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第94話「遅らせた二十三枚のうち、一枚だけ今日じゃないと困る人がいました」


 午前十一時四十分。


 クリーニング店の受付カウンターに、二十三枚の伝票が並んでいた。


 昨日までなら、全部もう仕上がっていた時間だった。


 今日は違う。


 工場の排気トラブルで、一部が午後へ回った。


 店長の女は、伝票へ一本ずつ赤い線を引いた。


《仕上がり 16:00以降》


 十七枚目。


 十八枚目。


 十九枚目。


「これで最後ですか」


 秩序ちゃんが聞く。


「あと四枚」


 女は答えた。


 渾沌ちゃんが、束を横からのぞく。


「全部、今日?」


「今日の夕方までには」


「怒られる?」


「人による」


 女は二十枚目へ線を引いた。


 ◇


 正午を少し過ぎて。


 入口の自動ドアが開いた。


 男が一人入ってきた。


 三十代くらい。

 作業着の上に薄いジャンパー。


「すみません」


「はい」


「十二時仕上がりの、白いワイシャツ」


 店長の手が止まった。


「お名前を」


 聞く。


 伝票を探す。


 二十一枚目。


 赤い線を引く前だった。


「あ」


「あります?」


「あります。ただ」


 男は、そこで顔を上げた。


「ただ?」


「仕上がりが遅れています」


「どれくらい?」


「今日の四時ごろです」


 男は時計を見た。


 十二時七分。


「四時」


「申し訳ありません」


「今日、二時なんです」


「何がですか」


「面接」


 ◇


 男は、笑うような顔をした。


「普段これで仕事してるんですけど」


 作業着の胸をつまむ。


「今日は、正社員の面接で」


「替えは」


「白いの、あれ一枚しかなくて」


 店長は伝票を見る。


 白ワイシャツ、一枚。


 仕上げ指定、正午。


 昨日、確かに受けている。


「買う時間は?」


「行けなくはないです」


「近くに店もあります」


「ありますね」


 男はまた時計を見る。


「でも、今月ちょっと厳しくて」


 言ったあと、すぐに首を振った。


「いや、いいです。こっちの都合なんで」


 店長は伝票から目を上げた。


「違います」


「何が?」


「正午仕上がりで受けたのは、こっちです」


 ◇


 奥で電話をかけた。


 工場。


「二十一番、先に上げられますか」


 返事を待つ。


「……そうですか」


 切る。


 渾沌ちゃんが聞く。


「無理?」


「今、プレス機一台しか動かしてない」


「一枚だけなら?」


「一枚だけ先にやると、その間、別の束が止まる」


「じゃあ、誰かがまた遅れる?」


「そう」


 店長は黙った。


 二十三枚。


 昨日、熱を向こうへ押し出さないために遅らせた。


 その遅れを、今度は別の客へ押し出せば。


 ただ順番が変わるだけだった。


 ◇


「他の店なら?」


 秩序ちゃんが聞いた。


 女が顔を上げる。


「系列店?」


「はい」


「三駅先に一店ある」


「設備は?」


「ある」


「持っていける?」


 女は時計を見る。


 十二時十五分。


 男の面接は二時。


「往復して、間に合うか」


 電話する。


 三駅先の店。


「今、一枚だけプレス入れられる?」


 少し話す。


「十分で?」


 女の表情が変わる。


「分かった。持ってく」


 電話を切る。


「いける」


 男が目を丸くした。


「ほんとですか」


「ただし」


 女は店の奥を見る。


 受付には、午後から来る予定のスタッフがまだいない。


「ここ、誰か残らないと」


 ◇


「私が行きます?」


 奥で品物を整理していた若いスタッフが言った。


 店長はすぐ首を振った。


「いい」


「でも、私なら」


「昨日からずっと残業してるでしょ」


「平気です」


 女は、その言葉で一度止まった。


 昨日。


 別の作業場で。


 別の誰かが。


 同じようなことを言っていた。


「今日は平気って言われても、頼まない」


 若いスタッフが少し笑う。


「じゃあ誰が」


「私が行く」


「店長?」


「私が受けた約束だから」


 ◇


 問題が一つ増えた。


 店を空けられない。


 午後スタッフが来るのは十二時四十分。


 それまで二十五分。


 三駅先まで持っていって戻るなら、電車ではぎりぎり。


「タクシーなら?」


 渾沌ちゃんが言う。


「高い」


「誰が払うの?」


 店長は一秒だけ黙った。


「店」


「そっか」


 それで終わった。


 ◇


 十二時二十三分。


 タクシーが店の前へ来た。


 男のワイシャツは、透明袋に入れたまま。


 店長が持つ。


「一時までに戻します」


 男へ言う。


「いや、そこまでしてもらわなくても」


「します」


「でも」


「正午って言ったので」


 店長は若いスタッフを見る。


「十二時四十分まで、受付だけお願い」


「はい」


「電話で判断が必要なの来たら、決めなくていい。私にかけて」


「分かりました」


 女は店を出た。


 ◇


 秩序ちゃんと渾沌ちゃんは、店に残った。


「ついていかないの?」


 渾沌ちゃんが聞く。


「今回は、ここにいます」


「なんで?」


「ここも残るからです」


 若いスタッフが笑った。


「見張られてるみたい」


「違います」


「冗談です」


 ◇


 十二時三十一分。


 電話が鳴った。


 若いスタッフが出る。


「はい。はい」


 少し困った顔をする。


「本日四時予定で」


 相手の声が大きいらしい。


 スタッフは受話器を少し耳から離した。


「申し訳ありません」


 また聞く。


「はい」


 受話器を押さえて、秩序ちゃんを見る。


「これ、どうしたら」


「私には決められません」


「ですよね」


 スタッフは店長へ電話した。


 状況を伝える。


「分かりました」


 戻る。


「その人も今日必要なんですか」


 渾沌ちゃん。


「明日の朝だって」


「じゃあ?」


「店長が、明日の開店前に渡せるようにするって」


「また店長?」


「みたい」


 ◇


 一時二分。


 店長が戻ってきた。


 ワイシャツは、もう袋の中でまっすぐだった。


 襟。

 袖。

 前立て。


「できました」


 男が立ち上がる。


 ずっと店内の椅子で待っていた。


「すみません」


「謝るの、こっちです」


 女は伝票を一枚出す。


「今回の料金、いただきません」


「いや、それは」


「タクシー代もこっちです」


「でもクリーニング自体は」


「約束通りじゃなかったので」


 男は少し迷った。


「じゃあ」


 ワイシャツを受け取る。


「面接受かったら、また持ってきます」


 店長が笑った。


「普通に持ってきてください」


 ◇


 男が出ていったあと。


 店長はカウンターの内側へ戻った。


「タクシー、いくら?」


 渾沌ちゃん。


「二千六百八十円」


「高い」


「高いね」


「クリーニング代より高い?」


「ずっと高い」


「損した?」


 女は伝票を見る。


 赤い線が引かれた二十二枚。


 まだ残っている。


「した」


 即答だった。


「でも、誰か一人を後ろへずらして帳尻合わせるよりはいい」


 ◇


 午後一時二十分。


 工場から連絡が来た。


 排気ファンの修理は終わったという。


 遅れていた分も順番に上がる。


 店長は残りの客へ電話をかけ始めた。


「本日のお仕上がりが遅れております」


 同じ説明を、一人ずつ。


 理由は短く。


 言い訳はしない。


 必要な時間を聞く。


「今日じゃないと困りますか」


 聞いた。


 一人目。


「夕方で大丈夫」


 二人目。


「明日の朝でいい」


 三人目。


「今日の六時なら」


 四人目。


「急がない」


 赤い線の横へ、時刻を書いていく。


 ◇


 若いスタッフが言った。


「最初にこれ聞けばよかったですね」


 店長はペンを止めた。


「うん」


「全員、同じ四時じゃなくてもよかった」


「うん」


「でも、一人ずつ聞くの大変ですね」


「大変」


「タクシーより?」


「まだ安い」


 二人で少し笑った。


 ◇


 閉店前。


 二十三枚のうち、十二枚が当日中に渡った。


 十枚は、客の希望で翌朝になった。


 一枚だけ。


 正午の約束を破った一枚だけが、三駅先まで往復した。


 店長は、その伝票を捨てなかった。


 裏に、タクシー代を書いた。


《2,680円》


 その下へ。


《他客の順番変更なし》


 それだけ。


 秩序ちゃんは横から見た。


 何も書き足さなかった。


 店長が伝票をファイルへ閉じる。


「次から、機械止まったら先に必要時間聞く」


 若いスタッフが頷く。


「誰を遅らせるか決める前に?」


「うん」


 女はタクシーの領収書を、正午仕上がりの伝票へホチキスで留めた。


 二千六百八十円。


 伝票に印刷されたクリーニング料金より、ずっと大きな数字だった。


 その二枚を一緒に、ファイルへ戻した。

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