第71話「約束したことを、書いてないから消さないでください」
土曜日。
午前六時四十分。
PANDEMONIUMの裏口で。
佐藤が一人で台車を押していた。
「今日、早いね」
渾沌ちゃんが言った。
「早いというか、遅いというか」
台車にはパンの箱が六つ。
いつもより多い。
「手伝いますか」
秩序ちゃん。
「大丈夫です」
佐藤は笑った。
「二人で運ぶ予定だったので」
「もう一人は?」
「来てません」
◇
裏口の先。
細い路地が二本に分かれていた。
右。
朝の市場。
左。
見たことのない住宅街。
「市場なら右?」
「今は、たぶん」
佐藤は台車を止めた。
「でも待ちます」
「誰を?」
「配送の人です」
◇
六時五十分。
来ない。
七時。
来ない。
パンの箱から。
まだ温かい匂いがする。
「冷めるよ」
渾沌ちゃん。
「はい」
「電話は?」
「番号、知りません」
「待ち合わせ、書いてないの?」
「書いてないです」
「時間は?」
「六時半」
「それも?」
「口で」
秩序ちゃんが聞いた。
「昨日、約束したんですね」
「はい」
◇
七時五分。
市場の方から男が来た。
「パン屋さん、今日こっちだよ」
「ありがとうございます」
「早く行かないと場所なくなるよ」
佐藤は台車を見る。
右の路地を見る。
来ない人を待つ。
「行かないの?」
「もう少し」
男は肩をすくめて行った。
◇
「昨日までなら」
渾沌ちゃんが言った。
「待つ理由を確認するところだね」
「はい」
「今日は分かってる」
「はい」
「約束したから」
「それだけではありません」
「また?」
秩序ちゃんは六箱を見る。
「一人で押せますか」
佐藤が押す。
車輪が段差に当たる。
箱が傾いた。
佐藤が肩で支える。
「……押せます」
「運べるかを聞きました」
「それは、ちょっと」
◇
七時十二分。
配送の女が走ってきた。
「ごめん!」
片方の靴が濡れている。
袖にも泥。
「遅れました」
佐藤は時計を見た。
「四十二分」
「はい」
「何があったんですか」
「途中で、おばあさんが転んでて」
「病院?」
「家まで。救急車は嫌だって」
「それで?」
「それで遅れました」
◇
佐藤は黙った。
女も黙った。
「連絡できなくて」
「番号、教えてないですからね」
「ごめんなさい」
「はい」
渾沌ちゃんが二人を見る。
「怒ってる?」
「少し」
佐藤。
女も言った。
「怒られていいです」
「それは違います」
秩序ちゃんが言った。
◇
「何が?」
「怒られることを、代金にしないでください」
女が秩序ちゃんを見る。
「でも待たせました」
「はい」
「約束を破りました」
「はい」
「じゃ、どうすれば」
「佐藤さんに聞いてください」
◇
佐藤は困った顔をした。
「私に?」
「待ったのはあなたです」
「じゃ……次から連絡できるように?」
女が頷く。
「番号交換します」
「でも、おばあさんがいたら?」
「また助けます」
「じゃまた遅れる」
「はい」
「そこは変わらないんだ」
「変えたくないです」
◇
佐藤は少し笑った。
「じゃ、連絡だけください」
「はい」
「あと、来ないなら一人で行くか決める時間も決めましょう」
「何分?」
「それは……荷物で変えたいです」
「今日なら?」
佐藤はパンの箱を触る。
「十五分」
「もう四十二分待ってるよ」
渾沌ちゃん。
「今日分かりました」
◇
二人で台車を押す。
段差。
今度は。
片方が前を持ち上げ。
片方が後ろから押した。
六箱が揺れない。
右の路地へ入る。
◇
午前九時。
佐藤が戻ってきた。
「場所、半分取られてました」
「売れた?」
「全部」
「じゃよかったじゃん」
「よくはないです」
「なんで?」
「待ってる間、ずっと腹が立ってました」
「売れたのに?」
「売れたのとは別です」
◇
秩序ちゃんが聞く。
「相手に言いましたか」
「言いました」
「何と?」
「次は連絡してって」
「腹が立ったことは?」
「言ってません」
「なぜですか」
「言わなくてもいいかなって」
「そうですか」
秩序ちゃんはそれ以上聞かなかった。
◇
昼。
配送の女が来た。
バーガーを二つ注文した。
「一個は佐藤さんに」
「謝罪?」
渾沌ちゃん。
「違う」
「お詫び?」
「それも嫌」
「じゃ何?」
「朝ごはん食べてなかったから」
◇
佐藤を呼ばなかった。
女が自分でパン屋へ持っていった。
十分後。
戻ってくる。
一個。
まだ持っていた。
「受け取らなかった?」
「半分にされた」
包み紙が。
きれいに二つに折られている。
「一緒に食べろって」
◇
二人は店の外の縁石に座った。
バーガーを半分ずつ食べた。
何を話したか。
店内からは聞こえなかった。
渾沌ちゃんが窓に近づく。
秩序ちゃんが袖を掴んだ。
「聞かないの?」
「聞きません」
「記録も?」
「しません」
「でも次に何かあったら、理由分かんないよ」
「二人は分かっています」
「私たちは?」
「知らなくていいこともあります」
◇
午後四時。
配送の女がまた来た。
「明日、六時半」
佐藤がパン屋の奥から答える。
「六時四十五分まで待ちます」
「遅れそうなら連絡します」
「おばあさんがいたら?」
「助けます」
「はい」
それだけ。
紙は出なかった。
ノートも。
白い板も。
◇
閉店後。
渾沌ちゃんが聞いた。
「明日、二人とも忘れてたらどうする?」
「困るでしょうね」
「書いとけば忘れないよ」
「はい」
「書かないの?」
「二人が必要だと思えば書きます」
「私たちが決めない?」
「はい」
「なくなっちゃうかもよ。約束」
秩序ちゃんは。
朝、二人で越えた段差を見る。
「なくなった時に」
少し考える。
「なかったことにしなければいいです」
◇
翌朝のための紙は。
どこにもなかった。
それでも。
パン屋には六箱が用意されていた。
配送用の台車は。
その隣に置かれていた。
二人分の手袋が。
取っ手に掛かっていた。




