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離縁して半年、幸福すぎて振り返る時間がありません  作者: 九葉(くずは)


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第五話 開けられなかった手紙

辺境の暮らしにも、少しずつ律動ができてきた。朝は薬草の仕分け、昼は帳面付け、夕方は明日の仕入れの算段。誰かに指図されるわけでもないのに、一日の形が自然と決まっていく。宿の一室だった仕事場も、今では小さな店構えに変わっていた。棚には、辺境で採れる薬草だけでなく、隣の集落から仕入れた織物も並ぶようになっている。客の顔ぶれも、このひと月で随分と増えた。


その日、宿の主人が差し出したのは、見覚えのある封蝋の手紙だった。エッシェンバッハ公爵家の紋章が、蝋の上に押されている。


「公爵家から、帰還を願う書状だそうです」


宿の主人が、遠慮がちにそう告げた。使いの者からそう聞かされたのだろう。ヴィオラは、それを一瞥しただけで、帳面の上に置いた。開ける手は動かなかった。宿の主人は、何か言いたそうな顔をしていたが、結局は黙って下がっていく。


手紙は、それから一日中、帳面の隅に置かれたままだった。仕入れの算段をする合間に、視界の端にそれが入る。読まなくても、差出人の見当はついた。読んだところで、何が書かれているかも、おおよそ想像がつく。詫びか、催促か、あるいはその両方か。どちらであっても、今の暮らしを乱す種にしかならない気がした。


開けるのは、簡単だ。指一本の話でしかない。それでも、その一本の指が動かなかった。理由は、自分でも分からない。


夕方、店じまいの前に、荷を数え直した。薬草の束、織物の反物、空になった瓶。数字を合わせるあいだは、手紙のことを考えずに済む。数える手を止めれば、また封蝋の紋章が目に入る。それが分かっていて、いつもより丁寧に数を数えた。


その日の仕事は、いつも通りこなした。夕刻、帳面をつけ終えた頃、レナートが商会の書類を届けに立ち寄る。机の上の手紙に、レナートの目が留まった。一瞬だけ。それだけで、彼が気づいたことは分かった。


「読まなくていいのか」


書類を置きながら、何気ない調子で尋ねる。


「読んだところで、内容は変わりません」


ヴィオラは、帳面から目を離さずに答えた。それ以上、深追いする気配はレナートにもない。ただ、しばらく黙って、その場に立っていた。


沈黙が、思ったより長く続いた。ヴィオラは、羽根ペンを置き、手紙のほうへ視線を移す。


「怖くなかったと言えば、嘘になります」


自分でも、なぜこの言葉が出たのか分からなかった。誰にも言うつもりのなかったことだ。


「開けてしまえば、何かが決まってしまう気がして」


読めば、詫びの言葉に心が動くかもしれない。あるいは、催促の言葉に、まだ自分が何かを負っているのだと思い知らされるかもしれない。どちらも、今は望まない。


レナートは、何も言わずに、ただ頷いた。急かす様子も、慰める様子もない。しばらくして、椅子を引き寄せ、向かいに腰を下ろした。


「私も、都で『使えない』と言われるくらいなら、と逃げてきた口です」


しばらくの沈黙のあと、レナートがそう続けた。


「本当は、有力な縁談もありました。ですが、それを受ければ、いずれ誰かの跡継ぎとして『使える駒』であることだけを求められる。それが分かっていて、辺境行きを自分から願い出ました」


飾らない口調は、いつもと変わらなかった。それでも、そこに滲む苦さまでは、隠しきれていない。


ヴィオラは、初めて、レナートの横顔をまじまじと見た。誰にでも公平で、何にも動じないように見えていた男にも、逃げてきた場所があった。都合よく評価してくれる相手だと、無意識に線を引いていた自分に気づく。


「レナートさんも、都でそう言われたのですか」


「言われはしませんでしたが、そう扱われている気はしていました。跡継ぎの予備、くらいの意味で」


「それで、辺境へ」


「ここでは、誰も私を予備とは呼びません。ただ、開拓長官と呼ぶだけです」


短い言葉だ。それでも、その一言に、都での六年間より重いものが乗っている気がした。ヴィオラは、しばらく黙って、その言葉を胸の内で繰り返す。


「私も、似たようなものかもしれません」


ヴィオラは、そう続けた。帳簿の腕を評価されたことは、六年間で一度もなかった。ただ、あって当然の道具として扱われている。


「道具ではなく、腕だと言ってくれたのは、あなたが初めてです」


「ヴィオラ殿の腕は、誰の目にも道具には見えません」


レナートは、静かにそう返した。からかう響きはない。互いの持ち場が、少しだけ重なった気がする瞬間だった。手紙のことも、都のことも、まだ何も解決してはいない。それでも、抱え込んでいた重さの輪郭が、わずかに薄くなった。


レナートが帰ったあと、ヴィオラは手紙を、鞄の底にしまった。読むつもりは、まだない。それでも、以前より軽い気持ちで、それを仕舞うことができた。棚の薬草図鑑の隣に、その鞄を置く。誰にも見せない二つのものが、並んで収まっていた。


窓の外は、もう暗い。今日の帳面を、最後まで締める。数字は、いつもどおり合っていた。狂いのない一日だった。それでも、今日という日は、これまでの日とは少し違う手触りを残している。


ヴィオラは鞄の留め金を閉じ、明日の仕入れ表を開いた。

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