第84話「戻るって決めても、空けた場所がまだ自分の場所とは限りません」
金曜日の午後四時二十六分。
商店街の秋祭りは、PANDEMONIUMの前まで来ると匂いが混ざった。焼きそばのソース、綿あめの砂糖、店内から流れる焼いた肉の匂い。軒先では、昨日つないだ赤と青の紙鎖が風に揺れている。
「二十三!」
渾沌ちゃんが紙袋を渡す。
「二十四!」
「次で予約分は最後です」
秩序ちゃんはカウンター脇の箱から最後の包みを取り出した。昨日、五十から二十五へ減らしたサークルの注文だった。
店の外には、昨日の女の子が二人いる。片方は代金を確認し、もう片方は黄色い腕章をつけた男子学生と紙袋を台車へ積んでいた。
「二十五!」
渾沌ちゃんが両手を上げる。
「足りた!」
「はい。注文通りです」
その時、祭りの人波を押し分けて、昨日サークルを抜けた男が走ってきた。
「待って!」
肩には昨日と同じポスターの筒。息を切らしながら、台車の前で止まる。
「俺、やっぱり今日やる」
女の子二人の手が止まった。
「……何を?」
「店番。最後まで」
黄色い腕章の男子学生が、自分の腕を見た。
「俺は?」
男もそこで初めて彼に気づいたようだった。
「誰?」
「今日の店番」
昨日怒っていた女の子が答える。
「一年の三田。朝から手伝ってもらってる」
「でも、俺が戻るなら」
「戻るなら?」
男の声が小さくなる。
「……三田くん、休めるだろ」
三田は台車の持ち手を握ったまま、何も言わなかった。
渾沌ちゃんが店から半身を出す。
「人、増えた!」
「渾沌ちゃん、今は数えなくていいです」
「でも昨日は足りなかった!」
「今日はもう埋まっています」
秩序ちゃんの言葉に、男が振り返った。
「だから、俺が埋め直します」
「埋まっている場所をですか?」
男は答えなかった。
通りの向こうで太鼓が鳴った。台車の上では、二十五個の紙袋が風を受けて小さく膨らんだり萎んだりしている。
午後四時三十二分。
「昨日、迷惑かけたから」
男はようやく言った。
「だから今日はやる。ポスターも直したし、書類も渡した。残ってるの、店番だけだろ」
「違う」
女の子が即座に返す。
「昨日あんたが抜けたあと、こっちは二十五個で回す形に変えた。三田にも頼んだ。シフトも組み直した」
「なら四人でやればいい」
「屋台、三人しか入れない」
「じゃ俺が外で呼び込みする」
「それ、三田に頼んでる」
男の視線が三田へ向いた。
三田は少し居心地悪そうに腕章を触った。
「俺、帰ってもいいですよ。先輩が戻るなら」
「よくない」
今度は、昨日まであまり口を挟まなかった方の女の子が言った。
「朝から来てもらって、やり方覚えてもらって、今から『本人戻ったから帰って』はない」
「俺は平気です」
「三田が平気かどうかだけじゃない。こっちがそう頼んだの」
男が眉を寄せた。
「じゃ、俺は何すればいいんだよ」
渾沌ちゃんが秩序ちゃんを見る。
「昨日は、やらないって言った」
「はい」
「今日は、やるって言った」
「はい」
「変えていいんだよね?」
秩序ちゃんはすぐには答えず、店先へ出た。台車の横に立つと、三田の腕章、組み直されたシフト表、二十五個の袋を順に見た。
「変えることはできます」
男の顔が少し上がる。
「ただ、昨日あなたが空けた場所は、昨日のまま空いてはいません」
男は三田を見る。
昨日、自分がいなくなると決めたあとで、ほかの人が動いた。注文は減り、役割は組み替えられ、知らない後輩が朝からその場所に立つ準備をした。
「……俺の場所じゃなくなった?」
「少なくとも、あなた一人が戻すと決められる場所ではありません」
祭りの放送が、五時から歩行者天国になると告げた。
女の子が腕時計を見る。
「あと二十分。行くよ」
台車を押そうとする。
男が一歩退いた。
その靴に、丸めた紙が当たった。
「あ」
拾い上げる。昨日、訂正して回ったポスターの一枚だった。店名の部分に白い紙が貼られ、その上から『販売数変更』と手書きされている。
「これ、剥がれてた」
女の子が受け取ろうとする。
男は紙を見たまま、少し考えた。
「訂正版、まだ何枚か予備ある」
「あるの?」
「昨日刷った。貼り直し用」
「どこ」
「部室」
「取りに行ける?」
男が顔を上げた。
「行く」
「あと、商店街の西側。剥がれてないか見てきて」
「分かった」
男は走り出しかけて、三田の前で止まった。
「ごめん。俺が戻るから帰っていいって、勝手に決めた」
三田は一瞬きょとんとしてから、腕章を引っ張った。
「じゃあ俺、今日これやっていいんすね」
「うん」
「先輩より売ったらすみません」
「そこは謝らなくていいだろ」
三田が笑った。
男も少しだけ笑い、今度こそ人波の中へ走っていった。
午後五時十一分。
祭りが始まると、PANDEMONIUMの前にも人が増えた。
渾沌ちゃんは店の外へ出るたび、通りの向こうにあるサークルの屋台を探した。黄色い腕章の三田が声を張り、女の子二人が包みを渡している。
「いる!」
「何がですか」
「三田!」
「いますね」
「戻ってきた人はいない!」
「西側へ行っています」
「戻ってきたのに、戻ってない!」
秩序ちゃんは注文票をまとめながら、少しだけ手を止めた。
「戻る方法が変わったんです」
午後五時四十八分。
男が戻ってきた。
腕には新しいポスターの束。額には汗が浮いている。
「西側、三枚剥がれてた。貼り直した。あと駅前の一枚、販売数が五十のままだったから直した」
「ありがとう」
女の子が受け取る。
「店番は?」
男が聞く。
「足りてる」
「そっか」
それだけ言って、屋台の中には入らなかった。
代わりに少し離れた場所から、三田が客へ袋を渡すのを見た。
「二十四!」
三田の声が聞こえる。
「あと一個!」
渾沌ちゃんも店先から叫んだ。
三田がこちらへ気づき、親指を立てる。
最後の一個は、小さな男の子を連れた母親が買った。
三田が袋を渡す。
女の子二人が拍手した。
男も拍手した。
誰も、彼へ腕章を返さなかった。
午後六時三分。
売り切れた屋台から、三田が空箱を抱えてPANDEMONIUMへやってきた。
「ごちそうさまでした。完売です」
「二十五全部!」
渾沌ちゃんが空箱を覗く。
「五十じゃなくても売り切れた!」
「五十だったら余ってたかも」
三田が言うと、後ろから来た男が首を振った。
「いや、去年なら俺、五十売れって無理してたと思う」
「今年は?」
渾沌ちゃんが聞く。
男は屋台の方を見た。
「俺がいなくても終わった」
声は少し寂しそうだった。
女の子がそれを聞いて、空箱を一つ男へ押しつける。
「終わってない。片付けは手伝って」
「いいの?」
「店番じゃないから」
「それ、違うの?」
「違う。今、頼んだ」
男は空箱を受け取った。
「分かった」
三田にも一箱渡される。
「俺も?」
「売った人」
「ですよね」
四人は空箱を抱えて屋台へ戻っていった。
渾沌ちゃんは、その背中をしばらく見ていた。
「戻った」
「はい」
「でも、昨日の場所じゃない」
「はい」
「新しい場所?」
秩序ちゃんは、店先の紙鎖へ手を伸ばした。風で一つの輪がねじれ、赤と青の表裏が逆になっている。指で戻そうとして、やめた。
「今できた場所です」
渾沌ちゃんも紙鎖を見上げる。
「昨日つないだのに、今日の形になってる」
祭りの風が吹いた。
赤い輪が青い輪を引き、青い輪がその隣を揺らす。どの輪も昨日と同じ場所には止まっていなかった。
通りの向こうでは、店番をしなかった男が、ほかの三人と一緒に空箱を畳んでいた。




