第六話 数えられなかったもの
書斎の机には、二通の報告書が並んでいた。一通は、イレーネの浪費の全容を示す帳簿の写し。もう一通は、辺境の商業ギルドから届いた、新規加盟業者の名簿だ。読み比べるつもりで並べたわけではなかったが、結果として、そうなった。書記官が並べたのか、自分がそう並べたのか、今となっては定かでない。
その名簿の末尾に、見覚えのある名前があった。ランメルト。旧姓に戻ったヴィオラの名だ。半年足らずで、辺境の商業ギルドに名を連ねるまでになったらしい。取引額の欄には、この屋敷が抱えている未払いの総額よりも、大きな数字が並んでいた。担当の書記官が、わざわざ付け足した一文もある。新規加盟者の中でも、ここまで急速に信用を得た例は珍しい、と。エドヴァルドは、その一文を、何度か読み返した。
イレーネの浪費の全容は、想像していたよりも根が深かった。宝石商や仕立屋だけでなく、賭け事の借金にまで手を出していたことが、調べを進めるうちに明らかになる。使用人に金を握らせ、支払いの督促を屋敷の奥まで通させないようにしていた形跡まであった。誰にどれだけ握らせていたのか、書付を見るほどに、数字が膨らんでいく。家督を継ぐ資格のある者として遇してきたが、この期に及んでは、それも見直さざるを得ない。
エドヴァルドは、イレーネの部屋の扉を叩いた。応えは、少し間を置いてから返ってきた。部屋の中は、薄暗かった。カーテンを閉め切ったまま、イレーネは寝台の端に座っている。机の上には、まだ支払いの終わっていない仕立屋の見本布が、無造作に広げられたままだ。窓の外の光が、それを鈍く照らしている。
「首飾りをヴィオラの戸棚へ持ち込んだことも、確認が取れた。虚偽の証言と浪費の責任として、お前の当主候補としての立場を取り上げる」
それだけを告げるつもりだった。しかし言葉にした途端、自分の声が、思いのほか硬く響いた。
「お兄様まで、私を見限るの?」
イレーネの声は、震えていた。責任を問われることへの恐れはあっても、そこにヴィオラへの詫びの色は、最後まで見えない。宝石商への未払いも、仕立屋への言い訳も、結局は自分がどう扱われるかという一点に、話が戻っていく。窃盗の疑いをかけたときの言葉を、悔いる素振りすら見せなかった。むしろ、自分が被害者であるかのような口ぶりだった。
エドヴァルドは、何も言い返さなかった。ただ、扉を閉めて部屋を出る。廊下を歩きながら、妹の声の震えが、母の看病の声とは違う種類のものだと、いまさらのように思い当たった。片方は誰かを気遣う震えで、もう片方は、自分のことしか映していない震えだった。その違いに、六年間気づかずにきたことが、今さらながら重い。
母カタリナの部屋を訪ねたのは、その足でのことだった。以前は、月に一度顔を出せば十分だと思っていた。報告書を机に置くと、足は自然と母の部屋へ向く。
寝台に横たわるカタリナは、記憶にあるよりも小さく見えた。頬はこけ、以前は艶やかだった白髪も、今はただ乾いている。枕元には、空になった薬瓶がいくつか置かれていた。ラベルの文字は、以前より粗い手で書かれている。窓辺の花瓶には、季節外れの造花が一輪、埃をかぶったまま挿してあった。誰も生花に取り替える暇がないのだろう。
「母上の具合は、いかがですか」
「良くも悪くも、いつも通りだよ」
カタリナは、そう言って、微かに笑った。だが、その声には、以前より張りがない。侍医の書付には、目立った急変はないと記されていた。それでも、こうして直に顔を見れば、書付だけでは分からない衰えが見て取れる。
「薬は、ちゃんと効いていますか」
「前のとは、少し違うようだね。それでも、ないよりはましさ」
カタリナは、それ以上は不満を口にしなかった。ただ、窓の外へ視線を向ける。長年連れ添った侍女ですら、以前ほど頻繁には顔を出さなくなっていた。誰が悪いというより、屋敷全体の手が足りていないのだろう。枕元の薬瓶を、エドヴァルドは手に取った。母の看病の細やかさが、いつからこれほど粗くなっていたのか、自分は知らない。知らないままでいられたのは、それを気に留めずにいられる立場にいたからだと、今になって思う。
「母上の容態が、こんなに悪くなるまで、報せがなかったわけではない。私が、聞いていなかっただけだ」
独り言のように、そう漏らした。誰に向けた言葉でもなかった。
「ヴィオラは、息をするように尽くす子だったよ。誰も、気づかせてもらえなかっただけで」
カタリナが、静かにそう続けた。責める調子はどこにもない。ただ、事実を述べているだけの声だ。
「あの日は熱で起き上がれず、あなたたちが何を決めたのかも、後から聞いたよ」
その一言に、エドヴァルドは、母がすべてを承知の上で沈黙していたわけではなかったのだと知る。知ったところで、取り返しがつくわけではなかったが。
エドヴァルドは、しばらく何も言えなかった。母の言葉には、恨みも同情もなく、ただ見たままを述べる響きだけがあった。それが、かえって重い。窓の外で、鳥の声がひとつ聞こえた。それだけの静けさが、部屋を満たしていた。
自室に戻ってから、エドヴァルドは、これまで数えたことのないものを、ひとつずつ数え始めた。
母の看病の質。息をするように整えられていた家の内側は、誰か一人の手が抜けただけで、これほど傾くものだったのか。取引先からの信用。ランメルトの名がなければ、この半年の取引の何割が、今も続いていたのか分からない。屋敷の体面。使用人たちの、あの短くなった会釈の意味も、今なら分かる。半年前まで当然のようにあったものが、今はどれも欠けている。
数えれば数えるほど、その一つ一つが、誰か特定の手によって支えられていたことに行き着いた。その手の持ち主の名は、一つしかない。それに、これほど遅くに気づくとは、我ながら思わなかった。信じている、と口にしたあの日、自分は何を根拠にそう言ったのか。今となっては、思い出せない。ただ確認する労を惜しんだだけの言葉だったのかもしれないと、初めて疑った。婚礼の夜、まだ何も知らないその横顔を、悪くないと思ったことすら、今はもう遠い記憶だった。
名誉の回復だけなら、勅使を立てれば済む。だが、それだけでは、この数え上げた欠落のどれ一つも埋まらない。辺境で一から築いた財のことも、耳に入っていた。もう、こちらから援助を申し出る余地さえないほどの水準らしい。詫びる言葉ひとつで元に戻るとは、さすがに思っていなかった。
エドヴァルドは、辺境行きの支度を命じた。自ら出向く以外に、詫びる方法が見当たらない。書面での謝罪も、金での埋め合わせも、この際は意味を持たない気がした。
数え終えて、初めて気づいた。取り戻せるものが、一つもないことに。




