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第92話「全部流せば助かる水を、半分だけ向こうへ渡しました」


 朝七時すぎ。


 印刷店の奥で、天井から水が落ちてきた。


 最初は一滴だった。


 次は線になった。


 その次には、蛍光灯の脇からまとめて落ちた。


「まずい」


 店主の男が脚立を蹴るようにどかした。


 真下には、納品前の紙箱が積んである。


 名刺。

 メニュー表。

 町内会の回覧用紙。

 まだ断裁していない厚紙。


 男は一箱ずつ持ち上げた。


 床へ水が広がる。


 排水口は、反対側だった。


 その途中に。


 灰色の扉が立っていた。


 ◇


「昨日まで?」


 秩序ちゃんが聞いた。


「壁」


 男は短く答えた。


「朝来たら扉になってた」


 渾沌ちゃんが取っ手を見る。


「開く?」


「開けた」


「向こうは?」


「自転車屋」


「自転車屋?」


「知らない店」


 男が扉を開ける。


 向こう側は、コンクリート床の作業場だった。


 タイヤ。

 工具棚。

 作業台。

 壁に吊られたフレーム。


 そして、扉のすぐ向こうに男が一人立っていた。


「また開いた」


 向こうの男が言った。


「そっちも?」


「昨日から」


 印刷店主は足元を見る。


 水はもう、靴底を薄く濡らしていた。


 向こうは乾いている。


 ◇


「そっち、排水ある?」


 印刷店主が聞く。


「奥にある」


「ここ開けたら、水いく」


「来るな」


「うちの排水口まで遠いんだ」


「見れば分かる」


 向こうの男は、濡れ始めた床を見た。


 印刷店主も見る。


 灰色の扉の敷居は、こちらよりわずかに低かった。


 開けておけば、水は向こうへ流れる。


 かなりの量が。


「全部流せば」


 渾沌ちゃんが言いかける。


 秩序ちゃんは、何も言わなかった。


 印刷店主が先に答えた。


「こっちは助かる」


 向こうの男が、作業台の下を指した。


 充電器が二台ある。


 箱に入った電装部品もある。


「全部来たら、こっちは困る」


「だよな」


 ◇


 水音が強くなった。


 天井裏で、何かがごぼ、と鳴る。


 印刷店主はスマートフォンを肩に挟み、管理会社へ電話した。


「止水まで二十分?」


 声が上ずる。


「元栓こっちじゃないんですか。はい。はい、分かりました」


 切る。


「二十分」


 向こうの男が言った。


「長いな」


「長い」


 紙箱を高い棚へ移す。


 一箱。

 二箱。


 三箱目の底が、少し湿っていた。


 男の手が止まる。


「これ以上は持ち上げきれない」


 向こうの男は、自分の店を見回した。


 工具箱を持ち上げる。


 充電器を作業台へ載せる。


 床に置いてあった段ボールも椅子の上へ。


「そっち、何センチまでなら平気?」


 印刷店主が聞く。


「水?」


「うん」


 向こうの男はしゃがんだ。


 床を指でなぞる。


「排水まで流れるなら、一センチくらい」


「一センチ」


「それ以上は嫌だ」


「分かった」


 男は店の奥から、金属製の定規を持ってきた。


 扉の向こうへ差し出す。


「ここに線引いていい?」


「床に?」


「チョークなら消える」


「いいよ」


 ◇


 白い線が一本引かれた。


 一センチ。


 床から。


 それだけだった。


 でも、線が引かれると、二人とも動きやすくなった。


「じゃあ開ける」


「少し」


「少しって?」


「半分」


 扉を半分だけ開ける。


 水が細く向こうへ流れた。


 しゃあ、と音が変わる。


 印刷店側の水位が少し下がる。


 向こう側では、濡れた筋が排水口へ伸びていく。


 渾沌ちゃんがしゃがむ。


「ほんとに一センチで止められる?」


「止めるんじゃない」


 印刷店主が言った。


「越えたら閉める」


 向こうの男が続ける。


「こっちも見る」


 ◇


 五分。


 向こうの床に水が広がる。


 チョーク線までは、まだ遠い。


 印刷店では紙箱をさらに高く積む。


 七分。


 向こうの男が一本指を立てた。


「少し閉めて」


「はい」


 扉を狭める。


 水の流れが弱くなる。


 印刷店側の床は、また少し増えた。


「こっち増えた」


「見えてる」


「もっと開けてもいい?」


 向こうの男は床を見る。


 少し考える。


「あと三分だけ」


「ありがとう」


「ありがとうじゃなくて」


「うん?」


「三分ね」


「分かった」


 ◇


 秩序ちゃんは二人の間に立っていた。


 いつもの記録帳は出していない。


 渾沌ちゃんが小声で聞く。


「何も決めないの?」


「決まっています」


「どこが?」


「今、二人で」


 渾沌ちゃんは扉を見る。


 半分開いている。


 閉じていない。

 全開でもない。


「こういうのもあり?」


「ありかどうかを、私たちが先に決める必要はありません」


 向こうの男が振り返った。


「何の話?」


「こちらの話です」


「ふうん」


 それ以上は聞かなかった。


 ◇


 十二分。


 印刷店の一番下の紙箱を持ち上げた時、底が破れた。


 紙の束が床へ落ちる。


「あっ」


 男がしゃがむ。


 濡れたのは端だけだった。


 拾う。


 数十枚。


 向こうの男が扉越しに見る。


「商品?」


「町内会の紙」


「刷り直せる?」


「刷り直せる」


「じゃあまだマシか」


「うん」


 男は濡れた束を別に置いた。


 捨てなかった。


 ◇


 十五分。


 向こうの水がチョーク線へ近づいた。


「閉めて」


 向こうの男。


 印刷店主はすぐ扉を押した。


 水の流れが止まる。


 完全には閉めない。


 指一本ぶん残す。


「なんでそこ開けてるの?」


 渾沌ちゃん。


「声が聞こえるように」


 印刷店主が答える。


「そっち大丈夫?」


 扉の向こう。


「大丈夫。今流れてる」


 排水口へ水が吸われる音。


「そっちは?」


「増えてる」


「あと何分?」


「五分くらい」


「じゃ、二分したらまた少し開ける」


「了解」


 ◇


 配管の音が止まったのは、十九分後だった。


 管理会社の作業員が元栓を閉めた。


 印刷店の床。


 濡れた紙。

 三箱分の移動。

 刷り直しが必要な回覧用紙。


 自転車店の床。


 水跡。

 濡れた雑巾。

 一度持ち上げられた工具箱。


 大きな被害は出なかった。


 何も失わなかったわけでもなかった。


 ◇


「これ、消す?」


 向こうの男がチョーク線を指した。


 印刷店主は少し考えた。


「残していい?」


「なんで」


「次があるかもしれない」


「水漏れが?」


「扉の方」


 二人で灰色の扉を見る。


「次も水とは限らないだろ」


「だから」


 向こうの男は笑った。


「一センチじゃ足りないかもな」


「その時また決めよう」


「そうするか」


 ◇


 扉を閉める前。


 印刷店主は濡れた回覧用紙を数えた。


 三十八枚。


 向こうの男は使った雑巾を絞った。


 四枚。


「そっち、何か弁償いる?」


「いらない」


「ほんとに?」


「工具も部品も無事。床は乾く」


「こっちは刷り直す」


「じゃあ、お互いそれで」


 印刷店主は頷いた。


 扉が閉まる。


 灰色の板一枚。


 その下に、ほんの少しだけ水が残った。


 向こうから、ぎゅっ、と雑巾を絞る音がした。


 印刷店主もモップを取った。


「終わった?」


 渾沌ちゃんが聞く。


「これから乾かす」


 扉の向こうで、自転車店の男も笑った。


「こっちも」


 二人は、それぞれ自分の床を拭き始めた。


 扉の下から見える向こう側の床には、白いチョークの線が残っていた。


 水はもう、その線まで届いていなかった。

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