第90話「十五分だけ閉じた部屋で、花が一晩ぶん早く咲きました」
午前五時四十六分。
花屋の女は、冷蔵庫の扉を開けられなかった。
鍵は開いている。
取っ手も動く。
けれど扉の向こうには、白い壁があった。
「またか」
驚かなかった。
店の奥には、青いバケツが六つ並んでいる。白いバラ。薄桃色のトルコキキョウ。ユーカリ。まだ束ねていない花が、暗い水の中で朝を待っていた。
女は壁を指で二度叩いた。
こん、こん。
返事はない。
時計を見る。
五時四十七分。
「あと十三分」
独り言も、もう慣れていた。
◇
その日の注文は、結婚式のブーケだった。
午前七時半受け取り。
白を多めに。開きすぎていない花で。写真を撮るまで形が崩れないように。
女は昨夜、使う花だけを冷蔵庫の手前へ集めておいた。
ただし、午前五時四十五分になる前に取り出しておかなければならない。
最初に白い壁が現れた朝、女は十五分待った。
二度目は、先に必要な花を出した。
三度目からは、それが仕事の順番になった。
五時三十分。
花を出す。
五時四十五分。
壁になる。
六時。
冷蔵庫に戻る。
たった十五分。
だから、困っているとは誰にも言わなかった。
◇
午前五時五十一分。
女は白いバラを一本持ち上げた。
外側の花弁が、昨夜よりわずかに開いている。
「早いな」
一本だけではない。
二本。
三本。
冷蔵庫から出して二十一分。
暖房は切ってある。それでも十月の店内は、冷蔵庫よりずっと暖かい。
女は霧吹きを置いた。
今日のブーケには使えない花を、右のバケツへ移す。
一。
二。
三。
四。
五本目で、手が止まった。
これ以上外すと、注文数に足りない。
時計。
五時五十四分。
「六分くらいなら」
女はバラを戻そうとして、白い壁を見る。
戻せない。
◇
午前六時。
壁が消えた。
冷気が足元へ流れてきた。
女はすぐにバケツを押し込んだ。
その奥に、灰色の扉が立っていた。
昨日まではなかった。
「……何これ」
扉が、こん、と鳴った。
女は手を止めた。
もう一度。
こん。
今度は向こうからだった。
女は少し迷い、取っ手を引いた。
「おはよ」
知らない女の子がいた。
その後ろから、もう一人が顔を出す。
「渾沌ちゃん、先に挨拶だけしないでください」
「挨拶は大事だよ」
「状況確認も大事です」
花屋の女は扉を閉めた。
三秒待った。
もう一度開けた。
二人ともいた。
「夢じゃないんだ」
「たぶん!」
「そこは断定してください」
◇
話を聞いたのは、ブーケを作りながらだった。
二人は店の隅に立った。
花には触らなかった。
「毎朝ですか」
秩序ちゃんが聞く。
「何が?」
「この部屋が使えなくなるのは」
「二週間くらいかな。五時四十五分から六時まで」
渾沌ちゃんの顔から笑みが消えた。
「十五分?」
「ぴったり。時計みたいに」
秩序ちゃんは何も言わなかった。
女はワイヤーを切る。
ぱちん。
「最初は困ったけど、今は先に出してるから」
「困ってない?」
「十五分だからね」
渾沌ちゃんは、右のバケツを見る。
「こっちは?」
「今日使わない花」
「最初から?」
「開きすぎたの」
「なんで?」
「外に出してたから」
女はそこで、二人が黙っていることに気づいた。
「でも、花だから。咲くのは普通でしょ」
秩序ちゃんが白いバラを見る。
「その十五分がなければ?」
女は答えず、次の一本を手に取った。
花弁が少し開いていた。
右のバケツへ移した。
「今日は、使えたかもね」
◇
午前六時十九分。
ブーケは予定より細かった。
女は鏡の前で何度も回した。
正面。
右。
左。
白が足りない。
グリーンを増やせば形にはなる。
けれど注文は白を多めに、だった。
「買いに行ける?」
渾沌ちゃんが聞く。
「市場まで往復したら間に合わない」
「店にある花は?」
「ある。でも、この人が選んだのはこれ」
注文票の端に、小さなメモがある。
《祖母が育てていた白いバラに近いもの》
渾沌ちゃんは読んで、何も言わなくなった。
秩序ちゃんも、灰色の扉を見なかった。
女は右のバケツから一本戻した。
少し開きすぎている。
外側の花弁を二枚だけ外す。
「使うの?」
「使う」
「大丈夫?」
「完璧じゃないけど、足りないよりいい」
一本。
もう一本。
女は、使わないと決めた花を戻していった。
昨日までなら外していた程度の開きだった。
今日は、それを形の中へ混ぜる。
全部同じ開き方ではない。
それでも、束ねると一つになった。
◇
午前七時二十八分。
若い女が店へ入ってきた。
「予約した者です」
花屋の女はブーケを渡した。
客は最初に全体を見た。
次に、一本だけ大きく開いた白いバラへ指を伸ばした。
花屋の女の肩がわずかに固くなる。
「これ」
「はい」
「祖母の庭のに似てます」
指先は花弁に触れなかった。
「写真だと、いつもこれくらい開いてて」
女は謝ろうとして、やめた。
「そうですか」
「ありがとうございます」
客はブーケを抱えて出ていった。
扉の鈴が鳴る。
からん。
渾沌ちゃんが小声で言った。
「よかった?」
花屋の女は右のバケツを見た。
使わなかった花が三本残っている。
「今日はね」
◇
午前七時三十五分。
女は作業台の下からノートを出した。
仕入れ数。
廃棄数。
注文。
水替え。
そこへ、初めて別の一行を書いた。
《5:45-6:00 冷蔵庫使用不可》
その下。
《事前取り出し 白バラ18本》
《開花進行 7本》
《注文使用へ戻し 4本》
《不使用 3本》
秩序ちゃんが聞く。
「今まで書いていなかったんですか」
「十五分だったから」
女はペン先を止めた。
「書くほどじゃないと思ってた」
渾沌ちゃんが灰色の扉を見る。
「こっちでは、十五分をずっと書いてた」
「何を?」
「誰が使うとか、誰が運ぶとか、何分遅れたとか」
「細かいね」
「うん」
渾沌ちゃんは少し考えた。
「でも、こっちの十五分は書いてなかった」
女は二人を見た。
「あなたたちが閉めてたの?」
秩序ちゃんは答えるまでに時間がかかった。
「私たちが、別の場所で十五分を残す判断をしました」
「ここを閉めるために?」
「いいえ」
「じゃあ、ここが閉まるって知ってた?」
「知りませんでした」
女は怒らなかった。
その方が二人にはつらかった。
「じゃ、今知ったね」
「はい」
「明日は?」
秩序ちゃんは、いつもの記録帳へ手を伸ばしかけた。
やめた。
「まだ決めません」
女が眉を上げる。
「困るんだけど」
「はい」
「決めないの?」
「ここだけ見て決めると、また見えていない場所を閉じるかもしれません」
女は少し黙った。
それから、ノートを二人の方へ押した。
「じゃあ、これ持ってって」
「ノートごと?」
「だめ。仕事で使うから」
女はそのページをスマートフォンで撮った。
画面を見せる。
「十五分で何本変わったか。数字なら持っていけるでしょ」
秩序ちゃんは頷いた。
「持っていきます」
◇
店を出る前。
渾沌ちゃんは冷蔵庫の扉を振り返った。
「明日も壁になるかな」
「分かりません」
「ならなかったら?」
「この店では助かります」
「向こうは?」
秩序ちゃんは答えなかった。
花屋の女が、残った三本を短く切って、小さな瓶へ挿した。
「これ、売らないの?」
「今日は売らない」
「捨てる?」
「まだ咲いてるから」
一本は作業台。
一本はレジ横。
一本は冷蔵庫の前。
白い花が三か所に分かれた。
午前七時四十一分。
灰色の扉は、もうただの冷蔵庫の扉だった。
十五分は短かった。
短いまま、二週間続いていた。
そして今朝初めて、その十五分は、向こう側だけの時間ではなくなった。




