第87話「足りない場所を追いかけたら、なくなった仕事がありました」
午前六時九分。
黄色いランプは、二つ先の角でまだ点いていた。
灰色の扉はもう閉じている。
渾沌ちゃんは閉じた扉と、黄色い光を交互に見た。
「追う?」
「追います」
「扉は?」
「今日はもう開きません」
秩序ちゃんは札から手を離した。
昨日までなら、十五分が終わればそこで観測も終わっていた。
今日は違った。
二人は白い廊下を歩いた。
角を一つ。階段を一つ。渡り廊下を一つ。
黄色いランプは、そのたび少し遠くで点いた。
「逃げてる?」
「移っています」
「同じじゃない?」
「追いついた時に決めます」
◇
午前六時十六分。
東棟三階。
黄色いランプの下に、小さな詰所があった。
壁の予定表には、朝の仕事が縦に並んでいる。
《5:30 起床確認》
《6:00 朝食準備》
《6:10 声かけ巡回》
《6:30 服薬確認》
三つ目だけ、赤い線で消されていた。
渾沌ちゃんが指を近づける。
「これ、終わった?」
「触らないでください」
「今日は触ってないよ」
詰所から、眼鏡の女が出てきた。片手に湯気の消えかけた紙コップ、もう片方に端末を持っている。
「何か?」
秩序ちゃんは黄色いランプを示した。
「これは何の表示ですか」
「ああ。予定変更です」
「遅延ではなく?」
「遅らせる仕事がないので」
女は予定表を見た。
「今朝、一人、西棟の応援に出しました。だから巡回は中止です」
渾沌ちゃんが赤い線を見る。
「人が足りないのに、黄色なの?」
「人員不足じゃありません。業務調整です」
「同じじゃない?」
「記録上は違います」
女は紙コップを一口飲んだ。
「優先度の低い仕事を一つ外せば、人数は足りますから」
秩序ちゃんは予定表の《声かけ巡回》を見た。
「これは、何をする仕事ですか」
「各室を回って、起きているか、困っていないか確認します。だいたい十分です」
「なくてもいい?」
渾沌ちゃんが聞いた。
女は少し考えた。
「今朝は、なくても回ると判断しました」
その時、廊下の奥で何かが倒れた。
軽い音ではなかった。
女の紙コップが机に置かれるより先に、三人は走った。
◇
曲がり角の手前で、老人が壁に片手をついていた。
床には杖が落ちている。
もう片方の手には、空の水差し。
「動かないでください」
女が腰を落とす。
「転びました?」
「転んではないよ」
老人は壁にもたれたまま笑った。
「転びそうになっただけだ」
渾沌ちゃんが杖を拾おうとして、老人を見る。
「拾っていい?」
「頼むよ」
杖を渡すと、老人はそれを握ったまま息を整えた。
女が水差しを受け取る。
「呼んでください。部屋にボタンがあるでしょう」
「押したよ」
「え?」
「二回」
女が端末を見る。
画面を二度滑らせる。
眉が寄った。
「六時十一分と、六時十四分」
渾沌ちゃんが予定表のある方を振り返った。
「声かけ、六時十分だったよね」
「そうです」
「来ると思ってた?」
老人は杖の先を床につけた。
「毎朝来るからね」
それだけだった。
怒ってはいなかった。
だから余計に、女は何も言えなかった。
◇
午前六時二十一分。
老人を部屋へ戻したあと、詰所の予定表にはまだ赤い線が残っていた。
女がその前に立つ。
「転倒なし。外傷なし」
端末へ入力する。
指が止まった。
「これなら、事故報告はいらないんです」
「よかった?」
渾沌ちゃんが聞く。
「よかったです」
女は答えた。
それから、予定表を見る。
「……よかった、で終わらせたら駄目ですね」
秩序ちゃんは何も言わなかった。
女は端末に新しい欄を開いた。
《予定業務変更》
理由。
《西棟応援のため一名減》
影響。
そこだけ空白だった。
「何て書けばいいですか」
昨日と同じ問いだった。
秩序ちゃんは予定表を見たまま答えた。
「私たちではなく、待っていた人に起きたことを書いてください」
女は少し考え、入力した。
《6:10声かけ巡回中止。6:11、6:14呼出。対応遅延。本人が給水のため離室。廊下で転倒しかける》
保存。
黄色いランプが消えた。
「消えた!」
渾沌ちゃんが天井を見る。
「直った?」
「いいえ」
女が先に答えた。
「書いただけです」
渾沌ちゃんは女を見る。
「昨日、誰かもそれ言ってた」
「たぶん、書くしかない時があるんでしょうね」
女は赤い線を消さなかった。
代わりに、その横へ小さく書いた。
《未実施》
◇
午前六時二十八分。
西棟から戻った男が東棟へ来た。
さっき灰色の扉で会った男だった。
「すみません、遅くなりました」
女が首を振る。
「あなたが謝ることじゃない」
「でも、こっち一人減ったから」
「そう。でも、あなたが勝手に減ったわけじゃない」
男は予定表の赤い線と《未実施》を見た。
「これ、今日やらなかったんですか」
「やれなかった」
「昨日まで毎日やってたのに」
「だから、なくても回ると思った」
女は端末を男へ見せた。
男の顔から、眠そうな笑いが消えた。
「俺、戻らない方がよかったですか」
「それも違う」
秩序ちゃんが言った。
男と女がこちらを見る。
「あなたがどちらにいても、一人分しか働けません」
「じゃあ、どうすれば」
「一人を二人分として数えないことです」
廊下の奥で、朝食の食器が重なる音がした。
誰かがカーテンを開ける。窓から細い朝日が床へ伸びた。
世界は、話が終わるのを待ってくれなかった。
◇
午前六時三十四分。
秩序ちゃんは自分の記録帳を開いた。
昨日の一行。
《増えた人が、どこから来たかも確認する》
その下へ書く。
《減った場所で、何が消えたかも確認する》
渾沌ちゃんが横から覗く。
「人が消えるんじゃないんだ」
「人が足りない時、仕事を消すこともできます」
「仕事なら消していい?」
秩序ちゃんは、赤い線の向こうにある老人の部屋を見た。
「消した仕事を待っている人がいなければ」
「いたね」
「いました」
渾沌ちゃんは少し黙った。
「じゃあ、仕事って人の形してないだけ?」
秩序ちゃんの鉛筆が止まる。
「それは、まだ分かりません」
詰所の電話が鳴った。
女が取る。
「はい、東棟三階です」
数秒後、彼女の目が予定表へ向いた。
「……はい。応援、一名ですか」
男が顔を上げる。
女はすぐには答えなかった。
「どの業務を止める前提ですか」
電話の向こうが黙った。
渾沌ちゃんが笑った。
大きくではない。
女も笑わなかった。
ただ、赤い線を見たまま、もう一度聞いた。
「一人出します。その代わり、ここで何をしないことにするのか、先に記録してください」
朝の廊下を、食器の車輪が通り過ぎていった。
誰もそれを手伝わなかった。
それでも車輪は止まらなかった。
昨日まで、不足は人の数だった。
今朝、それは予定表から消された一行になった。
そして消された一行の向こうには、毎朝それを待っていた人がいた。
灰色の扉から遠ざかるほど、継ぎ目は見えにくくなった。
見えにくくなっただけで、なくなってはいなかった。




