第74話「残った人を、次も決める人にしないでください」
火曜日。
午前九時。
PANDEMONIUMの裏口に。
桶が三つ並んでいた。
「なにこれ」
渾沌ちゃんが一つ持ち上げる。
空。
もう一つ。
空。
三つ目も。
空。
「忘れ物ですか」
秩序ちゃん。
「違うよ」
共同洗い場の女が言った。
「また漏れた時用」
◇
昨日の青い栓には。
新しい取っ手がついていた。
修理した男が交換したらしい。
「軽くなった」
渾沌ちゃんが回そうとする。
「回さないでください」
「分かってるって」
手を離す。
洗い場の女が秩序ちゃんを見る。
「で、今度はどれ閉めればいい?」
「漏れていません」
「漏れた時」
「場所によります」
「じゃ、その時あんた呼ぶね」
◇
十時十分。
風呂の老人が来た。
「昼から出かける」
「はい」
「今日は十一時に入る」
「そうですか」
「だから十一時までは止めるなよ」
秩序ちゃんが顔を上げる。
「私に言っていますか」
「昨日止めたの、お前だろ」
「はい」
「なら今日も分かるだろ」
「分かりません」
◇
老人が眉を寄せた。
「何が」
「今日、誰が栓を閉めるかです」
「お前じゃないのか」
「決まっていません」
「昨日、最後までいるって言ったじゃないか」
「昨日の判断についてです」
「同じ栓だぞ」
「今日は昨日ではありません」
◇
老人は納得しなかった。
でも。
十一時前に風呂へ行った。
渾沌ちゃんが秩序ちゃんを見る。
「人気者になったね」
「困っています」
「昨日は逃げないって言ったのに」
「逃げないことと、居座ることは違います」
◇
十一時二十三分。
今度は水ではなかった。
共同洗い場の屋根が。
傾いた。
ばき。
木の柱が一本。
途中から裂けている。
「秩序ちゃん!」
洗い場の女が呼んだ。
秩序ちゃんが走る。
渾沌ちゃんも。
◇
屋根の下に。
洗濯物。
桶。
野菜の籠。
人はいない。
「入らないでください」
秩序ちゃん。
「洗濯物だけ取らせて」
「駄目です」
「昨日みたいに?」
「昨日とは違います」
「でも危ないんでしょ」
「はい」
「じゃ、閉める?」
女が聞く。
「洗い場」
◇
秩序ちゃんが答える前に。
渾沌ちゃんが。
赤い椅子を二脚持ってきた。
屋根の入口へ置く。
「とりあえず入れない!」
「渾沌ちゃん」
「なに?」
「はい。それでいいです」
女が二人を見る。
「秩序ちゃんが決めた?」
「私です!」
渾沌ちゃんが手を上げた。
◇
「大丈夫なの?」
「分かんない!」
「え」
「だから入れないようにした!」
「秩序ちゃんは?」
「今、柱見てる!」
秩序ちゃんは。
裂け目の下へは入らず。
横から柱を見る。
「昨日修理した方を呼べますか」
「配管屋だよ?」
「屋根は専門外ですね」
「じゃ誰?」
「知りません」
◇
洗い場の女が笑った。
「二人とも知らないんじゃない」
「はい」
「うん!」
◇
十一時三十五分。
大工を知っている人が見つかった。
花屋だった。
大工が来るまで。
赤い椅子はそのまま。
誰も屋根の下へ入らない。
洗濯物は濡れた。
野菜の籠も。
「取れたかもしれないのに」
女が言った。
「はい」
渾沌ちゃん。
「ごめん」
「渾沌ちゃんが謝るの?」
「私が椅子置いたから」
◇
秩序ちゃんが口を開く。
「私も」
「秩序ちゃんは置いてないじゃん」
渾沌ちゃん。
「止めませんでした」
「それで半分?」
「半分とは決められません」
「じゃ私の責任取らないで」
◇
秩序ちゃんが黙った。
「私が置いた」
渾沌ちゃんは赤い椅子を指す。
「洗濯物濡れたのも、私が入れないようにしたから」
「屋根が落ちる可能性がありました」
「うん」
「判断は妥当だったと思います」
「それも私が考える」
「……はい」
◇
大工が来た。
柱を見る。
屋根を見る。
「入らなくて正解」
渾沌ちゃんが胸を張る。
「ほら!」
「でも」
大工が続ける。
「洗濯物くらいなら、反対側から棒で引けたな」
「え」
「人が入る必要はない」
渾沌ちゃんの胸が戻った。
「……それは思いつかなかった」
「次はやればいい」
◇
午後一時。
洗い場は半分だけ使えるようになった。
壊れた屋根側には。
赤い椅子が一脚。
もう一脚は。
渾沌ちゃんがPANDEMONIUMへ戻した。
「二個いらないって」
「はい」
「秩序ちゃん、残らないの?」
「何にですか」
「洗い場」
「大工の方と利用する方がいます」
「昨日は栓の前にいたじゃん」
「昨日は、私が閉めました」
「今日は?」
「渾沌ちゃんが椅子を置きました」
「じゃ私が残る?」
「必要ですか」
◇
渾沌ちゃんは洗い場を見る。
女たちは。
使える側で洗濯を再開している。
大工は柱を測っている。
誰も渾沌ちゃんを見ていない。
「いらないかも」
「では戻りましょう」
「責任は?」
「消えません」
「帰っても?」
「はい」
◇
午後三時。
風呂の老人が来た。
「屋根、止めたの誰だ」
「渾沌ちゃんです」
秩序ちゃんが答えた。
「お前じゃないのか」
「違います」
「見てただろ」
「見ていました」
「なら責任者だろ」
「違います」
老人は渾沌ちゃんを見る。
「お前か」
「うん」
「洗濯物、濡れたぞ」
「うん」
「屋根は落ちなかった」
「うん」
「棒で取れたらしいぞ」
「それも聞いた」
「じゃ次は?」
「棒探す!」
◇
老人は。
一度だけ笑った。
「お前に聞く方が早いな」
「でも次、私がいなかったら自分で考えてね」
「なんでだ」
「私、屋根係じゃないから」
◇
閉店後。
朝の桶は。
もうなかった。
誰かが持ち帰ったらしい。
青い栓の前にも。
誰もいない。
赤い椅子は。
店内のいつもの席へ戻っていた。
渾沌ちゃんが座る。
「残るって、ずっとそこにいることじゃないんだね」
「はい」
「決めた人が、次も決めることでもない」
「はい」
「じゃ何が残るの?」
秩序ちゃんは少し考えた。
「昨日のことを聞かれた時に」
椅子の背を押す。
「自分のしたこととして答えられることです」
◇
椅子は。
ただの椅子に戻っていた。
もう。
洗い場を閉じる権限までは。
持っていなかった。




