍しい表情だった。周りの仲間たちが、それを見てひやかすように囃し立てたが、レナートは涼しい顔で受け流している。半年前に出会った、書類の山に囲まれていた男とは、少し違う顔つきに見えた。
祝いの席が一段落した頃、ヴィオラとレナートは、店先の軒下で並んで座った。人々の笑い声が、少し離れたところから聞こえてくる。夜の空気は、辺境らしく澄んでいる。
「名誉回復の件も、あれで片がついたと聞きました」
レナートが、静かに切り出した。
「はい。もう、振り返る用事もありません」
「戻る気は、本当になかったのですか」
レナートにしては珍しく、踏み込んだ問いだった。ヴィオラは、少し考えてから答える。
「一度も。ただ、この店を空けるわけにはいかない、という理由のほうが、大きかったかもしれません」
「振り返らなくていい。ここでの明日を、一緒に見ていきましょう」
その一言に、これまでの半年の意味が、静かに重なっていく気がした。ヴィオラは、隣に座るレナートの横顔を見た。誰かに評価されるためではなく、ただ隣にいてほしいと思える相手が、今、確かにここにいる。半年前の自分には、想像もつかなかった感覚だった。
「でしたら、明日からもよろしくお願いします、レナート」
初めて、敬称を付けずにその名を呼んだ。レナートは、驚いたように瞬きを二度したあと、静かに笑った。差し出された手を、ヴィオラはためらわず取る。指先に伝わる体温が、契約書の署名よりも、ずっと確かな手応えだった。
肩には、嫁いできた年に選んだ、あの深緑のショールを羽織っている。追放の日には惨めさの象徴でしかなかった布地が、今では、この土地の気候に合わせて自分で選んだ、実用的な仕事着の一部になっていた。同じ布なのに、纏う意味は、もうまるで別のものだ。
夜風が、ショールの端をわずかに揺らした。宿の女主人が、遠くから「そろそろ乾杯だよ」と声をかけてくる。ヴィオラは、小さく手を上げて応えた。
祝いの声が、また少し大きくなる。ヴィオラは、その輪の中に戻りながら、明日の予定を頭の中で数え始めた。仕入れの算段、契約の詳細の詰め、学問所への追加の相談、レナートとの約束。数え終える前に、その全部が、もう自分の意思で選んだ日々でできていることに気づく。
かつて、誰かに評価されることだけを願って、六年間を過ごした日々があった。今は、評価を願う暇もないほど、自分で選んだ一日一日が積み重なっている。振り返る時間がない、というのは、思っていたよりずっと、心地のよい忙しさだった。
隣で、レナートが小さく欠伸を噛み殺している。祝いの席の片付けは、明日に回すことになりそうだ。ヴィオラは、その様子に、声を立てずに笑った。明日も、その次の日も、こうして誰かと笑い合える時間が続いていく。証明する必要のない、ただの日常として。
離縁されてから半年。振り返る暇がないほど、私は今、幸せなのです。




