第四話 誰もいない屋敷で
カタリナ様の咳が、また夜半にひどくなった。ネルは灯りを持って部屋に入り、細い背中をさすった。
以前は、こんな夜でも慌てることはなかった。奥様が調合された煎じ薬が、いつも枕元に用意されていたからだ。瓶の並びも、匙の加減も、すべて奥様の手で整えられていた。夜半に咳がひどくなる日をあらかじめ見越して、多めに作り置いてあることさえあった。季節の変わり目には、庭の隅で摘んだ生の薬草を、わざわざ煮出し直すこともしていたと聞く。今は、薬棚のどこに何があるかを知っている者が、この屋敷にはもういない。
夜が明けて、ネルは台所の薬棚を漁った。似たような瓶がいくつも並んでいるが、どれがどの症状に効くのか、書き付けの一枚も残されていない。奥様は、何年もかけて調合の加減を薬草図鑑の余白に書き込んでおられたはずだが、その本ごと、辺境へ持って行かれたと聞いている。仕方なく、以前使った覚えのある瓶を選び、白湯に溶いて運んだ。手が震えたわけではないが、瓶を選ぶ指先に、いつもより力が入った。
カタリナ様は、それを一口飲んで、すぐに顔をしかめられた。
「これは、前のとは違うね」
ネルは、返す言葉を持たなかった。以前のものと今のものが、どう違うのかを説明できるほど、薬草の知識があるわけではない。ただ、違うということだけは、飲んだ本人が一番よく分かるらしかった。カタリナ様は、それ以上は何も仰らず、窓の外へ視線を移された。その横顔に、ネルは以前より頬がこけたことに気づく。数か月前まで、こんなにやつれてはいらっしゃらなかった。
侍医は週に一度しか屋敷に来ない。その合間の様子を細かく見ているのは、結局のところネルのような使用人だけだった。以前は、奥様がその隙間も埋めていた。侍医の見立てと、日々の小さな変化を突き合わせ、薬の加減を微調整していたのは、いつも奥様のほうだったように思う。
厨房に戻ると、若い下働きの娘が、届いたばかりの野菜の籠を前に困った顔をしていた。頼んでいたものの半分も入っていない。八百屋に問い合わせても、支払いが滞っているから当分は質を落とすと言われたらしい。娘は、それをどう取り次げばいいのか分からず、ネルに助けを求めてきた。以前なら、こうした細々とした帳尻は、奥様のところで一手に片付いていた。今は、誰の仕事とも決まっていない隙間に、次々と小さな不都合が落ちてくる。
その日の午後、取引先の商会から使いの者が来た。仕入れの支払いが、期日を二度過ぎているという。取次に出たネルは、代わりに詫びを述べるほかなかった。
「以前は、こんなことは一度もございませんでした」
使いの者は、責めるでもなく、ただ困った顔でそう言う。長年この屋敷と取引をしてきた顔なじみらしく、皮肉を言う気配はなかったが、それだけに、かえって応える一言だった。以前の帳簿は、期日の一週間も前に支払いを済ませる習わしだったらしい。ネル自身、詳しい額までは知らないが、屋敷の空気が変わったことだけは、日々の些事から伝わってくる。廊下でのすれ違いざまの挨拶が、心持ち短くなった。台所に届く食材の質も、心なしか落ちている。誰かが目を光らせなくなれば、こうしたことは自然と緩んでいくものらしい。
使用人たちのあいだでも、口には出さないが、似たようなことを感じている者は少なくないようだった。古参の庭師は、水やりの当番表が誰の手にも渡っていないと零していたし、洗濯場の女中は、石鹸の仕入れが以前より粗悪になったと嘆いていた。誰もそれを当主に伝える役目を、進んで引き受けようとはしない。角が立つことを、誰もが恐れていた。ネル自身、古株であるというだけで、その役目を負わされている気がしていた。
夕刻、エドヴァルド様が居間にネルを呼んだ。机には、支払いの督促状と、カタリナ様の容態を報告する侍医の書付が並んでいる。
「母の具合が良くないと聞いた。薬湯は、きちんと続けているのか」
「薬湯は続けております。ただ、以前ほどには」
そこで言葉を切った。以前ほどには効いていないとまで言えば、比べる相手の名を出さねばならない。エドヴァルド様は、書付から顔を上げ、ネルを見た。
「取引先の件も、聞いている。何があった」
「支払いの期日が、少し延びましたようで」
言葉を選びながら、そう答えた。詳しい事情を語れば、また比べることになる。ネルの立場で、そこまで踏み込む権利はない。仕えて二十年、この家の面倒事に口を挟んだことは、一度もなかった。それでも、黙って見過ごすことにも、そろそろ限界が近づいていた。
エドヴァルド様は、しばらく黙って書付を見つめていた。やがて、独り言のように呟く。
「以前は、こんなことは何もなかったはずだが」
その言葉に、ネルは何と答えていいか分からなかった。ここで頷けば、当主を裁くことになる。黙っていれば、嘘になる。窓の外で、庭師が生垣を刈る音だけが、いつもと変わらず続いていた。
エドヴァルド様は、督促状の束をもう一度手に取り、日付の欄をひとつずつ指でなぞった。指の動きが、次第に遅くなっていく。侍医の書付にも、もう一度目を通す。母の容態と、支払いの遅れと、その二枚の紙のあいだに、何か繋がりがあるのではないかと疑い始めている顔つきだった。それでも、その繋がりの名を、まだ口にする気にはなれないようだった。
「以前は、と旦那様も仰いますが」
ネルは、一度言葉を切った。ここから先を口にすれば、もう後戻りはできない。それでも、これ以上黙っているほうが、かえって不誠実に思えた。二十年仕えた家への忠義は、当主を庇うことだけではないはずだった。
「奥様がいらした頃は、こんなことにはなりませんでした」
それだけを、静かに述べた。責める調子にはならないよう、努めて平らかな声を選ぶ。エドヴァルド様の視線が、督促状と侍医の書付のあいだを、一度だけ往復した。
部屋の中は、しばらく物音ひとつしなかった。窓の外の生垣を刈る音だけが、変わらず続いている。ネルは、次の言葉を待つでもなく、ただその場に立っていた。当主を追い詰めるつもりはなかったが、引っ込める気にもなれなかった。二十年前、右も左も分からぬまま奉公に上がった日から、この屋敷を悪く言われるのが一番こたえた。それでも今は、悪く言うべき相手が、目の前にいる当主自身であるように思えてならない。
旦那様は、その一言に、しばらく何も返せなかった。




