第85話「助かる道を残したら、その道がないと暮らせなくなりました」
月曜日、午前五時四十三分。
まだ祭りの紙鎖が一本だけ軒先に残っていた。
渾沌ちゃんは脚立の上で、それを外そうとしていた。
「赤、青、赤、青……最後だけ赤」
「数えなくていいです」
「気になる」
「落ちないでください」
秩序ちゃんが脚立を押さえる。
その時。
こん。
店の奥から音がした。
渾沌ちゃんが止まる。
「今の」
「はい」
こん、こん。
灰色の扉だった。
二人は顔を見合わせた。
午前五時四十四分。
「一分前」
「まだ開けません」
「でも叩いてる」
「分かっています」
こん。
間を置いて、もう一度。
こん。
渾沌ちゃんは脚立から飛び降りた。
「待ってるよ」
「あと三十秒です」
「三十秒で困ることある?」
「三十九話で決めたのは五時四十五分からです」
「でも、決めた人が早く来たんじゃない?」
秩序ちゃんは時計を見る。
秒針が十二を越えた。
「今です」
扉を開けた。
白い棚。
蛍光灯。
リネン室。
そして、シーツを積んだ台車。
以前と同じ女が立っていた。
「よかった」
女は息を吐いた。
「今日は早いですね」
「毎日、少し早くなりました」
「毎日?」
「ええ」
渾沌ちゃんが台車を覗く。
「十二個?」
「今日は十八です」
「増えた!」
女は笑わなかった。
「増やされたんです」
◇
台車が一台ではなかった。
扉の向こうに、もう一台。
さらに廊下の角に、白い袋が積まれている。
「何個あるの?」
「全部で三十六」
「前の三倍!」
「この道が使えるようになってから、朝の搬送を私にまとめることになりました」
秩序ちゃんの手がノブから離れた。
「誰が決めたんですか」
「職場です。十五分で往復できるなら、一人で足りるだろうって」
「実際には?」
「最初は足りました」
女は一台目を押す。
がたん。
四つの車輪が扉の段差を越えた。
「十二個だったから」
◇
午前五時四十八分。
一台目を運び終えた。
女はすぐ戻ってきた。
「二台目」
「手伝う!」
渾沌ちゃんが取っ手へ手を伸ばす。
「だめです」
女が止めた。
「なんで?」
「仕事なので」
「前は手伝ったよ」
「前は遠回りを一緒に確認しただけでしょう」
「でも今、間に合わないよ」
時計。
五時四十九分。
残り十一分。
女は二台目を押した。
「最近は、六時を少し越えても開けてもらってます」
「誰に?」
「あなたたちに」
二人が黙った。
「私たち?」
「同じ人じゃない日もありますけど」
灰色の扉の向こうには、いくつもの朝がある。
こちらが眠っている時。
別のこちらが起きている時。
十五分を守るために、誰かが扉を開けてきた。
「何分まで?」
「長い日は六時十二分くらい」
「それ、十五分じゃない」
「はい」
◇
午前五時五十四分。
二台目。
まだ白い袋が十二個残っていた。
女が額の汗を袖で拭う。
「今日は三台です」
「一人で?」
「一人で」
「前の道なら?」
女の手が止まった。
「二十三分です」
「三台で?」
「もっとかかります」
「じゃ、この扉がないと無理?」
女はすぐには答えなかった。
向こうの廊下で、時計の電子音が鳴る。
「今の仕事量では」
その答えは、三十九話の時とは違った。
あの時は、扉がなくても二十三分遠回りすれば届いた。
今は、扉があることを前提に仕事の方が変わっている。
「人、増やしてもらえないの?」
「頼みました」
「なんて?」
「この経路なら一人でできている、と」
「できてないじゃん!」
女が少しだけ笑った。
「六時十二分まで開けば、できています」
渾沌ちゃんは笑わなかった。
◇
五時五十八分。
三台目。
秩序ちゃんは扉の横に貼られた古い札を見た。
《5:45-6:00》
その下には、何度も書き足した跡がある。
《三日後を目安に再確認》
赤い文字は薄くなっていた。
「再確認、した?」
渾沌ちゃんが聞く。
「しました」
「いつ?」
「何度も」
「何を?」
「この時間に扉が戻るか。利用者が通れるか」
「それだけ?」
秩序ちゃんは札を見た。
通れる。
毎朝、通れる。
だから運用は成功していると思っていた。
「……それだけでした」
六時。
扉の向こうから、こん、と音がした。
別の朝の誰かが、接続を待っている。
女は三台目の取っ手を握ったまま振り返った。
「閉めますか」
秩序ちゃんは答えなかった。
「時間です」
「はい」
「でも、まだ十二個あります」
「はい」
「閉めても、私は怒りません」
渾沌ちゃんが女を見る。
「困るのに?」
「決めたのは十五分ですから」
「でも、その十五分で終わるようにしたの、あなたじゃないよ」
女の手が止まる。
◇
六時一分。
扉は開いたままだった。
向こうから、こん、こん。
渾沌ちゃんが扉を二回叩き返す。
「待ってて」
「通じますか、それ」
「分かんない。でも閉めるよりは」
秩序ちゃんは女へ聞いた。
「今日、全部運べば、明日も三十六個ですか」
「たぶん」
「今日、途中で止めれば?」
「遅延になります」
「あなたの責任に?」
「記録上は」
「じゃあ全部運ぶ!」
渾沌ちゃんが言う。
「それでは明日も同じです」
「でも今日止めたら、この人が怒られる!」
「はい」
「じゃどうするの!」
秩序ちゃんは答えられなかった。
扉を開け続ければ、今日の女は助かる。
その成功が、明日の三十六個を正当化する。
閉めれば、最初に決めた運用は守れる。
その失敗は、女一人の記録になる。
「前は」
女が言った。
「この扉を戻してもらえて、本当に助かりました」
「うん」
「今も助かっています」
「うん」
「だから、なくしてほしいとは言えません」
女は三台目を押した。
「でも、あるから増えました」
車輪が段差へ当たる。
がたん。
「それも本当です」
◇
六時四分。
秩序ちゃんは三台目の前に立った。
「今日は運びます」
女が見る。
「ただし、あなた一人が三十六個を運べた、という記録にはしません」
「どうするんですか」
「私たちも運びます」
「さっき仕事だからだめって」
渾沌ちゃん。
「今日は、運用を変えた側の作業です」
秩序ちゃんが台車の横を持つ。
「この扉を残した結果、仕事量が増えた。なら、増えた分まで利用者一人の能力として扱わせません」
女はしばらく黙っていた。
それから取っ手の半分を空けた。
「重いですよ」
「知っています」
「前は十二個でした」
「今は三十六です」
「数える?」
渾沌ちゃんが聞く。
「数えます」
「やった」
三人で押した。
◇
六時十一分。
最後の袋を降ろした。
女は端末の勤務記録を開いた。
《搬送完了 6:11》
その下に備考欄。
いつもは空欄だった。
秩序ちゃんが言う。
「今日、三人で運んだことを書いてください」
「店員二名の補助あり?」
「はい」
「それ、職場に説明しにくいです」
「説明しやすくしたら、また一人でできたことになります」
女は少し迷った。
入力した。
《通常経路変更に伴う外部補助 二名》
保存。
「これで人、増えるかな」
渾沌ちゃんが聞く。
「分かりません」
女が答えた。
「でも、少なくとも今日は、一人でできた日じゃなくなりました」
◇
六時十四分。
灰色の扉の前。
向こうから、もうノックはしなかった。
待っているのだろう。
秩序ちゃんは古い札を外した。
《5:45-6:00》
渾沌ちゃんが覗く。
「時間、伸ばす?」
「いいえ」
「短くする?」
「それも、まだしません」
「じゃ何書くの?」
新しい紙。
秩序ちゃんはペンを置いた。
《5:45-6:00 経路確保》
その下。
《通れたか、だけを成功にしない》
渾沌ちゃんが読む。
「誰が見るの、これ」
「まず私たちです」
「忘れるから?」
「はい」
少し考えて、もう一行。
《この道があることで増えたものも確認する》
貼る。
扉を叩く。
こん。
向こうから。
こん。
十センチだけ開いた。
別の朝の渾沌ちゃんが隙間から顔を出す。
「遅い!」
「ごめん!」
こちらの渾沌ちゃんが謝る。
「何してたの?」
「助けてた!」
言ってから、止まった。
秩序ちゃんも何も言わなかった。
扉の向こうには、待たされた二人がいる。
こちらには、助かった女がいる。
どちらも、灰色の扉が残っていたから生まれた朝だった。
「……助けた、だけじゃないね」
渾沌ちゃんが言った。
秩序ちゃんは新しい札を見た。
「はい」
扉は今日も役に立った。
だからこそ。
明日も同じように役に立たせていいのかを、もう一度決める必要があった。




