第88話「何をやめるか決めたら、誰の分かも書くことになりました」
午前七時十二分。
灰色の扉から、もう三十分以上離れていた。
渾沌ちゃんは東棟三階の食堂で、トーストの袋をじっと見ていた。
「八枚」
「食べませんよ」
「数えてるだけ」
「それならいいです」
窓際では、さっきの老人が水を飲んでいた。転びかけたことなどなかったように、隣の男と新聞の天気欄を見ている。
詰所の眼鏡の女は、朝食にも手をつけず端末を見ていた。
《東棟より一名応援可》
《停止業務は現場判断》
「決まった?」
「決まっていません」
女が答えた。
「私が決めることになりました」
◇
端末には、今日の残りの仕事が並んでいた。
《8:00 入浴介助》
《8:30 居室清掃》
《9:00 歩行訓練付き添い》
《9:30 家族電話補助》
《10:00 リネン交換》
「どれか一つ止めれば、一人出せます」
女は指で上から下までなぞった。
「今度は赤い線、先に決めるんだ」
「そういうことです」
「どれがいらない?」
女は答えなかった。
秩序ちゃんが画面を見る。
「優先順位は?」
「あります。医療、安全、衛生、生活支援」
「では、その順で?」
「それなら簡単なんですけど」
女は《家族電話補助》を開いた。
「これは週に一回しか家族と話せない人です」
次に《歩行訓練付き添い》。
「こっちは退院してから、今日が初めて廊下の端まで歩く予定」
《居室清掃》。
「昨日、失禁があった部屋」
《リネン交換》。
「皮膚が弱い人」
渾沌ちゃんが最後まで聞いて、眉を寄せた。
「全部、名前がある」
「仕事ですから」
「予定表には名前なかったよ」
女の指が止まった。
◇
午前七時二十分。
主任が来た。五十代くらいの男だった。ネクタイが少し曲がっている。
「まだ決まらない?」
「はい」
「一件だけだよ。全部やめるわけじゃない」
「一件だから決められないんです」
主任は秩序ちゃんと渾沌ちゃんを見る。
「この二人は?」
「今朝の件を見ていた人です」
「監査?」
「たぶん違います」
「たぶん?」
渾沌ちゃんが手を挙げる。
「バーガー屋!」
「余計に分からないな」
主任は額を押さえた。
「とにかく、応援を出さないと向こうが回らない。こちらは一件延期すれば回る。なら延期するしかないでしょう」
「どれを?」
女が聞く。
「そこは現場で」
「誰のを?」
「だから、業務を一件」
「業務じゃなくて、誰のをですか」
主任の目が端末へ落ちた。
五つの項目。
文字だけなら、どれも同じ高さだった。
「名前まで必要?」
女は少し黙った。
「今朝、必要だと思いました」
◇
午前七時二十八分。
予定表が変わった。
《8:30 居室清掃 305号室》
《9:00 歩行訓練付き添い 312号室》
《9:30 家族電話補助 307号室》
《10:00 リネン交換 318号室》
仕事の横に、部屋番号がついた。
渾沌ちゃんが順番に指を差す。
「三〇五、三一二、三〇七、三一八」
「今度は数えるんですね」
「数字だけど、人なんでしょ?」
「はい」
その時、食堂から杖の音がした。
さっきの老人だった。
「三〇七は私だよ」
女が振り返る。
「聞こえてました?」
「近いからね」
老人は予定表を見る。
「電話なら、今日はいいよ。娘には来週かければいい。歩く人を歩かせてやりなさい」
渾沌ちゃんの顔が明るくなる。
「決まった!」
「まだです」
秩序ちゃんが言った。
「本人がいいと言ってるんだよ」
「はい」
「ならいいだろう」
秩序ちゃんは女へ聞いた。
「三〇七号室の電話補助は、先週どうなりましたか」
女が記録を開く。
「先週……中止です」
「理由は?」
「急な受診付き添いで人が足りなくなって」
老人が「ああ」と笑った。
「そうだったかな」
女の指がさらに一週前へ滑る。
「その前は実施」
「じゃあ二週間話してない?」
渾沌ちゃんが聞く。
「そうなるね」
老人は、たいしたことではないように言った。
「三週間でも死にはしないよ」
食堂のテレビが天気予報へ切り替わった。
誰も笑わなかった。
◇
午前七時三十五分。
「本人が譲ると言った場合は?」
主任が聞いた。
女は端末を閉じた。
「それを理由に毎回同じ人から削ったら、譲る人の予定だけなくなります」
「毎回じゃない」
「先週もなくなっています」
主任が黙る。
老人は杖の握りを撫でた。
「私は本当にいいんだけどね」
渾沌ちゃんが老人を見る。
「なんで?」
「若い人の邪魔をしたくないから」
「電話するの、邪魔?」
「人が足りないならね」
「足りなくしたの、おじいちゃん?」
「いや」
「じゃ、なんでおじいちゃんがやめるの?」
老人は口を開き、閉じた。
少しして笑った。
「そう言われると困るな」
秩序ちゃんは渾沌ちゃんを見た。
渾沌ちゃんは予定表しか見ていなかった。
◇
午前七時四十二分。
主任が椅子を引いた。
「じゃあ、どうする。応援を出さない?」
女は首を振る。
「向こうも困っています」
「全部やる?」
「一人減れば無理です」
「なら、どれか止めるしかない」
「はい」
女はそこで初めて、予定表から目を離した。
「だから、止めます」
女は《居室清掃 305号室》を選んだ。
赤い線を引く。
「それ?」
「三〇五号室の方に確認します。今日は床の清掃だけ午後へ回せるか。汚れた寝具と衣類は朝のうちに対応します」
主任が聞く。
「延期でいい?」
「本人がいいと言えば」
「駄目と言ったら?」
「戻ってきて、別の仕事を選びます」
「時間かかるよ」
「かかります」
「毎回それをやるの?」
女は赤い線の横に、まだ何も書かなかった。
「毎回、人が足りないなら」
◇
午前七時五十分。
三〇五号室の扉が開いた。
中から、髪を結んだ老女が顔を出した。
「床? 午後でいいわよ」
「ありがとうございます。寝具は今やります」
「それはお願い。昨日こぼしちゃったから」
「分かりました」
女が予定表へ戻る。
《床清掃のみ午後へ延期。305号室本人確認済。寝具・衣類対応は実施》
主任が画面を見る。
「長いな」
「はい」
「前なら《清掃延期》で終わってた」
「はい」
「これ、毎回残すの?」
「残します」
「面倒になるぞ」
女は保存を押した。
「人を一人減らすのが、面倒じゃないように見えていたので」
保存音が鳴った。
短い音だった。
◇
午前七時五十四分。
応援に出る男が、詰所の前を通った。
昨日、西棟と東棟を走っていた男だ。
「今日はどこ?」
「南棟」
「東棟は?」
「一人減る」
「何がなくなる?」
男は予定表を見る。
「床掃除が午後になるらしい」
「誰の?」
「三〇五」
答えてから、男は足を止めた。
「……昨日まで、そんな聞き方しなかったな」
「私も」
渾沌ちゃんが言った。
秩序ちゃんは記録帳を開いた。
《減った場所で、何が消えたかも確認する》
昨日の一行。
その下へ、今日はすぐには書かなかった。
「書かないんですか」
「まだ、言葉が違う気がします」
「何が?」
「仕事が消える、では足りませんでした」
渾沌ちゃんが覗く。
「じゃあ何?」
秩序ちゃんは予定表を見る。
赤い線。
三〇五号室。
午後へ移った床清掃。
その横には、本人確認済の文字。
鉛筆が動いた。
《何をやめるか決める時、誰の時間を動かすのか確認する》
「仕事じゃなくて、時間?」
「今日は、そう見えました」
「明日は?」
「明日にならないと分かりません」
主任が予定表の前で、まだ立っていた。
女が彼へ端末を渡す。
「承認、お願いします」
「俺が?」
「現場判断で止めろ、と言ったのは主任です」
「決めたのは君だろ」
「はい。だから私の名前も残っています」
画面の下には、二つの欄があった。
《変更者》
女の名前。
《承認者》
空欄。
主任はしばらく、その空欄を見ていた。
渾沌ちゃんが首を傾げる。
「押さないの?」
「……押すよ」
指紋認証。
《承認済》
初めて、赤い線の両側に人の名前が残った。
削られる側だけではない。
削ると決めた側にも。
午前八時。
廊下の向こうで、入浴介助の呼び声がした。
男は南棟へ向かう。
女は三〇五号室の寝具を取りに行く。
老人は食堂へ戻り、今日は予定通り娘へ電話する。
誰の朝も、完全には守られなかった。
けれど、誰の朝を動かしたのかだけは、もう《業務調整》の四文字では消えなかった。
渾沌ちゃんは予定表を見上げた。
「決めるって、名前書くこと?」
秩序ちゃんは少し考えた。
「名前を書けば決めたことになる、ではありません」
「じゃあ?」
「決めたあと、名前を消さないことかもしれません」
主任がこちらを見た。
秩序ちゃんは記録帳を閉じた。
昨日まで二人は、足りないものを追いかけていた。
今日は初めて、足りない中で誰が決めるのかが残った。
継ぎ目は、廊下にも扉にもなかった。
予定を動かした人と、動かされた人のあいだにあった。




