第95話「『急ぎ』を先にしていたら、急がない四十枚が三日間ずっと残りました」
木曜日の午後二時。
クリーニング工場の仕分け台に、赤い札が増えていた。
《17:00》
《18:00》
《本日中》
昨日から始まった新しい札だった。
各店が客へ「いつ必要か」を聞き、その時刻を工場へ送る。
先に必要なものから仕上げる。
昨日は、それで何人かの遅れを小さくできた。
「分かりやすいね」
渾沌ちゃんが赤い札を一枚つまむ。
「戻してください」
秩序ちゃんが言う。
「見てただけ」
「順番が変わります」
「一枚で?」
「一枚でも」
渾沌ちゃんは戻した。
その下に。
赤くない札があった。
《金曜 7:30》
◇
「これ、明日の朝?」
渾沌ちゃんが聞いた。
工場の主任が振り返る。
「ああ」
「じゃあ結構急ぎじゃない?」
「まだ木曜の二時だから」
主任は別の束を機械へ入れた。
《本日 17:00》
白いワイシャツ六枚。
回転する。
乾いた布の音。
「明日の分は、夜やる」
「昨日も?」
「昨日は水曜だから、もっと余裕あった」
「一昨日は?」
「火曜」
「ずっとあったの?」
主任の手が止まった。
◇
赤くない札の束は、大きかった。
白い布ナプキン。
四十枚。
角に、小さな店名が刺繍されている。
駅前の喫茶店。
毎週月曜に回収。
金曜の朝に納品。
何年も同じ。
「いつからここに?」
秩序ちゃんが聞く。
「月曜」
「今日は木曜です」
「知ってる」
「何枚終わっていますか」
主任は束を見る。
数えた。
「ゼロ」
渾沌ちゃんが目を丸くする。
「ゼロ?」
「毎日、今日中のが入ってきたから」
◇
月曜。
当日仕上げの制服。
火曜。
通夜に使う礼服。
水曜。
昨日の工場停止でずれた二十三枚。
木曜。
朝から《17:00》《18:00》《本日中》。
ナプキンにはずっと、
《金曜 7:30》
と書いてある。
期限は変わっていない。
なのに。
毎日、新しい札がその前へ入った。
「まだ間に合う」
主任が言った。
「今夜やれば」
電話が鳴った。
別店舗から。
「はい」
主任が取る。
「今日の六時?」
顔が少し曇る。
「何枚」
聞く。
「八枚?」
時計を見る。
二時十八分。
「分かった」
電話を切る。
赤い札を八枚書いた。
《18:00》
四十枚の上へ置いた。
◇
「また後ろになった」
渾沌ちゃん。
「今夜やるから」
「何時?」
「急ぎが終わってから」
「急ぎ、増えたら?」
「増えたら、その後」
「その後も増えたら?」
主任が少し苛立った。
「じゃあどうすればいいの」
渾沌ちゃんは黙った。
秩序ちゃんも答えなかった。
◇
三時。
プレス機が一台空いた。
主任はナプキンを持った。
その時。
入口から配送担当が走ってきた。
「主任、これ」
透明袋。
女性用の黒いジャケット。
《17:30》
「一枚だけ」
「一枚なら先やる」
主任はナプキンを置いた。
ジャケットを取る。
渾沌ちゃんがナプキンを見る。
何も言わなかった。
◇
三時四十分。
工場へ一人の男が来た。
制服ではない。
エプロンを畳んで腕に掛けている。
「すみません」
受付の作業員が出る。
「業者の方ですか?」
「駅前の喫茶店です」
主任が顔を上げた。
「あ」
「明日のナプキンなんですけど」
「はい。明日の七時半ですよね」
「そうです」
「間に合います」
男は安心したように頷いた。
それから。
「できれば、今日の閉店までに少しだけ持って帰れませんか」
「今日?」
「明日、六時から仕込みで」
「七時半納品じゃ」
「普段はそれでいいんです」
「じゃあ」
「明日だけ、団体予約が入ってて」
男は四本指を出した。
「四十人」
◇
「何枚必要ですか」
「全部」
主任は答えなかった。
男が続ける。
「紙ナプキンでも営業はできます」
「じゃあ」
「でも、予約のお客さんが、うちで昔から集まってる人たちで」
少し笑う。
「この刺繍のナプキン、毎年写真に写るんです」
主任が四十枚を見る。
白い布。
小さな刺繍。
期限は。
《金曜 7:30》
間違っていない。
約束も破っていない。
まだ。
◇
「今日の時刻、聞いてなかったんですか」
秩序ちゃんが主任へ聞いた。
「金曜朝って契約だから」
「店側も?」
喫茶店の男が答える。
「うちも、それで大丈夫だと思ってました」
「今日までは?」
「今日までは」
主任が深く息を吐いた。
「何時まで店?」
「十時」
時計。
三時四十七分。
◇
主任は機械の予定表を見た。
17:00。
17:30。
18:00。
その後に。
四十枚。
「全部は無理」
男の顔が少し固くなる。
「そうですか」
「今日、何枚あれば助かります?」
「全部って言いたいけど」
男は考えた。
「二十枚」
「二十」
「半分あれば、最初の席だけ布にできる。残りは洗い上がり届いてから替える」
「それなら」
主任は予定表を見る。
「できる」
◇
今度は。
主任が四十枚を二つに分けた。
二十枚。
二十枚。
片方へ新しい札。
《21:00》
もう片方。
《金曜 7:30》
渾沌ちゃんが言う。
「急ぎになった」
「うん」
「じゃ、また誰か後ろ?」
主任は首を振った。
「今から入る急ぎは、受けられる時間を先に確認する」
「受けないこともある?」
「今日中って言われても、もう入らないなら」
主任は予定表へ線を引いた。
午後九時まで。
その中に、二十枚ぶんの幅を最初に取った。
「ここは動かさない」
◇
四時十分。
別店舗から電話。
「本日中、一枚?」
主任が予定表を見る。
「九時ならできます」
相手が何か言う。
「六時は無理です」
少し間。
「はい。じゃあ明日の朝で」
電話を切る。
渾沌ちゃんが小さく笑った。
「断った」
「時間を変えてもらっただけ」
「昨日までなら入れてた?」
「たぶん」
◇
六時。
赤い札の山は減っていた。
八時。
喫茶店の二十枚がプレスへ入る。
白い布が一枚ずつ伸ばされる。
角の刺繍がそろう。
九時十二分。
主任が最後の一枚を畳んだ。
喫茶店の男が受け取りに来た。
「二十枚」
「助かります」
「残りは明日七時半」
「お願いします」
男は袋を抱えた。
帰りかけて、振り返る。
「急ぎじゃなかったんですけどね、月曜は」
主任が苦笑した。
「こっちも、月曜はそう思ってました」
◇
男が帰ったあと。
残り二十枚だけが仕分け台に残った。
《金曜 7:30》
主任は、その札の横にもう一枚貼った。
《開始 6:20》
「開始?」
渾沌ちゃんが聞く。
「締切だけ書くと、ずっと後ろに行くから」
「六時二十分になったら?」
「新しい急ぎが来ても、これは始める」
秩序ちゃんが札を見る。
「期限ではなく?」
「期限も見る」
主任は機械の電源を落とした。
「始める時刻も決める」
◇
翌朝。
六時二十分。
残り二十枚が機械へ入った。
その途中で、電話が一本鳴った。
《朝一で一枚》
主任は時計を見た。
「八時ならできます」
それだけ答えた。
七時二十三分。
四十枚目が畳まれた。
七時半の配送車へ、全部乗った。
仕分け台には。
赤い札より先に。
《開始 6:20》
と書かれた小さな紙が、一枚だけ残っていた。




