第72話「二人で決めたことを、三人目に払わせないでください」
日曜日。
午前六時二十七分。
パン屋の前に。
二人分の手袋があった。
「ちゃんと来た」
渾沌ちゃん。
「まだ三分前です」
佐藤は台車の後ろ。
配送の女は前。
六箱。
昨日と同じ。
「六時四十五分まで待つ必要、今日はないね」
「はい」
女が笑う。
「今日は誰も転んでなかったので」
◇
二人で段差を越える。
右の路地。
朝の市場。
昨日より店が多い。
魚。
花。
野菜。
湯気の出る鍋。
「佐藤さん!」
奥から声がした。
野菜を並べていた女が手を振る。
「今日は早いじゃない」
「昨日が遅かったんです」
「知ってる。私、昨日あんたの場所まで見てたんだから」
佐藤が止まった。
「見てた?」
「場所取られないように」
◇
市場の端。
床に黄色い線。
佐藤の売り場。
その隣が野菜屋だった。
「昨日、来ないから箱置いといたの」
「ありがとうございます」
「四十分もね」
野菜屋は笑っていなかった。
「こっちの荷物、出せなかったけど」
◇
渾沌ちゃんが佐藤を見る。
「知らなかった?」
「はい」
「頼んだの?」
「頼んでません」
野菜屋が言う。
「いつも六時半に来るから。来ないなら何かあったと思うでしょ」
配送の女が頭を下げた。
「すみません」
「あなた誰?」
「昨日、遅れた人です」
「ああ」
野菜屋は女の濡れていない靴を見る。
「じゃ、今日はいいのね」
「はい」
◇
パンを並べる。
野菜屋も箱を広げる。
昨日なら置けなかった場所まで。
大根が並ぶ。
「昨日、売れなかったんですか」
秩序ちゃんが聞いた。
「売ったよ」
「では、損は?」
「そういう話?」
野菜屋の手が止まった。
「いえ。違いました」
「うん。違う」
◇
午前七時十分。
客が増えた。
パンが売れる。
野菜も売れる。
昨日のことだけが。
売れ残った。
◇
「私たち、昨日決めました」
配送の女が言った。
「遅れたら連絡するって」
「うん」
「十五分待つって」
「うん」
「だから次は大丈夫です」
野菜屋は大根を袋へ入れた。
「私には?」
「え?」
「連絡くるの?」
◇
配送の女が黙る。
佐藤も。
渾沌ちゃんが小さく言った。
「三人目いた」
「はい」
秩序ちゃん。
◇
「でも」
佐藤が言う。
「昨日、場所を見ていてくれたのは、そちらの判断ですよね」
「そうだよ」
「私、お願いしてません」
「そうだね」
「なら、私たちの約束とは別じゃないですか」
「別だよ」
野菜屋は即答した。
「だから腹立ってんの」
◇
佐藤が口を閉じた。
「頼まれてないのに勝手にやった」
野菜屋。
「やらなくてもよかった。でも、毎週隣にいる人が来なかったら、私は気にする」
「はい」
「で、気にした結果、私の場所が狭くなった」
「はい」
「だから、あんたに全部払えとは言わない」
大根を一本置く。
「でも、私が勝手にやったから全部私のせい、にもされたくない」
◇
渾沌ちゃんが秩序ちゃんを見る。
「難しいやつだ」
「はい」
「昨日の二人だけじゃ決められない?」
「昨日の約束は決められます」
「じゃ大丈夫?」
「その約束で、誰が困るかまでは決められません」
◇
佐藤が野菜屋へ向き直る。
「どうしてほしいですか」
「来ない時、あんたの場所を守るかどうか、私に決めさせて」
「今までも決めていたのでは?」
「知らないまま決めるのと、知って決めるのは違うよ」
「連絡先を交換しますか」
「いらない」
「え?」
「日曜の朝まで電話増やしたくない」
◇
渾沌ちゃんが笑った。
「増えなかった」
「何がですか」
「連絡先」
「増やすことが解決とは限りません」
「昨日は増やしたのに」
「今日は三人目です」
「三人だと減るの?」
「人数の問題ではありません」
◇
野菜屋が市場の入口を指した。
古い時計。
六時四十分を指している。
「六時四十分まで来なかったら、私は自分の店を広げる」
「私の場所は?」
「空けとくかもしれない。空けないかもしれない」
「決めないんですか」
「その日の荷物で決める」
佐藤は少し考えた。
「分かりました」
「怒らない?」
「場所がなくなったら困ります」
「うん」
「でも、その分まであなたに待ってもらうとは決めてませんでした」
◇
配送の女が聞く。
「私が六時三十五分に、佐藤さんへ遅れるって連絡したら?」
「佐藤さんが来るなら、私は何もしない」
「佐藤さんも来られなかったら?」
「その時は六時四十分に私が決める」
「何を?」
「大根をどこまで並べるか」
◇
渾沌ちゃんが吹き出した。
「そこなんだ」
「そこだよ」
野菜屋も笑った。
「世界をどうするかじゃない。私の大根をどこに置くか」
秩序ちゃんは。
何も書かなかった。
◇
午前八時。
市場の端で。
三人がそれぞれ働いていた。
佐藤はパン。
配送の女は空箱を畳む。
野菜屋は大根。
誰も。
同じ仕事をしていない。
同じ約束もしていない。
それでも。
一人が遅れれば。
別の一人の床が狭くなる。
◇
昼。
PANDEMONIUMへ戻る途中。
渾沌ちゃんが言った。
「昨日の約束、間違ってた?」
「いいえ」
「でも足りなかった」
「はい」
「じゃ最初から三人で決めればよかった?」
秩序ちゃんは少し考えた。
「昨日は、三人目を知りませんでした」
「じゃ無理じゃん」
「はい」
「どうするの?」
「見つかった時に、増やします」
「約束を?」
「決める人をです」
◇
午後。
佐藤がバーガーを買いに来た。
一つ。
「今日は半分にしないの?」
「しません」
「誰の?」
「野菜屋さん」
「お詫び?」
「違います」
「また?」
「昨日、場所を見てくれた分です」
秩序ちゃんが聞く。
「代金にしますか」
佐藤は首を振った。
「しません」
「では?」
「腹が立ってる人に、腹が立ってないことにしてもらうためじゃないです」
◇
夕方。
空の包み紙だけが戻ってきた。
野菜屋から。
中に。
小さな人参が一本。
「交換?」
渾沌ちゃん。
佐藤は笑った。
「たぶん」
「聞かないの?」
「明日、隣なので」
◇
翌朝。
六時三十九分。
市場。
佐藤の売り場は空いていた。
野菜屋は。
大根の箱を一つ抱えている。
時計を見る。
六時四十分。
佐藤は来ない。
女は箱を。
黄色い線の向こうへ置いた。
昨日まで佐藤が使っていた場所へ。
六時四十一分。
佐藤が走ってきた。
「あ」
大根を見る。
野菜屋を見る。
「一分」
「一分だね」
「どけますか」
「今日はどけない」
佐藤は息を整えた。
「分かりました」
自分のパン箱を。
残った幅に合わせて。
三つずつ。
縦に積んだ。
◇
秩序ちゃんは直さなかった。
渾沌ちゃんも。
大根も。
パンも。
その日の場所に。
ちゃんと収まっていた。




