第70話「聞き返せるようにするために、ずっと見ていないでください」
金曜日。
午前八時十二分。
PANDEMONIUMの前を。
杖の男が通り過ぎた。
「今日、寄らないんだ」
渾沌ちゃんが窓から見る。
「そのようですね」
秩序ちゃん。
男は店を見た。
一度だけ。
それから歩く速度を上げた。
「気づいてるよね」
「はい」
「追う?」
「なぜですか」
「なんか変だから」
「それは追う理由になりません」
◇
午前九時。
佐藤がパンを持ってきた。
「これ、そっちにも置いていいですか」
小さなノート。
表紙に。
《道の確認》
「学校の板じゃ足りないの?」
「板まで行かない人もいるでしょう」
開く。
《七時四十分 佐藤 パン屋→学校 右は壁》
《七時五十五分 六年二組二名 駅→学校 左通過》
《八時十二分 杖の男性 北→駅前》
渾沌ちゃんの指が止まった。
「これ、さっきのおじさん?」
「たぶん」
「病院かな」
佐藤も止まった。
「……いつも金曜でしたっけ」
◇
秩序ちゃんがノートを閉じた。
「これは誰が書きましたか」
「みんなです。昨日の板を見て、こっちにもあった方が便利かなって」
「本人に確認しましたか」
「通ったのは見ましたよ」
「書くことをです」
「そこまで必要ですか?」
佐藤が困った顔をした。
「名前じゃないですよ。杖の男性ってだけです」
「でも、私たち分かったよ」
渾沌ちゃん。
「誰か」
◇
十時十五分。
杖の男が戻ってきた。
汗をかいていた。
「遠回りした?」
渾沌ちゃんが聞く。
「した」
「なんで?」
男は佐藤のノートを見た。
「それ」
「見たの?」
「朝、八百屋に同じのがあった」
「嫌だった?」
「嫌だな」
◇
秩序ちゃんが聞く。
「どの部分がですか」
「俺が通ったこと」
「道の状態ではなく?」
「道は書けばいい」
「時間は?」
「必要なら」
「あなたの特徴は?」
「いらない」
「行き先は?」
「もっといらない」
渾沌ちゃんが首を傾げる。
「でも誰が見たか聞けなくなるよ」
「俺は道を見たって言ってない」
◇
静かになった。
佐藤がノートを開く。
《八時十二分 杖の男性 北→駅前》
「これ、道の情報じゃない」
「はい」
秩序ちゃん。
「人の情報になっています」
◇
「消していいか?」
男が聞いた。
「あなたの行なら」
佐藤がノートを渡した。
男は一行を黒く塗った。
その下に。
《北の道について、私は確認していません》
と書いた。
「書くんだ」
渾沌ちゃん。
「俺が見てないってことは、残した方がいいんだろ?」
秩序ちゃんは少し考えた。
「今は、そう思います」
「今は?」
「また邪魔になれば変えます」
「面倒だな」
「はい」
◇
昼。
ノートは増えていた。
パン屋。
八百屋。
学校。
診療所。
四冊。
渾沌ちゃんが並べる。
「同じこと書いてある」
「少しずつ違います」
「こっちは佐藤さん七時四十分」
「はい」
「こっちは七時四十二分」
「はい」
「こっちは『パンを持った男性』」
佐藤が自分を見る。
「私ですね」
「追跡できる!」
渾沌ちゃんが楽しそうに言って。
すぐ黙った。
「……できちゃうね」
◇
四冊を重ねる。
佐藤が言った。
「でも、誰が見たか残そうって話だったでしょう」
「はい」
「だから細かくしたんです」
「はい」
「間違ってました?」
秩序ちゃんは答えなかった。
代わりに。
一冊を開く。
《七時四十分 佐藤 パン屋→学校 右は壁》
「この情報で、何を聞き返したいですか」
「右が壁だったか」
「では必要なのは?」
「時間と、右が壁だったことと……私?」
「あなたに聞き返すなら」
「パン屋でいいです」
「行き先は?」
「いらない」
「パンを持っていたことは?」
「いらない」
◇
渾沌ちゃんがペンを持つ。
《七時四十分ごろ 右は壁 確認先・パン屋》
「これでいい?」
「今は」
「また今」
「必要です」
◇
午後一時。
四冊を一冊にまとめなかった。
捨てもしなかった。
それぞれの場所で。
必要な行だけ残す。
誰がどこへ行ったかではなく。
何を確認したか。
いつ頃か。
必要なら、どこへ聞き返せるか。
それだけ。
◇
午後三時二十分。
青い帽子の女の子がPANDEMONIUMへ来た。
「今日、北から帰れる?」
渾沌ちゃんがノートを見る。
《十四時五十分ごろ 北は途中まで通行確認 確認先・八百屋》
「途中まで」
「その先は?」
「書いてない」
「誰が行ったの?」
「書いてない」
「じゃ聞けないじゃん」
「八百屋さんには聞けます」
女の子は考える。
「誰が行ったか、知りたい」
「どうして?」
「友達なら一緒に帰ろうかなって」
◇
秩序ちゃんが止まった。
消した情報が。
今度は必要になった。
「ほら!」
渾沌ちゃんが言う。
「消しすぎた?」
「可能性があります」
「戻す?」
「戻せません」
「じゃどうする?」
女の子が先に言った。
「八百屋さんに聞いてくる」
走っていった。
◇
十分後。
女の子は同級生を一人連れて戻った。
「いた」
「八百屋に?」
「うん。道見たのこの子だった」
「名前、書く?」
渾沌ちゃんが聞く。
同級生は首を振った。
「やだ」
「じゃ書かない」
「でも明日も一緒に帰る」
「それは書く?」
「書かない」
「なんで?」
「約束だから」
◇
秩序ちゃんは。
ノートを閉じた。
「全部、残す必要はありませんね」
「でも消すと困ることもある」
渾沌ちゃん。
「はい」
「難しくなった」
「前から難しかったです」
「気づいてなかっただけ?」
「たぶん」
◇
夕方。
杖の男がPANDEMONIUMへ来た。
今日はバーガーを頼んだ。
「朝は寄らなかったのに」
「朝は嫌だったからな」
「今は?」
「消えたから来た」
「ノートはあるよ」
「俺の行動はない」
「道のことはある」
「それならいい」
男は窓際へ座った。
いつもの席ではなかった。
渾沌ちゃんが気づく。
何も言わなかった。
◇
閉店後。
ノートには。
朝より少ないことしか書かれていなかった。
誰がいつ店へ来たか。
誰と帰ったか。
誰が病院へ向かったか。
残っていない。
それでも。
右が壁だったことは聞き返せる。
北が途中までだったことも。
全部を覚えていなくても。
必要な時に。
必要な相手へ。
問いを戻せる。
そのために。
誰かの一日まで。
ずっと見ている必要はなかった。




