↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
82/93

第82話「昨日の私が選んだことを、今日の私に守らせないでください」


 水曜日の午後四時五分。


 PANDEMONIUMの扉が勢いよく開いた。


「返して」


 昨日、河原へ行かなかった短い髪の少女だった。


 秩序ちゃんがカウンターから顔を上げる。


「何をですか」

「昨日」

「昨日?」

「河原」


 奥から出てきた渾沌ちゃんが「あ」と声を上げた。少女は昨日よりずっと怒っているように見えた。


「やっぱり行けばよかった」

「電車は?」

「見た」

「写真は?」

「送った」

「お父さん、喜んだ?」

「喜んだ」

「じゃあ」

「でも河原行けばよかった!」


 声が店の奥まで跳ねた。


 少女はポケットから細いキャンドルを出し、カウンターへ置いた。昨日、姉と一本ずつ持ち帰ったものだ。白い蝋の真ん中が、わずかに曲がっている。


「朝、窓の近くに置いちゃった」


 秩序ちゃんが芯と蝋を確かめる。


「まだ使えます」

「使わない」

「なぜですか」

「三年目じゃないから」


 渾沌ちゃんがキャンドルを覗き込んだ。


「四年目に使うって言ってた」

「昨日はそう思った」

「今日は?」

「いらない」


 秩序ちゃんが手を伸ばしかけ、止めた。


「捨てますか」

「分かんない」

「では、ここに置きますか」

「それもやだ」

「持って帰りますか」

「やだ」


 渾沌ちゃんが困った顔でキャンドルを見る。


「どこにも行けない」

「……私もそんな感じ」


 少女はそう言って、昨日と同じ窓際の席へ座った。今日は向かいの椅子が空いている。


 午後四時十一分。


「姉ちゃんは?」

「もう行った。朝」

「見送った?」

「見送った」

「泣いた?」


 少女が渾沌ちゃんを睨む。


「聞く?」

「……聞かない」


 窓の外を電車の音が通った。昨日なら二人とも時刻を気にしていた時間だが、今日は誰も時計を見なかった。


「昨日さ」


 少女が空いた椅子の背に指を掛ける。


「私が駅行くって言ったじゃん」

「はい」

「だから私が悪いんだよね。河原なくなったの」

「あなたが駅へ行くと決めたのは事実です」

「ほら」

「でも、それと今日後悔していることは別です」


 少女は眉を寄せた。


「自分で選んだのに文句言うの、ずるくない?」

「誰に対してですか」

「昨日の私」


 渾沌ちゃんが首を傾げる。


「昨日の自分に怒られる?」

「怒るよ。せっかく決めたのにって」

「今日の自分は?」

「河原行きたかったって怒ってる」

「喧嘩してる!」

「私一人だから」


 少女は言ってから、少し考えた。


「……でも、両方私なんだよね」


 秩序ちゃんは頷いた。


「はい」

「じゃ昨日の私、間違ってた?」

「それは分かりません」

「今日こんなに嫌なのに?」

「今日の気持ちだけで、昨日のあなたが見ていたものを消すことはできません」


 少女は黙った。


 昨日、駅には一日限りの列車が来た。父へ写真を送る約束もあった。河原では姉と三年目のバーガーを食べるはずだった。どちらも同じ時間には入らなかった。


「河原行ってたら、今こんな気持ちじゃなかったかも」

「そうかもしれません」

「じゃ、やっぱり」

「駅へ行かなかったことを後悔していた可能性もあります」

「ずるい」

「はい」

「どっちでも後悔したかもって言ったら、何でもありじゃん」

「だから、想像したもう一方を使って昨日を採点することはできません」


 少女は返事をしなかった。


 カウンターの上で、曲がったキャンドルだけが転がりそうになり、蝋の膨らんだところで止まった。


「じゃ後悔って、何に使うの?」


 渾沌ちゃんが聞いた。


 少女はキャンドルを見たまま答えた。


「次」

「次?」

「また誰かと、二つから選ぶ時」


 そこで一度、言葉を切る。


「昨日みたいに、相手が欲しい方を先に選ぶの、やめるかも」

「お姉ちゃんのために駅にしたんじゃないですよ」

「分かってる。姉ちゃんが駅行きたかったから。でも私、河原行きたいって言ったあと、自分で引っ込めたじゃん」


 少女は空いた椅子を少し押した。


「次は、引っ込める前にもう一回言う。私もこっちがいいって」


 渾沌ちゃんが目を丸くする。


「それで喧嘩したら?」

「する」

「負けたら?」

「むかつく」

「勝ったら?」

「たぶん、それも気になる」

「どこにも正解ない!」

「うるさい」


 少女は少しだけ笑った。


 午後四時二十七分。


「バーガー一つ」


 少女が注文した。


「ここで食べる?」

「持ってく」

「どこ?」

「河原」


 渾沌ちゃんの顔が明るくなる。


「三年目やる?」

「やらない」

「え」

「昨日は昨日。姉ちゃんいないし」

「じゃ何しに?」


 少女は出来上がった紙袋を受け取った。


「今日の河原に行く」


 秩序ちゃんは何も言わず、ナプキンを一枚だけ袋へ入れた。


「一人?」

「うん」

「寂しくない?」

「寂しいよ」

「それでも?」

「それでも」


 少女は扉へ向かった。


 三歩進んで止まる。


 振り返った先には、曲がったキャンドルがまだカウンターにある。


 戻って、それを掴んだ。


「持ってくの?」

「分かんない」

「使う?」

「分かんない」

「捨てる?」

「それも分かんない」

「全部分かんない!」

「だから持ってくの」


 今度は笑いながら言った。


 扉が閉じる。


 昨日は二人で駅へ向かった背中を見送った。今日は一人で河原へ向かう背中が、同じ窓の前を横切った。


 午後五時三分。


「いた!」


 渾沌ちゃんが窓へ走った。


 少女が店の前を通っている。中には入らない。片手には空になった紙袋。もう片方にはキャンドルがあった。


 火はついていない。


 曲がった蝋も、そのままだった。


 少女は窓越しに二人へ気づくと、キャンドルを少し持ち上げた。


「使わなかった!」


 渾沌ちゃんの声はガラスに遮られた。


 少女は聞こえたのか聞こえなかったのか、肩をすくめる。それからポケットへキャンドルをしまい、そのまま歩いていった。


「三年目、取り戻した?」

「いいえ」

「後悔、なくなった?」

「分かりません」

「昨日の選択、正しかった?」

「分かりません」

「今日、河原行ってよかった?」


 秩序ちゃんは答えず、角を曲がる少女の背中を見送った。


「それは、本人に聞いてください」


 姿が消えたあとも、渾沌ちゃんはしばらく窓に張りついていた。


「キャンドル、曲がったままだった」

「はい」

「直さなかったね」

「はい」

「でも持って帰った」

「はい」


 渾沌ちゃんは昨日、少女たちが座っていた二脚の椅子を見る。今日は片方しか使われなかった。


「昨日に戻らなくても、河原は行けるんだ」


 秩序ちゃんは椅子を戻した。


 返事はしなかった。


 窓の外では、昨日とは違う普通の電車が走っていった。


 少女が持ち帰ったキャンドルには、最後まで火がつかなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。