第89話「名前を残したら、その人だけが背負うことになりました」
午後四時十八分。
PANDEMONIUM BURGERの裏口に、見覚えのある女が立っていた。
朝、東棟三階で予定表に赤い線を引いた女だった。
制服の上に薄い上着を羽織り、髪は朝より少し崩れている。右手にはコンビニの袋。左手には職場の端末。
渾沌ちゃんはゴミ袋を持ったまま止まった。
「仕事終わった?」
「終わったはずでした」
女は端末を見せた。
《305号室 床清掃未完了》
その下。
《変更者へ再対応依頼》
「名前、残したから?」
「たぶん」
秩序ちゃんが裏口から出てきた。
「三〇五号室の床清掃は、午後へ延期したはずです」
「午後の人が来られなくなりました」
「では、別の人が」
「変更したのが私なので、私に戻ってきました」
女は笑った。
「ちゃんと名前を残した結果です」
◇
午後四時二十六分。
三人は東棟へ戻った。
朝とは光が違った。
廊下の窓から西日が長く差し、床のワックスに橙色の四角を作っている。
朝の予定表はもう外されていた。
代わりに、詰所の端末だけが赤く点滅している。
《未完了 1》
女が制服の袖をまくった。
「十分くらいなので、やって帰ります」
「帰ったんじゃなかったの?」
「一度は」
「また来たら、帰ったことにならないよ」
「残業になります」
「じゃあ仕事?」
「仕事です」
「でも、今日ずっと働いてた人が、今日決めたからまた働くの?」
女は清掃用具庫の鍵を取った。
「そういう記録になっています」
秩序ちゃんは端末を見る。
《変更者》
女の名前。
《承認者》
主任の名前。
朝、空欄ではなくなった二つの欄。
その下に、新しい欄があった。
《再対応者》
女の名前。
「主任は?」
「もう会議に出ています」
「承認したのに?」
「承認したから、掃除をするわけではないので」
渾沌ちゃんが秩序ちゃんを見る。
「名前、二つあるのに、一人だけ戻ってきた」
「はい」
◇
三〇五号室。
朝の老女は、窓辺で小さな鉢植えの葉を拭いていた。
「あら。朝の人」
「すみません。床、まだでした」
「いいのよ。明日でも」
「今日やる予定に変更したので」
「でも、あなた帰ったんでしょう?」
女の手が止まる。
「……はい」
「じゃあ明日にしなさいよ」
「未完了で残るので」
老女は鉢植えを窓辺へ戻した。
「残って困るのは、床? あなた?」
女は答えなかった。
渾沌ちゃんが床を見る。
朝、寝具と衣類は交換されていた。床の隅に薄い汚れが一筋だけ残っている。
「これ、今じゃないとだめ?」
「衛生上は、明朝でも大きな問題はありません」
「じゃあ、なんで来たの?」
「私の未完了になるからです」
老女が眉を上げた。
「私の床なのに?」
◇
午後四時三十九分。
詰所に主任が戻ってきた。
「まだいたの?」
女は清掃用のバケツを床へ置いた。
「再対応依頼が来たので」
「ああ。三〇五ね。悪いね」
「主任にも通知は来ました?」
「承認通知は来たよ」
「再対応は?」
「変更者に飛ぶ仕様だから」
秩序ちゃんが聞いた。
「朝、あなたは承認しました」
「したよ」
「何を承認したんですか」
「清掃を午後に回すこと」
「午後にできなかった場合は?」
主任は口を閉じた。
「そこまでは決めてない」
「でも、変更者だけは決まっていました」
「システムがそうなってるんだ」
「誰が決めたの?」
渾沌ちゃんが聞く。
主任は端末を見る。
「……分からない」
「じゃあ、朝決めた人が、夜まで決めたことになるの?」
「夜じゃない。まだ四時半だよ」
「帰ったあとは夜みたいなもんだよ」
女が吹き出した。
朝から初めて、ちゃんと笑った。
◇
主任は端末を操作した。
《再対応者 変更》
「俺にする」
女がすぐに首を振った。
「主任が掃除するんですか」
「いや、そういう意味じゃ」
「同じです」
主任の指が止まった。
秩序ちゃんも画面を見た。
変更者。
承認者。
再対応者。
名前を増やすたび、誰か一人へ仕事が落ちていく。
「朝のやり方、間違ってた?」
渾沌ちゃんが小声で聞いた。
秩序ちゃんはすぐには答えなかった。
「名前を残したことは、間違いではないと思います」
「でも、この人戻ってきた」
「はい」
「じゃあ間違いじゃん」
「名前を残すことと、その人だけに戻すことは同じではありません」
女がバケツの取っ手から手を離した。
「じゃあ、何が足りないんでしょう」
朝とは逆だった。
もう、人の数の話ではなかった。
◇
午後四時四十七分。
主任が勤務表を開いた。
「夕方の清掃担当は四時から別の階です」
「頼めますか」
「頼める。でも、向こうの仕事が遅れる」
渾沌ちゃんが即座に言う。
「また動くだけ」
「そうだね」
主任は苦い顔をした。
「じゃあ明日の朝へ送る?」
女が三〇五号室を見る。
「本人は明日でもいいと言っています」
「なら、それで」
「誰が明日やる?」
渾沌ちゃん。
主任が止まる。
秩序ちゃんは何も言わなかった。
朝なら、すぐ記録帳を開いていた。
今日は開かなかった。
主任は勤務表を下へ送る。
「明朝の清掃担当は二人。三〇五を最初に回してもらう」
「その人たち、知ってる?」
「まだ知らない」
「じゃ、また勝手に増える?」
「……増える」
主任は内線を取った。
「明日の担当に聞くよ」
数分後。
電話の向こうで相談する声がした。
一件目と二件目の順番を入れ替える。
朝一番の定例清掃を十五分後ろへずらす。
それなら三〇五号室を先にできる。
ただし、二件目の住人には今夜のうちに伝える。
「それでお願いします」
主任は電話を切った。
端末へ入力する。
《305号室床清掃 翌朝へ延期》
《本人同意済》
《翌朝担当確認済》
《影響先:定例清掃一件、15分変更。本人へ事前連絡》
最後に、空欄が一つ残った。
《引継ぎ確認》
主任が自分の名前を入れた。
「これは掃除する人の名前じゃない」
渾沌ちゃんが言う。
「うん」
「何する人?」
「明日の人に渡ったか、最後まで見る人」
「朝の人じゃなくても?」
「俺が今日、承認したから」
女が主任を見る。
「会議は?」
「戻るよ。電話一本増えただけだ」
「面倒ですね」
「朝、君が言っただろ」
主任は端末を閉じた。
「面倒じゃないように見えてたって」
◇
午後五時二分。
三〇五号室の床は、汚れたままだった。
女は掃除をしなかった。
主任も掃除をしなかった。
渾沌ちゃんも秩序ちゃんも手伝わなかった。
老女は鉢植えへ水をやっていた。
「明日の朝、先に来るそうです」
「そう。じゃあ今日はスリッパで歩くわ」
「すみません」
「何であなたが謝るの」
女は一瞬、返事に困った。
それから笑った。
「今日は、それをやめる練習中です」
「変な練習ね」
「はい」
廊下へ出る。
女は今度こそ上着を着た。
渾沌ちゃんが聞く。
「帰れる?」
「帰ります」
「通知きたら?」
「主任に行きます」
少し離れた詰所から、主任が顔を出した。
「聞こえてるよ」
女は手を振った。
自動ドアが閉まる。
彼女は戻ってこなかった。
◇
店へ戻る道で、秩序ちゃんはようやく記録帳を開いた。
昨日の一行。
《何をやめるか決める時、誰の時間を動かすのか確認する》
その下。
《決めた人の名前を、罰の送り先にしない》
渾沌ちゃんが覗く。
「名前、消す?」
「消しません」
「じゃあ残す?」
「残します」
「なのに、その人に返さない?」
「はい」
「むずかしい」
「私もです」
秩序ちゃんはもう一行書いた。
《決めた後、誰に渡り、誰が渡ったことを確認するかまで残す》
渾沌ちゃんはしばらく読んでいた。
「責任って、持つものじゃなくて、渡すもの?」
鉛筆が止まった。
「渡して終わりなら、違うと思います」
「じゃあ何?」
「渡ったことを見届けて、それでも残るものです」
夕方の歩道を、自転車が一台通り過ぎた。
朝に引いた赤い線は、夕方になっても消えていなかった。
けれど、その線の端に一人だけを縛りつける必要もなかった。
決めることには名前が要る。
続けることには、次の手が要る。
継ぎ目は、その二つのあいだにもあった。




