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第91話「返ってきた本を、盗まれた本とは呼べませんでした」


 開館前の図書館で、恐竜図鑑が一冊なくなっていた。


「またです」


 司書の女は、空いた棚を指した。


 貸出棚ではない。

 返却棚でもない。


 背表紙の剥がれた本や、ページの外れかけた本を置く、小さな修理待ちの棚だった。


「昨日、ここに?」


 秩序ちゃんが聞く。


「置きました。閉館後に確認しています」


「誰か借りた?」


 渾沌ちゃん。


「貸出処理はされていません」


「じゃ、盗まれた?」


「そう思ってました」


 女は机の上に三冊並べた。


 一冊は昆虫図鑑。

 一冊は昔話。

 一冊は料理の本。


 どれも、同じ棚から一度消えた本だった。


「でも、戻るんです」


 ◇


 昆虫図鑑は、二日後に戻った。


 昔話は翌朝。


 料理の本は三日後だった。


 戻る場所も同じ。


 修理待ちの棚。


「誰かが夜に入ってるとか?」


 渾沌ちゃんがしゃがみ込む。


「防犯記録には誰も映っていません」


「窓は?」


「施錠しています」


「天井?」


「普通です」


「床下?」


「普通だと思います」


「思います?」


「調べたことはありません」


 秩序ちゃんが棚の奥を見る。


 壁まで二十センチほど。


 特別なものはない。


 ただ、巾木の一部だけ色が違った。


 白い壁に、指一本ぶんの灰色。


「これですか」


「昨日までは、もっと短かったです」


 女が答えた。


 灰色の線は、本棚の幅とほとんど同じ長さになっていた。


 ◇


 恐竜図鑑を待っている子がいた。


 開館して十分もしないうちに、小学生くらいの男の子がカウンターへ来た。


「返ってきましたか」


 女は一瞬、秩序ちゃんと渾沌ちゃんを見た。


「まだなの」


「今日、学校で使うんだけど」


「別の恐竜の本ならあるよ」


「これがいい」


 男の子は予約票を見せた。


 書名は、なくなった図鑑と同じだった。


「ティラノサウルスの骨のページが大きいから」


「授業?」


「自由研究の続き」


 女は少し考えた。


「午後まで待てる?」


「うん。でも、今日来る?」


「分からない」


 男の子は黙った。


 それから、カウンターの横に置かれた別の恐竜本を一冊持った。


「じゃあ、これ借りる」


「ごめんね」


「返ってきたら電話して」


「うん」


 男の子は振り返らずに帰った。


 ◇


「閉じる?」


 渾沌ちゃんが、灰色の線を見た。


 棚をずらせば、線の上へ板を置けそうだった。


 昨日までなら、秩序ちゃんは寸法を測ったかもしれない。


 今日は、すぐに動かなかった。


「……戻った三冊を見せてください」


「本を?」


「はい」


 女が机へ持ってくる。


 秩序ちゃんは一冊ずつ開いた。


 昆虫図鑑。


 破れていたはずのページが、透明なテープではなく、細い紙で裏から補強されている。


「修理したんですか」


「してません」


 昔話。


 表紙の内側に、小さな紙片が挟まっていた。


 青い丸。

 黄色い線。

 赤い点。


 子どもの絵に見える。


 料理の本。


 折れていたページの角が、きれいに戻されていた。


 その間に、薄い木の葉が一枚挟まっている。


 女が言った。


「だから、盗まれたって記録にしにくくなったんです」


「戻ってきたから?」


「それもあります」


 女は昆虫図鑑を閉じた。


「読まれてる気がするから」


 ◇


 灰色の線は、昼までに少し伸びた。


 誰も触らなかった。


 棚の一番下から、かさ、と音がした。


 三人が振り向く。


 何もない。


 もう一度。


 かさ。


 渾沌ちゃんが床へ頬を近づける。


「向こうでページめくってる?」


「決めつけないでください」


「でも本っぽい音」


「音だけでは分かりません」


 女は黙っていた。


 その目は、灰色の線ではなく空いた棚を見ていた。


「返してほしいです」


 ぽつりと言った。


「はい」


「でも、今すぐ取り返して、向こうで誰かが途中だったら」


 言葉が止まる。


「……困るのかな」


 秩序ちゃんは答えなかった。


 渾沌ちゃんも、今日はすぐに「そうだね」と言わなかった。


 女は笑った。


「変ですよね。こっちは図書館なのに」


「何が?」


「貸してない人の読書時間まで気にしてる」


 ◇


 夕方。


 男の子がもう一度来た。


「戻った?」


「まだ」


「そっか」


 今度は残念そうにした。


 借りた別の恐竜本を抱えている。


「これでも調べられた?」


「少し。でも骨の写真が小さい」


 女は予約票を見た。


 今日中に必要。


 目の前の利用者。


 姿の見えない利用者。


 どちらも同じ一冊を使っている。


「ねえ」


 女が男の子へ言った。


「明日まで待てる?」


「今日の宿題だけど」


「じゃあ待てないね」


「うん」


 女は奥の事務室へ走った。


 十分後、戻ってくる。


 手には、古い資料が入った透明ファイル。


「これ、昔の展示で使ったコピー。骨のページだけだけど」


 男の子の顔が上がる。


「もらっていいの?」


「図書館の資料だから、今日だけ貸す」


「本じゃないけど?」


「今日はね」


 男の子はファイルを開いた。


 大きなティラノサウルスの骨格写真。


「これでできる」


「明日返して」


「うん」


 走って帰っていった。


 女は、その背中を見送った。


「本を返してもらわなかった」


 渾沌ちゃんが言う。


「はい」


「いいの?」


「よくはないです」


「じゃあ?」


「今日必要だった人には、今日必要なものを渡しました」


 ◇


 閉館後。


 女は修理棚の前に座った。


 灰色の線は、朝より長くなっている。


 手には、一枚の紙。


《所在不明》


 いつもなら、一定期間見つからない本へ貼る札だった。


 女はその二文字を見た。


 ペンを取る。


 横に、小さく書き足す。


《返却例あり》


 少し考える。


《利用痕跡あり》


 秩序ちゃんが見る。


「盗難とは書かないんですか」


「まだ」


「貸出とも?」


「それも違う」


「じゃあ何ですか」


「分からないから、分からないまま残します」


 秩序ちゃんの視線が、紙から女へ移る。


 昨日までなら、そこに何か決まりを書き足したかもしれない。


 今日は書かなかった。


 ◇


 消灯の前。


 棚の奥で、こつ、と音がした。


 三人が振り向く。


 修理棚の一番下。


 恐竜図鑑があった。


「戻った!」


 渾沌ちゃんが手を伸ばす。


「待って」


 女が先に取った。


 表紙。

 背表紙。

 ページ。


 破損はない。


 骨格の見開きを開く。


 そこに、一枚の紙が挟まっていた。


 子どもの手のひらくらいの紙。


 鉛筆で、恐竜が描かれている。


 上手ではない。


 大きな頭。

 短い腕。

 長い尻尾。


 その横に、小さな丸が二つ。


 一つは黒く塗られている。

 もう一つは空白。


「文字は?」


 渾沌ちゃんが聞く。


「ない」


「何の絵だろ」


「分かりません」


 女は紙を本へ戻さなかった。


 カウンターへ持っていき、小さな透明袋へ入れた。


 袋の表に日付を書く。


 そして。


《返却時同封物》


 それだけ書いた。


 ◇


 翌朝。


 男の子が一番に来た。


「返ってきた?」


「返ってきたよ」


 女は恐竜図鑑を差し出す。


 男の子はすぐ骨のページを開いた。


「これこれ」


 笑う。


 貸出機へ持っていく。


 ぴっ。


 今度は、正式に貸し出された。


 男の子が帰ったあと。


 修理棚の一番下には、何も置かなかった。


 灰色の線も、昨夜のまま残っている。


「塞がないんだ」


 渾沌ちゃんが言った。


「今日は」


 女が答えた。


「本も置かない?」


「今日は」


「じゃ、向こうは?」


 女は棚を見た。


「待つかもしれない」


「いいの?」


 女は少しだけ困った顔をした。


「昨日、こっちも待ったから」


 それから、カウンターに戻る。


 予約票を一枚、完了の箱へ移した。


 誰か一人のために境界を残すことも。


 誰か一人のために境界を閉じることも。


 もう、同じ意味には見えなかった。

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