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第83話「変えていい約束でも、変えたあとまで一人分には戻りません」


 木曜日の午後二時四十分。


 PANDEMONIUMの隅で、渾沌ちゃんは赤い紙の輪を三つ続けてつないだ。


「赤、赤、赤!」

「次は青です」

「祭りなのに秩序!」

「祭りだからです」


 秩序ちゃんが青い細紙を一本差し出す。明日の商店街の秋祭りに向け、店先へ飾る紙鎖を作っているところだった。赤ばかりの短い鎖と、赤青を交互につないだ長い鎖が、テーブルの端から床近くまで垂れている。


 扉が開いた。


「すみません。昨日、予約した者です」


 大学生くらいの男が、大きな筒を抱えて入ってきた。


「受け取り?」

「いえ。やっぱり、やめたいんです」


 秩序ちゃんが予約票を確認する。


「明日の祭り用、バーガー五十個。午後五時受け取り」

「はい」

「これをキャンセルしたい?」

「……はい」


「五十!」と渾沌ちゃんが振り返った。「いっぱいなくなる!」


 男は筒をカウンターへ置いた。


「サークルで出す予定だったんです。でも僕、抜けることにして」

「祭りから?」

「サークルから」


 筒から出てきたのは、丸めたポスターだった。『手作りバーガー販売』の文字。その下には『PANDEMONIUM協力』とある。


「もう作ったの?」

「百枚」

「五十よりいっぱい!」


 男は笑わなかった。


「昨日までは、やるつもりだったんです。でも、仕入れも会計も申請も片付けも、ずっと僕に来るんです。去年もそうだった。もう無理だと思って」

「バーガー食べるのは?」

「それはみんなやります」

「そこだけ全員!」


 渾沌ちゃんが憤慨する横で、秩序ちゃんは予約票とポスターを並べた。


「サークルを抜けることと、この注文は分けて考えられます」

「でも、僕が抜けたら五十個も要らないです」

「あなたには?」


 男が答える前に、扉がもう一度開いた。


「いた!」


 大学生らしい女の子が二人、息を切らして入ってきた。


「連絡見ろよ!」

「ごめん」

「ごめんじゃなくて。これ、昨日から百枚配ってんだけど!」


 一人がカウンターのポスターを叩く。


「知ってる」

「知ってて今日抜けるって何?」

「だから、今言ってる」

「今!?」


 渾沌ちゃんは紙鎖を持ったまま三人を見比べた。


「祭り、もう始まった?」

「まだです」

「でもすごい」

「静かに」


 もう一人の女の子が、男へ低い声で聞いた。


「本当に抜けるの?」

「うん」

「明日だけでも無理?」

「それやったら、また次もやる」

「次は頼まない」

「去年も言った」


 そこで二人の女の子が黙った。


 最初の子が予約票へ視線を落とす。


「五十個、もう作り始めてますか」

「最終工程には入っていません。数量変更もキャンセルもできます」


 男が息を吐いた。


「よかった」


「でも、これ百枚は?」


 渾沌ちゃんがポスターを持ち上げた。


 男の顔が止まる。


「それは、サークルの問題じゃ……」

「その文面決めたのお前だろ」


 女の子がすぐ返した。


「店の名前入れようって。お前がここに頼むって言ったから、印刷したんだよ」

「だから注文をキャンセルすれば」

「そうじゃなくて!」


 声に驚いて、渾沌ちゃんの指から赤い紙の輪が一つ落ちた。


 床を転がった輪を、男が目で追う。


「……抜けちゃだめですか」


 今度は秩序ちゃんではなく、二人へ聞いた。


「困る」

「でも、もうやりたくない」

「困るって言ってる」

「分かってる」


 男の返事に、女の子の顔がさらに険しくなった。


 秩序ちゃんは予約票を裏返した。


「抜けるかどうかを、ここで決め直す必要はないと思います」

「じゃ、どうすれば」

「明日からやらないことと、今日までにあなたが動かしたものを分けてください」


 男はポスターを見る。


 百枚。


 予約票には五十個。


 さらに女の子がスマートフォンを開いた。


「会計のファイル、あんたしか最新版持ってない」

「……ある」

「申請書も」

「ある」

「明日の店番は?」

「それは、やらない」


 女の子が唇を結ぶ。


「そこはやらないんだ」

「やらない」

「むかつく」

「ごめん」

「それもむかつく」


 男は一度うつむいた。それから、ポスターを筒へ戻さず広げ直した。


「店の名前、消して回る。貼った場所は分かるから」

「百枚?」

「配った分も、連絡できる人には訂正する。会計と申請書は今日渡す」


「それで全部終わり?」

「終わらないと思う。でも、明日の店番はしない」


 女の子はしばらく男を見たあと、スマートフォンを取り出した。


「店番はこっちで探す」


「いいの?」と渾沌ちゃん。

「よくない」

「またそれ!」

「何が」

「よくないのにやるやつ!」

「だって明日祭りだし」


 もう一人の女の子が予約票を覗いた。


「待って。五十全部キャンセルしたら、売るものなくなる」

「でも二人じゃ五十は無理」

「二十?」

「三十?」

「間を取る!」


 渾沌ちゃんが二十五を指で作ろうとして、両手の指では足りず固まった。


 三人の口元が、そこで初めて少し緩んだ。


 注文は二十五個になった。


 男は受け取りには来ない。明日の店番もしない。代わりに今日、ポスターの訂正へ回り、共有していなかった書類を渡し、途中までつけた帳簿を説明することになった。


 三人が店を出る時も、仲直りはしていなかった。


「まだ怒ってる?」


 渾沌ちゃんが女の子へ聞く。


「怒ってる」

「でも一緒に帰る?」

「途中まで。こいつポスター回るから」


 男は筒を抱え直した。


「じゃあ」


 扉の前で立ち止まる。


「今まで、ありがとう」


「それ、今言う?」

「今しか言えないから」


 女の子は困ったような、腹を立てたような顔をしたまま扉を押した。


 三人は同じ方向へ出ていったが、男だけは最初の角で別の道へ曲がった。


 午後四時十二分。


 渾沌ちゃんは床に落ちていた赤い輪を拾った。


「全部元通り?」

「いいえ」

「男の人、戻った?」

「戻っていません」

「女の子たち、困らない?」

「困ります」

「怒ってる?」

「怒っています」


 渾沌ちゃんは赤い輪を指で回した。


「じゃ、何が直ったの?」


 秩序ちゃんは、五十を二本線で消して二十五と書き直した予約票を見た。


「直った、とは言わない方がいいと思います」


「じゃ何?」


 秩序ちゃんは答えず、青い細紙を一本取った。赤い輪へ通し、糊をつけて端を重ねる。


「赤の次、青にした!」

「はい」

「でも赤、青にならない」

「なりません」


 渾沌ちゃんは出来上がった二つの輪を持ち上げた。赤を引けば青も動く。青を押せば赤も揺れる。


「つながったら、勝手に動く」

「少しは」

「切ったら?」

「片方だけでは済まないことがあります」


 渾沌ちゃんは紙鎖を切らず、テーブルへ戻した。


 夕方、店先へ飾るために持ち上げると、赤も青もまとめて揺れた。


 男は明日の店番からいなくなる。


 その空いた場所は、女の子たちが埋める。


 けれどカウンターの予約票には、男が昨日書いた五十という数字の跡が、二本線の下にまだ透けていた。


 秩序ちゃんはそれを消しゴムで消さなかった。


 その上から、二十五と書かれていた。

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