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第73話「全員を待っていたら、間に合わないこともあります」


 月曜日。


 午前十一時十六分。


 PANDEMONIUMの裏手で。


 水が流れていた。


「雨?」


 渾沌ちゃんが空を見る。


 晴れている。


「違います」


 秩序ちゃんは足元を見る。


 石畳の継ぎ目から。


 透明な水が細く湧いていた。


 一本。


 二本。


 三本。


 その先に。


 古い共同洗い場があった。


 ◇


 洗い場には。


 女が三人いた。


 洗濯物。


 野菜。


 空のバケツ。


「止めて!」


 一人が言った。


「元栓、裏!」


「どれ?」


「青いやつ!」


 渾沌ちゃんが走る。


 壁際。


 青い栓が三つ。


「三つある!」


「真ん中!」


「待ってください」


 秩序ちゃん。


 ◇


「これを止めると、どこまで止まりますか」


「知らない!」


 洗濯物の女。


「うちの水じゃないの?」


 野菜を洗っていた女。


「向こうの風呂も同じ管だよ」


「診療所は?」


「たぶん別」


「たぶん?」


 水が。


 石畳を越えた。


 ◇


 渾沌ちゃんが真ん中の栓へ手をかける。


「閉める?」


 秩序ちゃんは答えない。


「風呂の人、呼ぶ?」


「呼べますか」


「走れば」


「何分ですか」


「五分?」


 水が。


 パン屋の裏口へ届いた。


 ◇


 佐藤が箱を抱えて出てきた。


「何ですかこれ」


「水」


「見れば分かります」


 一箱を高い棚へ移す。


 もう一箱。


「止められないんですか」


「止めると困る人がいるかもしれません」


「今、私が困ってます」


 ◇


 秩序ちゃんが佐藤を見る。


 それから。


 青い栓。


 流れる水。


「閉めます」


「全員に聞かなくていいの?」


 渾沌ちゃん。


「聞きません」


「昨日は増やしたのに」


「今日は待つ時間がありません」


 ◇


 栓を閉める。


 固い。


 渾沌ちゃんも手を添えた。


 二人で回す。


 ぎ。


 ぎ。


 最後に。


 金属が鳴った。


 水が細くなる。


 止まった。


 ◇


 静かになった。


 誰も喜ばなかった。


 洗濯物の女が言う。


「風呂、止まったかも」


「はい」


 秩序ちゃん。


「怒られるよ」


「はい」


「いいの?」


「よくはありません」


 ◇


 十一時二十八分。


 怒られた。


 桶を持った老人が来た。


「何で止めた!」


「水が漏れていました」


「こっちは湯が出ない!」


「はい」


「勝手に触るな!」


「はい」


 秩序ちゃんは。


 謝った。


 栓は開けなかった。


 ◇


「謝るけど戻さないんだ」


 渾沌ちゃんが小声で言う。


「漏れている場所が分からないまま戻せません」


「おじいさん困ってるよ」


「はい」


「佐藤さんも困ってた」


「はい」


「どっちが大事?」


「決めていません」


「でも閉めた」


「はい」


 ◇


 老人が言った。


「俺に聞けばよかっただろ」


「間に合いませんでした」


「五分だぞ」


「五分で、パンの箱が濡れます」


 佐藤が横から言う。


「もう一箱、下にありました」


 老人が佐藤を見る。


「パンと風呂か」


「そういう比べ方はしたくないです」


「じゃ何だ」


 佐藤は答えられなかった。


 ◇


 十二時。


 配管を見る人が来た。


 洗い場の女の息子だった。


 床板を一枚外す。


「割れてる」


 青い管。


 細い亀裂。


「ここから先、洗い場と風呂が一緒です」


「じゃ診療所は?」


「別」


 渾沌ちゃんが言う。


「一個減った」


「何がですか」


「心配する人」


「そうですね」


 ◇


 修理には二時間。


 老人は帰らなかった。


「風呂、昼に入りたいんだよ」


「なぜですか」


 秩序ちゃんが聞く。


「夜は足元が見えにくい」


「それは先に言ってよ」


 渾沌ちゃん。


「聞かなかっただろ」


「……そうだった」


 ◇


 佐藤が店から椅子を持ってきた。


「二時間なら、ここで待ちますか」


「風呂場で待つ」


「暗くなる前には直るそうです」


「本当か」


 配管を見る男が答える。


「たぶん一時半」


「たぶんか」


「割れてるの、一本じゃないかもしれないから」


「じゃ一時半に来る」


 老人は帰った。


 ◇


「聞いたら事情あったね」


 渾沌ちゃん。


「はい」


「先に聞くべきだった?」


「聞けるなら」


「今日は聞けなかった」


「はい」


「じゃ、どうやって決めたの?」


 秩序ちゃんは濡れた石畳を見る。


「決めた後に、聞きます」


 ◇


「それずるくない?」


「何がですか」


「先に勝手に止めて、あとから話聞くの」


「ずるいかもしれません」


「いいの?」


「よくありません」


「今日そればっかり」


「はい」


 ◇


 一時四十二分。


 水が戻った。


 洗い場。


 風呂。


 両方。


 老人も戻ってきた。


 蛇口をひねる。


 湯気。


「十二分遅い」


 配管の男が言う。


「すみません」


「お前じゃない」


 老人は秩序ちゃんを見る。


「そっちだ」


「私ですか」


「一時半って聞いた」


「私は言っていません」


「でも、止めたのはお前だろ」


 ◇


 秩序ちゃんが止まる。


「はい」


「なら最後まで関係ある」


「……はい」


 ◇


 渾沌ちゃんが。


 少しだけ笑った。


「増えた」


「何がですか」


「決める人じゃなくて、残る人」


 秩序ちゃんは老人を見る。


「そうですね」


 ◇


 夕方。


 佐藤のパンは。


 一箱も濡れなかった。


 老人は明るいうちに風呂へ入れた。


 洗い場には。


 外した床板の跡が一本残った。


 誰も。


 朝の判断を正しかったとは言わなかった。


 間違っていたとも。


 ◇


 閉店前。


 渾沌ちゃんが聞いた。


「次また水出たら、どうする?」


「同じとは限りません」


「全員呼ぶ?」


「呼べるなら」


「呼べなかったら?」


「止めるかもしれません」


「また怒られる?」


「たぶん」


「それでも?」


 秩序ちゃんは。


 乾き始めた石畳を踏んだ。


「その時、止めた人が」


 一歩。


「あとでいなくならないようにします」


 ◇


 水はもう流れていなかった。


 でも。


 閉めた栓の前には。


 秩序ちゃんがまだ立っていた。

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