第七話 振り返らない返事
辺境の商業ギルドホールに、その日は朝から人がよく集まっていた。王家の使者が来るという報せは、数日前から届いていた。ヴィオラも招集の知らせを受け取ってはいたが、詳しい用件までは聞かされていない。いつも通り帳面をつけ、いつも通り店を開け、ただ午後の予定にホールでの集まりが一件加わっただけのことだった。
店を出るとき、店番として雇った若い娘が、少し緊張した面持ちで見送ってくれた。この娘には、店の留守を任せて数刻になる。半年前は、誰かに何かを任せることすら、自分には縁のない話だと思っていた。今は、それが当たり前になっている。留守を任せられるだけの人手が持てたことも、この半年で得た小さな変化のひとつだった。
ホールの扉をくぐると、正面に見慣れない紋章の一団が控えていた。王家の紋章をつけた一団と、その少し後ろに、エッシェンバッハ公爵家の紋章をつけた一団。ヴィオラは、後者の中にエドヴァルドの姿を認めたが、足を止めることはしなかった。ただ、いつもの歩調のまま、指定された席へと進む。半年前、追われるようにこの土地へ来た日と同じ格好で、同じ足取りだったなら、きっと今日のこの場は、もっと違う空気になっていただろう。
ホールの奥には、この半年で顔なじみになった商会の面々が並んでいた。パン屋の主人、宿の女主人、麻布を商う年配の女。普段は市場で気安く声をかけ合う相手たちが、今日は場違いなほど畏まった顔で、行儀よく座っている。開拓長官のレナートも、末席に静かに控えていた。目が合うと、彼は小さく頷いただけで、それ以上の仕草は見せなかった。何かを保証するでもなく、ただそこにいる、というだけの頷きだった。
正面の壁際には、辺境の商業ギルドの旗が掛けられている。ヴィオラが半年前、この土地で初めて交易の許可を得たときにくぐった同じ扉を、今日は王家の紋章をつけた一団が使っていた。あのとき荷は薬草図鑑一冊きりだったことを思えば、随分と遠くまで来たものだと思う。もっとも、そんな感慨に浸っている暇は、今はない。壁の旗の刺繍も、初めて訪れたときには気づかなかった細かな意匠が、今ならよく見える。
王家の使者、ヴァイス卿が進み出た。手にした書状には、王家の印章が捺されている。
「エッシェンバッハ公爵家における窃盗の疑惑につき、王家の名において再調査を行った結果を、ここに報告する」
儀礼的な口上が、しばらく続いた。イレーネ・フォン・エッシェンバッハの証言に基づく疑惑は根拠を欠き、当時公爵夫人であったヴィオラ・ランメルトに何らの落ち度もなかったこと。この場をもって、正式にその名誉を回復すること。淡々とした声で読み上げられる文言に、ホールの中がざわついた。
「以前から、そんな気はしていたのよ」
隣の席の女主人が、小声で誰にともなく呟く。反対側では、パン屋の主人が、腕を組んだまま何度も頷いていた。麻布の女は、扇の陰でひそひそと連れに何かを話している。半年前、この街に流れてきた素性の知れない女という目で見られていたことを思えば、この反応も、随分と変わったものだった。ヴィオラは、それらの反応に答えず、ただヴァイス卿の言葉に耳を傾ける。半年前なら、この一言を、涙とともに聞いていたかもしれない。今は、耳を素通りしていく報告のように感じられた。潔白の証明そのものより、それを聞く自分の心が、これほど凪いでいることのほうが、意外だった。
宣言が終わると、ヴァイス卿が一歩下がった。かわって、エドヴァルドが前に進み出る。旅装のまま、ろくに休んでもいないのだろう、顔にはうっすらと疲れの色があった。馬車を乗り継いで来たにしては、随分と急いだ様子だった。それだけの用向きがあると、誰の目にも分かる。
「ヴィオラ」
その一言だけで、ホールの空気が変わった。誰もが、次に続く言葉を待っている。エドヴァルドの背筋は、以前より心持ち曲がって見えた。旅の疲れのせいか、それとも別の理由か、ヴィオラには判じかねる。少なくとも、以前の彼が纏っていた、体面を保つことに慣れた余裕は、今はどこにも見当たらなかった。
「名誉は、こうして回復された。あとは、お前が戻ってくれさえすれば、すべて元通りになる」
そこで一度、言葉を切った。集まった人々の視線が、エドヴァルドとヴィオラのあいだを行き来する。宿の女主人が、隣の客と目配せを交わした。誰もが、この場で何かが決着するのだと察している。
「戻ってきてくれないか。今度こそ、私が守る」
エドヴァルドの声には、これまで聞いたことのない切実さがあった。ホールの中が、水を打ったように静まり返る。宿の女主人は、身を乗り出すようにして続きを待った。麻布の女も、手にした扇を止めている。パン屋の主人でさえ、腕組みを解いて、じっと成り行きを見守っていた。この静けさのまま、頷きひとつで、すべてが元の形に戻るのではないかと、誰もが息をひそめている。レナートだけは、腕を組んだまま、視線を動かさなかった。
ヴィオラは、しばらく何も言わなかった。長い沈黙が落ちる。エドヴァルドの表情に、わずかな希望の色が差した。会場のどこかで、椅子の軋む音がした。その色を見て、ヴィオラは、ここでうなずけば、この場にいる誰もが安堵するのだろうと思った。この場の誰にとっても、そのほうが収まりがいい。丸く収まった話として、この街でもしばらく語り草になるだろう。宿の女主人などは、きっと何年も後まで、この日のことを客に語って聞かせるに違いない。だが、収まりのよさと、自分の答えは、別のものだった。
「お心遣いには感謝いたします。ですが公爵様、もう戻る場所を、探してはおりません」
静かな声だった。声を荒げるでも、涙ぐむでもない。事実を告げるときと同じ調子で、それだけを述べた。
ホールの中に、また別の静けさが落ちた。今度のそれは、期待のではなく、決着を受け止める静けさだ。エドヴァルドは、何かを言いかけて、結局は言葉を継げなかった。
「半年前、私を追い出したときの公爵様は、確かめる労を惜しまれました。今、私に戻ってきてほしいと願うことにも、同じだけの労を割いていただけたとは、正直、思えません」
言葉を選びながら、それだけを付け加えた。責める響きは薄く、ただ事実を並べているだけの声だ。それだけに、かえって重く響いた。
エドヴァルドは、卓に手をついた。その手が、微かに震えている。何か反論を探しているようだったが、口を開きかけては、また閉じた。反論すべき点が、どこにも見当たらないのだろう。半年前の自分なら、ここで声を荒げ、話をうやむやにしていたかもしれない。だが、今のエドヴァルドには、その気力すら残っていないようだった。ヴァイス卿が、静かに一歩下がり、それ以上は何も言わなかった。公正な立場を保つことだけが、彼の役目だ。
宿の女主人が、隣の客に何か囁いた。麻布の女は、扇を握ったまま、動かない。誰も、この結末に異を唱える者はいなかった。ホールに集まった誰の目にも、ヴィオラの答えが、怒りでも意地でもなく、ただの決定として映っているのが分かった。パン屋の主人が、小さく息をついて、腕組みを解いた。それが、この場の空気を代弁しているように見える。
ヴィオラは、席を立った。深く一礼し、それ以上は何も言わずに、ホールの出口へと向かう。振り返ることはしなかった。振り返る理由が、もう見当たらない。
出口へ向かう途中、レナートの前を通り過ぎた。彼は、何も言わず、ただ小さく頷いた。付き添おうとも、労おうともしない。それでいて、その場に立ち会うことだけは、最後までやめない。その頷き方だけで、十分だ。
出口の扉に手をかけたとき、背後で、エドヴァルドが何か言いかけたのが聞こえた。だが、その言葉が形になる前に、扉は閉まった。外は、いつもと変わらない辺境の午後だった。市場の喧騒が、遠くから風に乗って届く。ホールの中の静けさと、外のこの騒々しさの落差に、ヴィオラは少しだけ、おかしさを覚えた。荷馬車の車輪の音が、遠くで一つ、大きく響いた。
市場の荷車の音だけが、閉じた扉の向こうへ遠ざかっていった。




