第86話「一人増やしたら、その人がいた場所が足りなくなりました」
火曜日、午前五時四十一分。
灰色の扉の前に、黄色い台車が一台置かれていた。
昨日までなかったものだ。
渾沌ちゃんはしゃがみ込み、車輪を指で回した。
「新品」
「触らないでください」
「まだ誰のでもないよ」
「だからです」
秩序ちゃんは扉の横の札を読み直した。
《5:45-6:00 経路確保》
《通れたか、だけを成功にしない》
《この道があることで増えたものも確認する》
昨日、自分で書いた字だった。
その下に、見覚えのない青い付箋が貼られている。
《本日より二名体制》
渾沌ちゃんが立ち上がった。
「増えた!」
「そう見えますね」
「昨日書いたから?」
「まだ分かりません」
午前五時四十五分。
こん。
灰色の扉を開けると、昨日の女がいた。
その隣に、紺色の作業着を着た若い男が立っていた。
二人の間には台車が三台。白い袋は三十六個。
数は減っていない。
「おはようございます」
女が頭を下げた。
「人、増えた!」
渾沌ちゃんが男を見る。
「今日から手伝いです」
男は眠そうな目で笑った。
「とりあえず一週間」
女は昨日より少しだけ肩を下げていた。片手で一台目の取っ手を押すと、男が反対側につく。
台車は昨日よりずっと軽く段差を越えた。
がたん。
それだけだった。
誰も走らない。
六時十二分まで扉を開ける必要もなさそうだった。
渾沌ちゃんが秩序ちゃんの袖を引いた。
「直った?」
秩序ちゃんは答えず、時計を見た。
五時四十七分。
二人はもう戻ってくる。
「昨日の記録、見てもらえたんですね」
「はい」
女は少し笑った。
「外部補助二名って書いたら、さすがに一人では無理だろうって」
「よかった!」
渾沌ちゃんが言う。
男は笑わなかった。
◇
午前五時五十分。
二台目を押しながら、男があくびを噛み殺した。
「眠い?」
「三時半起きなんで」
渾沌ちゃんが首を傾げる。
「前から?」
「今日からです」
女の手が止まりかけた。
ほんの一瞬だったが、秩序ちゃんは見た。
「以前は何の担当でしたか」
男は台車を押したまま答えた。
「西棟の回収です。四時半から六時半まで」
「今日は?」
「こっちが終わったら戻ります」
「西棟は誰が?」
「一人で回してます」
女が口を挟んだ。
「二人で回してたところです」
男は困ったように笑った。
「一週間だけだから」
秩序ちゃんは灰色の扉の向こうを見た。
白い廊下の奥で、赤いランプが一度点いた。
すぐ消えた。
「何のランプですか」
「回収遅延」
男が答えた。
「西棟の?」
「たぶん」
渾沌ちゃんが二台目の白い袋を数えるのをやめた。
◇
午前五時五十四分。
三台目が来た。
二人なら速い。
昨日は六時十一分までかかった三十六個が、もう最後の十二個になっていた。
「これなら六時前に終わります」
女の声には、昨日なかった余裕があった。
その時、男の腰の端末が鳴った。
短い電子音。
画面に赤い文字が出る。
《西棟 未回収 8》
男が親指で通知を消した。
「戻った方がいいんじゃない?」
渾沌ちゃんが言う。
「こっちを終わらせてからで大丈夫です」
「大丈夫って、誰が決めたの?」
男の手が止まった。
昨日、女に向けた問いと似ていた。
でも今日は、聞かれた方が違う。
「主任です。こっちを二名にしろって」
「西棟を一名にしろって言った?」
「そこまでは」
「じゃ、人が増えたんじゃない」
渾沌ちゃんは赤い表示を指した。
「動いただけだ」
誰もすぐには答えなかった。
白い袋の中で、乾いた布が擦れる音がした。
◇
午前五時五十七分。
秩序ちゃんは三台目の前に立った。
「残り十二個です」
「はい」
「二人なら三分で終わります」
「たぶん」
「一人なら?」
女は時計を見た。
「六時を越えます」
「では、あなたはここを続けてください」
秩序ちゃんは男を見る。
「あなたは西棟へ戻ってください」
男が眉を寄せた。
「でも二名体制って」
「私には、その指示を変える権限はありません」
「じゃあ」
「だから、これは指示ではありません」
秩序ちゃんは灰色の扉の縁から手を離した。
「昨日、私たちは足りない二人分を埋めました。その記録で、今日あなたがここへ来た。ここで私たちがまた西棟の不足まで埋めたら、明日は二か所とも足りていることになります」
渾沌ちゃんが台車を見る。
「手伝わないの?」
「今日は、手伝わないことも記録に残します」
女が息を吐いた。
「私、一人で残りを?」
「はい」
「六時を越えますよ」
「越えた時間を消しません」
女は昨日と同じように、しばらく黙った。
それから三台目の取っ手を握り直した。
「分かりました」
男はまだ動かなかった。
「戻っていいんですか」
秩序ちゃんは首を振った。
「それを私が決めると、また別の仕事になります」
男は端末を見る。
《西棟 未回収 11》
数字が増えていた。
彼は女を見る。
「戻ります」
「うん」
「こっち、悪いけど」
「昨日まで一人だったから」
女はそこで言葉を切った。
「……それを理由にしたら、だめか」
男が少しだけ笑った。
「たぶん」
彼は走って廊下の角へ消えた。
赤いランプが、今度は消えなかった。
◇
午前六時二分。
灰色の扉はまだ開いていた。
女が最後の台車を押している。
秩序ちゃんも渾沌ちゃんも触らなかった。
触らない方が、昨日よりつらかった。
車輪が段差に当たる。
がたん。
女の靴が半歩滑る。
渾沌ちゃんの手が動く。
けれど、取っ手に届く前に止まった。
「……これ、助けないのが正しいの?」
「分かりません」
「昨日は助けた」
「はい」
「今日は助けない」
「はい」
「同じ人なのに」
秩序ちゃんは答えなかった。
女は台車を押し切った。額に汗が浮いていた。
六時四分。
《搬送完了 6:04》
端末の備考欄が開く。
女が二人を見る。
「何て書けばいいですか」
「あなたが決めてください」
女は画面を見たまま、しばらく親指を動かさなかった。
やがて入力する。
《二名配置。5:57 一名が西棟へ復帰。以降一名で搬送。完了6:04》
さらに一行。
《西棟からの応援配置のため、西棟回収に遅延》
保存。
昨日より長い備考だった。
「これで、どこも足りてないって分かるかな」
渾沌ちゃんが聞く。
女は端末をしまった。
「分からなかったら、明日も書きます」
◇
午前六時七分。
男が戻ってきた。
息を切らしていた。
「西棟、終わりました?」
「まだ四つ」
「手伝う!」
渾沌ちゃんが一歩出る。
男は首を振った。
「向こうの人が一人、来てくれました」
「増えた?」
「違う部署から」
渾沌ちゃんの顔が止まる。
「また動いただけ?」
「たぶん」
四人で笑うには、少しだけ困る答えだった。
秩序ちゃんは扉の横の青い付箋を剥がした。
《本日より二名体制》
裏返す。
何も書いていない。
「新しい札?」
「いいえ」
秩序ちゃんは昨日の三行の下に、小さく一行だけ足した。
《増えた人が、どこから来たかも確認する》
渾沌ちゃんが読む。
「人って、袋みたいに数えられないね」
「数えることはできます」
「じゃあ簡単じゃん」
「数えた場所だけ見れば、です」
灰色の扉の向こうで、赤いランプが消えた。
代わりに、もっと遠い廊下の角で黄色いランプが点いた。
誰も、その意味を知らなかった。
昨日は一人足りなかった。
今日は一人増えた。
それでも、建物のどこかでは誰かが一人減っていた。
灰色の扉は、昨日と同じ十五分だけそこにある。
けれど、その十五分の外側は、昨日より少し広くなっていた。




