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第80話「どっちも分かる人なら、どっちかが間違いとは限りません」


 月曜日の午前八時十三分。


 PANDEMONIUMの裏口には、納品された段ボール箱が十二個並んでいた。紙袋、紙ナプキン、包み紙、ストロー。どれも軽いが、朝から降りそうな空の下へ置きっぱなしにはできない。


「いっこ!」


 渾沌ちゃんが一箱を抱え、倉庫の奥へ運ぶ。窓の下へ置くと、続けて二箱目をその上へ重ねた。


「にこ!」


「渾沌ちゃん、待ってください」


「さんこ!」


 三箱目を載せたところで、秩序ちゃんが窓の取っ手に手を掛けた。開こうとした窓は、積まれた箱の角へ当たって十センチほどで止まる。


「できた!」


「できていません。戻してください」


「なんで!」


 秩序ちゃんは返事の代わりに窓をもう一度押した。箱がかすかに鳴る。


 渾沌ちゃんは窓と自分の山を見比べた。


「……窓が負けた?」


「箱の勝敗ではありません」


 開店まで四十七分。裏口にはまだ九箱残っている。


 そこへ、昨日冷蔵庫を直した機械屋が工具箱を下げて入ってきた。


「朝、何度?」


「四度です」


「よし。じゃ、昨日の続きだけ見て帰る」


 冷蔵庫へ向かいかけた男が、窓の前の箱を見て足を止めた。


「それ、そこに置くの?」


「だめ?」


「窓の前は空けといた方がいい。熱がこもるから」


 渾沌ちゃんが秩序ちゃんを見る。


「同じこと言った!」


「理由は違います。私は窓が開かないと言いました」


「じゃ、こっち」


 渾沌ちゃんは三箱を抱え直し、右の壁へ運んだ。一箱目を床へ置こうとしたところで、機械屋が「あ」と声を上げる。


「そこも壁から離して。湿ってる」


 しゃがんで指先を当てると、白い壁に濃い跡が残った。渾沌ちゃんも触ろうとして、秩序ちゃんに手首を止められる。


「紙、吸うよ。床へ直置きもしない方がいいな」


「じゃ左!」


「左は冷蔵庫の背面だ。昨日の今日だから、俺なら近づけたくない」


 渾沌ちゃんは三箱を抱えたまま固まった。窓、右の壁、冷蔵庫。そのたびに身体の向きだけが変わる。


「分かる人なのに、全部だめって言う!」


「俺が分かるのは機械と、この辺の湿気くらいだよ。倉庫全部の正解までは知らない」


 昨日は、分からないところを分かる人へ残した。それで冷蔵庫は四度へ戻った。


 今日は、その「分かる人」が置き場所を一つ減らした。


 午前八時二十一分。


「すみません。窓の前、空けてもらえますか」


 今度は赤い帽子の女が裏口から顔を出した。消防設備の点検員だった。渾沌ちゃんは三箱の向こうから目だけを出す。


「あなたも熱?」


「避難です」


「違った!」


 点検員は倉庫へ入り、窓までの動線を目で追った。


「通常は裏口を使います。でも、そこが使えない時はこの開口も使うので、前を塞がないでください」


「じゃ右は?」


「そこも全部は置けません」


「湿気?」


「消火器です」


 棚の陰にあった赤い筒を指され、渾沌ちゃんは首を伸ばした。


「いた!」


「昨日もいましたよ」


「消火器って動く?」


「必要な時に人が動かします。その人が取れなくなる置き方は困ります」


 渾沌ちゃんは箱を抱えたまま、今度は左へ半歩動いた。


「ここなら?」


 点検員は彼女の横を通ろうとして、肩が箱へ触れた。


「十二箱並べると、この通路は狭すぎますね」


 渾沌ちゃんは元の位置へ戻った。


「窓は逃げる。右は濡れるし消火器が出られない。左は熱い。真ん中は人が通る」


 腕の中の箱へ顔を近づける。


「おまえ、どこ行くの」


 機械屋が笑いかけたが、点検員は笑わなかった。二人とも箱ではなく、自分が守る場所を見ている。


「俺なら左へ寄せるかな。紙がすぐどうこうなる温度じゃないし、右の湿気よりはましだ」


「私は左へ十二箱は置きません。通路幅が足りなくなります」


「どっち!」


「俺は機械の話」


「私は避難と消防の話です」


 渾沌ちゃんが秩序ちゃんを振り返った。


「昨日のやつ、壊れた」


「何がですか」


「分からないこと、分かる人に残すやつ。二人とも分かる人なのに、言うこと違う」


 秩序ちゃんはすぐに答えず、渾沌ちゃんの腕から一箱を受け取った。十二箱全部を見ようとするのをやめ、冷蔵庫の前へ一箱だけ置いてみる。


「ここに六箱を縦一列で置いた場合、機械側で一番困ることは何ですか」


「排熱の余裕が減る。故障するとまでは言わないけど、昨日直したばかりだから近づけたくはない」


 秩序ちゃんは箱一個分だけ壁から離し、その隙間へ手を入れた。


「この距離なら?」


「それなら、さっきよりいい」


「通路は?」


 点検員が実際に歩いた。箱と棚の間を抜け、裏口まで戻る。


「六箱をこの幅で収めるなら通れます。ただし、これ以上は出さないでください」


 床を靴先でなぞる。


「じゃ六!」


 渾沌ちゃんが箱を運び始めた。三箱目を置いたところで秩序ちゃんに止められる。


「壁との隙間を揃えてください」


「箱にも整列!」


「熱のためです」


 左へ六箱。右には木の台を持ってきて、壁から離して三箱だけ載せた。消火器の前は、点検員が引いた見えない線より内側へ出さない。


「残り三つ!」


 渾沌ちゃんが裏口を指す。


「今日使う紙袋と包み紙です。倉庫へ入れず、店内へ出します」


「倉庫が負けた!」


「営業が使います」


 午前八時三十七分。最後の三箱をカウンター裏へ運び終えると、裏口から箱が消えた。


 渾沌ちゃんは倉庫へ戻り、左の六箱、右の三箱、空いた窓、消火器を順に数える。


「六、三、三。十二。どっちの人の言う通り?」


「どちらの通りでもありません」


「じゃ、二人とも無視?」


 秩序ちゃんは左の隙間へ手を入れ、次に右の箱が湿った壁へ触れていないことを確かめた。


「逆です。機械屋さんが守っているのは熱と湿気。点検員さんが守っているのは避難と消防。私たちは今日の営業も止められません。同じ『箱を置く』でも、見ているものが違いました」


「全部、箱の話じゃなかった」


「はい」


 機械屋は左の六箱を横から見て「これなら」と頷いた。点検員ももう一度通路を往復し、消火器へ手を伸ばしてから離した。


 その時点では、全部収まったように見えた。


 午前十一時。


 厨房から戻ってきた渾沌ちゃんの耳に、倉庫から小さな軋みが聞こえた。


「ん?」


 右の木の台が、ゆっくり傾いている。


 上の箱が滑った。


 渾沌ちゃんは反射的に飛び込み、胸で受け止めた。箱は落ちなかったが、下段の一箱が台の縁へ押され、角をぐしゃりと潰した。


「捕まえた! ……箱、死んだ?」


 秩序ちゃんが駆け寄り、潰れた箱を台から下ろす。中は紙ナプキンだった。束を取り出して確認すると、端が少し折れているだけで濡れてはいない。


「中身は使えます。外箱は交換します」


「よかった!」


「外箱は交換です」


「よくなかった!」


 点検員がしゃがみ、台の脚へ指を掛けた。


「床が少し傾いていますね」


「湿気じゃない?」


「今回は床です」


「専門家、もう一人呼ぶ?」


 秩序ちゃんは台の左右を押して揺れを確かめた。


「これは私たちでも確認できます。三箱を下ろしてください」


 渾沌ちゃんと二人で荷を退かし、台を反転させる。もう一度押すと、今度は動かなかった。潰れた外箱だけは予備箱へ交換し、元の場所には戻さなかった。


 渾沌ちゃんが、畳まれた古い箱を拾う。


「全部守れたと思ったのに」


「配置した時点では、まだ使っていませんでした」


「置けたのに?」


「置けることと、置いたあと問題が起きないことは同じではありません」


 渾沌ちゃんは潰れた角を指で押した。へこんだ紙は、手を離しても元には戻らなかった。


 午後三時。機械屋が帰る前に冷蔵庫の温度を確認した。


「四度。左の箱も今日は問題なさそう」


「明日は?」


「温度見て。今日大丈夫だったからって、明日も同じとは言えないよ」


「結果は返します」


「昨日の続きだね」


 点検員も最後に通路を歩き、消火器を一度持ち上げて戻した。


「今の九箱なら大丈夫です。増えた時に、同じ置き方を正解だと思わないでください」


「六、三、三は必殺技じゃない?」


「違います」


 二人が帰ったあと、渾沌ちゃんは少し残念そうに「強そうなのに」と呟いた。


 閉店後。


 倉庫には九箱が残り、店内へ出した三箱は一日の営業で少しずつ軽くなっていた。窓は開く。消火器にも手が届く。人も通れる。冷蔵庫と箱の間には手のひら一枚分より広い隙間があり、右の箱は床から浮いている。


 そして壁際には、午前中に潰れた空箱が一つだけ残っていた。


 渾沌ちゃんはそれを持ち上げ、真ん中から折ろうとした。


「半分にならない」


「角が潰れているので、きれいには畳めません」


「半分なら片づくのに」


 力を込めると、別の場所が歪んだ。秩序ちゃんが箱の端を押さえる。


「無理に折ると、もっと片づけにくくなります」


 渾沌ちゃんは手を止めた。


 朝は十二箱を一つの倉庫へ入れようとしていた。今は九箱が二か所に分かれ、三箱は店で使われ、ひとつの外箱だけが元の形を失っている。それでも、窓の前にも、消火器の前にも、人が通る場所にも、まだ何も置かれていない。


「今日、全部なくならなかったね」


「はい」


「熱も、湿気も、逃げるとこも、消火器も」


「はい」


「箱はちょっと潰れたけど」


 秩序ちゃんは、渾沌ちゃんが抱えている空箱を見た。


「はい」


「じゃ次も、こうすればいい?」


 秩序ちゃんは答える前に、倉庫の床へ目を落とした。左の六箱と右の三箱のあいだには、人一人が通れる幅が残っている。


「今日どうなったかは、使えます」


「答えは?」


「今日の答えを、そのまま明日の答えにはしません」


「なんで?」


 渾沌ちゃんは折れなかった箱を抱えたまま、空いている通路へ立った。


「明日、ここまで箱だったら?」


 秩序ちゃんも同じ場所を見た。


 窓を空ける。消火器を空ける。通路を空ける。熱から離す。湿気から離す。


 今日は、その全部のあいだに隙間があった。


「……その時に考えます」


「両方置けなかったら?」


 秩序ちゃんは答えなかった。


 渾沌ちゃんも、もう箱を折ろうとはしなかった。


 二人の間に残った通路を、閉店後の冷蔵庫の低い音だけが通っていた。

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