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第93話「『大丈夫です』のあとで、『断っても大丈夫?』と聞き直しました」


 午前九時十二分。


 クリーニング工場の仕上げ場は、もう暑かった。


 蒸気アイロンが四台。

 プレス機が二台。

 乾燥機が一台。


 排気ファンは止まっていた。


「今日に限って」


 責任者の女が、首にかけたタオルで額を拭いた。


 修理業者は午後になるという。


 それまで機械を止めれば、午前便に間に合わない。


 止めなければ、室温はまだ上がる。


 壁際の作業台で、若い男がワイシャツの襟を整えていた。


 その背後。


 使っていない点検口の縁に、細い灰色が見えていた。


 ◇


「開けたんですか」


 秩序ちゃんが聞く。


「少しだけ」


 責任者が答える。


 点検口のふたを持ち上げる。


 中は配管ではなかった。


 向こう側に、別の作業場が見える。


 段ボール。

 ラベルプリンター。

 台車。

 棚いっぱいの小箱。


 物流の仕分け場らしい。


 向こうの責任者が気づいて手を上げた。


「またつながった」


「昨日も?」


「昨日は十分くらい」


 仕上げ場の女が言う。


「開けると、こっちの熱が抜けるんです」


 渾沌ちゃんが手を入れる。


「あったかい風いってる」


「向こう、平気?」


「昨日は大丈夫って」


 ◇


 物流側の責任者は、灰色の開口部まで来た。


「今日も開ける?」


「できれば」


「うちは広いから平気だよ」


 女は若い作業員を見る。


 開口部のすぐ向こう。


 ラベルを箱へ貼っている。


「そこ、暑くならない?」


 責任者が聞く。


 若い男は顔を上げた。


 一度、物流側の責任者を見る。


 それから。


「大丈夫です」


「じゃあお願い」


 仕上げ場の女が点検口を開いた。


 熱い空気が向こうへ流れた。


 こちらの温度計は、三十二度から少しずつ下がり始めた。


 ◇


 十分後。


「二度下がった」


 責任者が言った。


 プレス機の前の女たちの動きが少し速くなる。


 ワイシャツがハンガーへ掛けられていく。


 一枚。

 二枚。

 三枚。


 渾沌ちゃんが点検口の向こうを見る。


 若い作業員は、まだラベルを貼っていた。


 さっきより頻繁に、手のひらを作業着で拭いている。


「暑そう」


「向こう?」


「うん」


 秩序ちゃんも見る。


 若い男が一枚、ラベルを貼る。


 少し曲がる。


 剥がす。


 貼り直す。


 また手を拭く。


 ◇


「そっち、まだ大丈夫?」


 仕上げ場の責任者が声をかけた。


 物流側の責任者が先に答えた。


「大丈夫、大丈夫。こっち止めるよりそっち回した方がいいでしょ」


 若い男も頷く。


「大丈夫です」


 その瞬間。


 渾沌ちゃんが首を傾げた。


「また見た」


「何を?」


 秩序ちゃん。


「あの人」


 若い男を指す。


「答える前に、隣見た」


 ◇


 仕上げ場の女は聞こえていた。


 点検口から顔を出す。


「ちょっといい?」


「はい」


 若い男が来る。


「今の、ほんとに大丈夫?」


「はい」


「閉めてもいいんだよ」


「……はい」


「閉めてほしい?」


 若い男は黙った。


 物流側の責任者が横から言う。


「遠慮しなくていいぞ」


 若い男はまたそちらを見た。


 仕上げ場の女が手を上げた。


「ごめん」


 物流側の責任者を見る。


「一回、向こう行っててもらっていい?」


「俺?」


「うん」


「なんで?」


「この人に聞きたいから」


 少し間があった。


「分かった」


 責任者は台車を押して奥へ行った。


 ◇


 若い男と、仕上げ場の女。


 灰色の開口部を挟んで向かい合う。


「断っても大丈夫?」


「……何がですか」


「これ閉めること」


「作業、遅れません?」


「こっちは遅れる」


「じゃあ」


「でも、それはこっちの話」


 若い男は床を見る。


「昨日も暑かった?」


「少し」


「今日も?」


「昨日よりは」


「大丈夫?」


 また同じ問い。


 若い男は困った顔をした。


「大丈夫って言った方がいいと思ってました」


 仕上げ場の女の手が、点検口から離れた。


「誰に?」


「誰にっていうか」


 男は言葉を探す。


「向こうも仕事してるし。俺が嫌って言って止まったら、なんか悪いかなって」


 ◇


 渾沌ちゃんは黙っていた。


 秩序ちゃんも、記録帳を出さなかった。


 仕上げ場の女が聞く。


「じゃあ、暑いのは嫌?」


「嫌です」


 返事は早かった。


「分かった」


 女は点検口を半分閉じた。


 少し考える。


 全部閉じた。


 こちらの室温は、また上がり始める。


 三十度。

 三十一度。


 女はプレス機の電源を一台落とした。


「午前便、減らします」


 同じ仕上げ場の作業員が振り返る。


「何枚?」


「今から決める」


 ◇


 物流側の責任者が戻ってきた。


「閉めたの?」


「うん」


「こっちは別に平気だったのに」


 仕上げ場の女は若い男を見る。


「本人は平気じゃなかった」


 責任者も見る。


「言ってくれればよかったのに」


 若い男は小さく笑った。


「言っていいのか分からなかったです」


 責任者の顔から、少しだけ力が抜けた。


「俺が大丈夫って先に言ったから?」


「たぶん」


「たぶんか」


「はい」


 ◇


 責任者は自分の作業場を見た。


 ラベル貼りの机。

 台車。

 棚。


 灰色の点検口。


「席、動かせばいいかな」


 若い男が言う。


「動かせますけど」


「それなら開けても平気?」


 若い男はすぐには答えなかった。


 机の後ろのコンセントを見る。


 ラベルプリンターの配線を見る。


 台車が通る幅を見る。


「こっちまで動かせるなら」


 三メートルほど離れた柱を指した。


「そこなら、多分」


「多分?」


「やってみて、暑かったら閉めたいです」


 責任者は頷いた。


「それでいい」


 ◇


 机を動かすのに十二分かかった。


 その間、仕上げ場ではプレス機を一台止めたままにした。


 午前便から、ワイシャツ二十三枚が午後へ回った。


 物流側では、台車の通路を少し変えた。


 作業台が柱の近くへ移る。


 若い男が座る。


「開けます」


 仕上げ場の女が言う。


「はい」


 今度は。


 若い男は誰の顔も見なかった。


 ◇


 点検口を半分開ける。


 熱が流れる。


 五分。


「どう?」


「まだ平気です」


 十分。


「どう?」


「ちょっと暑いです」


「閉める?」


 男は自分の手を見る。


 汗は出ていない。


「もう五分だけ」


「分かった」


 物流側の責任者は、何も言わなかった。


 十五分後。


「今日はここまでで」


 若い男が言った。


 仕上げ場の女は、すぐ閉めた。


 ◇


 昼前。


 排気ファンの修理業者が予定より早く来た。


 点検口はもう閉じている。


 仕上げ場の女は、午後へ回した伝票を二十三枚まとめた。


 物流側では、若い男が移した机でラベルを貼っている。


 責任者が横を通る。


 一度、止まった。


「明日また開いたら」


「はい」


「先に俺じゃなくて、お前に聞く」


 若い男が少し笑った。


「俺も、嫌なら嫌って言います」


「それで頼む」


 ◇


 昼休みの前。


 物流側の責任者が、移した作業台を見た。


「元に戻す?」


 若い男は椅子へ座ったまま、台車の通路を確かめる。


「このままの方がやりやすいです」


「そう?」


「はい」


「じゃあ、このまま」


 責任者は点検口を見る。


「次にあれが開いたら、先にお前に聞く」


 若い男が首を振った。


「僕が休みの日もあります」


「あ」


「その時そこに座る人に聞いてください」


 責任者は少し黙った。


「そうだな」


 若い男は次の箱を引き寄せた。


 ラベルを一枚貼る。


 まっすぐだった。


 仕上げ場では、午後へ回す伝票が二十三枚束ねられていた。


 その遅れは、向こう側へは送られなかった。

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