第82話「昨日の私が選んだことを、今日の私に守らせないでください」
水曜日の午後四時五分。
PANDEMONIUMの扉が勢いよく開いた。
「返して」
昨日、河原へ行かなかった短い髪の少女だった。
秩序ちゃんがカウンターから顔を上げる。
「何をですか」
「昨日」
「昨日?」
「河原」
奥から出てきた渾沌ちゃんが「あ」と声を上げた。少女は昨日よりずっと怒っているように見えた。
「やっぱり行けばよかった」
「電車は?」
「見た」
「写真は?」
「送った」
「お父さん、喜んだ?」
「喜んだ」
「じゃあ」
「でも河原行けばよかった!」
声が店の奥まで跳ねた。
少女はポケットから細いキャンドルを出し、カウンターへ置いた。昨日、姉と一本ずつ持ち帰ったものだ。白い蝋の真ん中が、わずかに曲がっている。
「朝、窓の近くに置いちゃった」
秩序ちゃんが芯と蝋を確かめる。
「まだ使えます」
「使わない」
「なぜですか」
「三年目じゃないから」
渾沌ちゃんがキャンドルを覗き込んだ。
「四年目に使うって言ってた」
「昨日はそう思った」
「今日は?」
「いらない」
秩序ちゃんが手を伸ばしかけ、止めた。
「捨てますか」
「分かんない」
「では、ここに置きますか」
「それもやだ」
「持って帰りますか」
「やだ」
渾沌ちゃんが困った顔でキャンドルを見る。
「どこにも行けない」
「……私もそんな感じ」
少女はそう言って、昨日と同じ窓際の席へ座った。今日は向かいの椅子が空いている。
午後四時十一分。
「姉ちゃんは?」
「もう行った。朝」
「見送った?」
「見送った」
「泣いた?」
少女が渾沌ちゃんを睨む。
「聞く?」
「……聞かない」
窓の外を電車の音が通った。昨日なら二人とも時刻を気にしていた時間だが、今日は誰も時計を見なかった。
「昨日さ」
少女が空いた椅子の背に指を掛ける。
「私が駅行くって言ったじゃん」
「はい」
「だから私が悪いんだよね。河原なくなったの」
「あなたが駅へ行くと決めたのは事実です」
「ほら」
「でも、それと今日後悔していることは別です」
少女は眉を寄せた。
「自分で選んだのに文句言うの、ずるくない?」
「誰に対してですか」
「昨日の私」
渾沌ちゃんが首を傾げる。
「昨日の自分に怒られる?」
「怒るよ。せっかく決めたのにって」
「今日の自分は?」
「河原行きたかったって怒ってる」
「喧嘩してる!」
「私一人だから」
少女は言ってから、少し考えた。
「……でも、両方私なんだよね」
秩序ちゃんは頷いた。
「はい」
「じゃ昨日の私、間違ってた?」
「それは分かりません」
「今日こんなに嫌なのに?」
「今日の気持ちだけで、昨日のあなたが見ていたものを消すことはできません」
少女は黙った。
昨日、駅には一日限りの列車が来た。父へ写真を送る約束もあった。河原では姉と三年目のバーガーを食べるはずだった。どちらも同じ時間には入らなかった。
「河原行ってたら、今こんな気持ちじゃなかったかも」
「そうかもしれません」
「じゃ、やっぱり」
「駅へ行かなかったことを後悔していた可能性もあります」
「ずるい」
「はい」
「どっちでも後悔したかもって言ったら、何でもありじゃん」
「だから、想像したもう一方を使って昨日を採点することはできません」
少女は返事をしなかった。
カウンターの上で、曲がったキャンドルだけが転がりそうになり、蝋の膨らんだところで止まった。
「じゃ後悔って、何に使うの?」
渾沌ちゃんが聞いた。
少女はキャンドルを見たまま答えた。
「次」
「次?」
「また誰かと、二つから選ぶ時」
そこで一度、言葉を切る。
「昨日みたいに、相手が欲しい方を先に選ぶの、やめるかも」
「お姉ちゃんのために駅にしたんじゃないですよ」
「分かってる。姉ちゃんが駅行きたかったから。でも私、河原行きたいって言ったあと、自分で引っ込めたじゃん」
少女は空いた椅子を少し押した。
「次は、引っ込める前にもう一回言う。私もこっちがいいって」
渾沌ちゃんが目を丸くする。
「それで喧嘩したら?」
「する」
「負けたら?」
「むかつく」
「勝ったら?」
「たぶん、それも気になる」
「どこにも正解ない!」
「うるさい」
少女は少しだけ笑った。
午後四時二十七分。
「バーガー一つ」
少女が注文した。
「ここで食べる?」
「持ってく」
「どこ?」
「河原」
渾沌ちゃんの顔が明るくなる。
「三年目やる?」
「やらない」
「え」
「昨日は昨日。姉ちゃんいないし」
「じゃ何しに?」
少女は出来上がった紙袋を受け取った。
「今日の河原に行く」
秩序ちゃんは何も言わず、ナプキンを一枚だけ袋へ入れた。
「一人?」
「うん」
「寂しくない?」
「寂しいよ」
「それでも?」
「それでも」
少女は扉へ向かった。
三歩進んで止まる。
振り返った先には、曲がったキャンドルがまだカウンターにある。
戻って、それを掴んだ。
「持ってくの?」
「分かんない」
「使う?」
「分かんない」
「捨てる?」
「それも分かんない」
「全部分かんない!」
「だから持ってくの」
今度は笑いながら言った。
扉が閉じる。
昨日は二人で駅へ向かった背中を見送った。今日は一人で河原へ向かう背中が、同じ窓の前を横切った。
午後五時三分。
「いた!」
渾沌ちゃんが窓へ走った。
少女が店の前を通っている。中には入らない。片手には空になった紙袋。もう片方にはキャンドルがあった。
火はついていない。
曲がった蝋も、そのままだった。
少女は窓越しに二人へ気づくと、キャンドルを少し持ち上げた。
「使わなかった!」
渾沌ちゃんの声はガラスに遮られた。
少女は聞こえたのか聞こえなかったのか、肩をすくめる。それからポケットへキャンドルをしまい、そのまま歩いていった。
「三年目、取り戻した?」
「いいえ」
「後悔、なくなった?」
「分かりません」
「昨日の選択、正しかった?」
「分かりません」
「今日、河原行ってよかった?」
秩序ちゃんは答えず、角を曲がる少女の背中を見送った。
「それは、本人に聞いてください」
姿が消えたあとも、渾沌ちゃんはしばらく窓に張りついていた。
「キャンドル、曲がったままだった」
「はい」
「直さなかったね」
「はい」
「でも持って帰った」
「はい」
渾沌ちゃんは昨日、少女たちが座っていた二脚の椅子を見る。今日は片方しか使われなかった。
「昨日に戻らなくても、河原は行けるんだ」
秩序ちゃんは椅子を戻した。
返事はしなかった。
窓の外では、昨日とは違う普通の電車が走っていった。
少女が持ち帰ったキャンドルには、最後まで火がつかなかった。




