第69話「誰でも直せるからって、誰が直したかまで消さないでください」
木曜日。
午前七時五十五分。
学校の白い板に。
大きく一本。
赤い線が引かれていた。
「全部だ」
渾沌ちゃんが言った。
昨日まであった四行。
《駅からは左で来られました》
《パン屋からは右で来られました》
《団地からは北で来られました》
《帰りは確認できません》
全部。
一本の赤線で消されている。
その下に。
《違います》
「何が?」
「分かりません」
秩序ちゃんが答えた。
◇
校門の前に。
子供が十一人いた。
「誰が消したの?」
青い帽子の女の子。
「知らない」
「先生?」
「先生も知らないって」
「じゃ、違うの?」
「違うって書いてある」
「何が違うの?」
「知らない」
十一人とも。
動かなかった。
◇
昨日の先生が来た。
板を見る。
「これ、誰が?」
「先生じゃないの?」
「違う」
別の先生も来る。
「私でもないです」
六年生が言った。
「昨日、誰でも直していいって言ってたじゃん」
「言いました」
先生。
「じゃ、直したんじゃない?」
「そうかもしれない」
「なら合ってる?」
先生は。
答えなかった。
◇
渾沌ちゃんが赤線を指でなぞる。
「消し方は昨日と同じ」
「線だけでは判断できません」
「字も?」
《違います》
「知らない字です」
「犯人探す?」
「探しません」
「じゃ放置?」
「それもしません」
◇
午前八時三分。
パン屋の店員が来た。
「右、今日は通れませんよ」
「見た?」
「さっき。壁でした」
先生が板へ書こうとする。
手が止まった。
「書いていいんだよね」
別の先生が聞く。
「昨日は」
「今日は?」
先生は赤線を見る。
「……分からない」
◇
「昨日より悪くなった」
渾沌ちゃん。
「はい」
「誰でも書けるのに、誰も書かない」
「はい」
「じゃ、名前書く?」
「まだです」
「名前あれば安心じゃん」
「誰の名前なら信じますか」
「先生」
「先生が間違えたら?」
「昨日やった」
「はい」
「じゃパン屋さん」
「パン屋からしか見ていません」
「じゃ全員?」
「増やせば正しくなるとは限りません」
◇
青い帽子の女の子が。
板の下にしゃがんだ。
「これ、消した人が間違ってたら?」
先生が言う。
「直す」
「誰が?」
「気づいた人が」
「また同じじゃん」
先生が黙った。
女の子は続けた。
「気づいた人が間違ってたら?」
◇
秩序ちゃんが赤いペンを取った。
渾沌ちゃんが見る。
「書くの?」
「一つだけ」
赤線の横。
《右は七時五十分ごろ壁。パン屋から来た人が確認》
「名前ないじゃん」
「本人に聞いていません」
パン屋の店員が手を上げる。
「名前、書いていいですよ」
「必要ですか」
「あとで聞かれた時、私が見たって言えます」
秩序ちゃんは少し考えた。
その末尾に。
《パン屋・佐藤》
と足した。
◇
「佐藤さんだったんだ」
渾沌ちゃん。
「今?」
「聞いたことなかった」
「今、そこですか」
「大事じゃん」
佐藤が笑った。
「覚えなくていいですよ」
「もう覚えた」
◇
八時十一分。
駅から六年生が二人来た。
「左、来られたよ」
「何時?」
「今」
「どこから?」
「駅」
先生が書く。
《八時十分、駅から左で到着》
止まる。
「名前いる?」
一人が首を振る。
「やだ」
「じゃ書かない」
もう一人が言う。
「六年二組って書いて」
「それならいい?」
「うん」
◇
板に。
字が戻り始めた。
ただし。
昨日とは少し違った。
《見た》
《通った》
《聞いた》
その横に。
書いてよい人だけ。
名前。
店名。
学年。
何も残したくない人は。
《本人確認・名なし》
◇
「結局、記録増えたね」
渾沌ちゃん。
「増やすことが目的ではありません」
「でも増えた」
「はい」
「誰が言ったかって大事なんだ」
「いつもではありません」
「今回は?」
「訂正した後に、聞き返せる程度には」
◇
午前八時二十六分。
北から男が来た。
「団地の道、通れます」
「確認しましたか」
「妻が」
「あなたは?」
「見てません」
先生は板に。
《団地から北で通れるらしい》
と書いた。
渾沌ちゃんが笑う。
「急に弱い」
「見ていないので」
「役に立つ?」
「たぶん」
「たぶん情報」
「はい」
◇
子供の一人が聞く。
「じゃ北で帰っていい?」
「それは別」
先生。
「なんで?」
「今のは、人から聞いた話だから」
「嘘かもしれない?」
「嘘じゃなくても、もう変わってるかもしれない」
「じゃ何のために書くの?」
先生は困った。
「……調べる場所を決めるため?」
秩序ちゃんが頷く。
「それなら使えます」
◇
午前九時。
赤線を引いた人は。
まだ分からなかった。
でも。
誰も探しに行かなかった。
板は使えていた。
◇
昼。
PANDEMONIUMの客席。
佐藤がバーガーを食べながら言った。
「名前、書かなきゃ駄目ですかね」
「嫌でしたか」
秩序ちゃん。
「嫌じゃないです。でも、毎回だと面倒です」
「じゃ書かない?」
渾沌ちゃん。
「でも今朝みたいな時は、誰が見たか分かった方がいい」
「使い分ければいいです」
「基準は?」
「決めていません」
「また?」
「はい」
佐藤は笑った。
「それ、慣れてきました」
◇
午後三時四十分。
学校へ戻る。
朝の赤線の下に。
新しい文字があった。
《朝、全部消したのは私です》
青い帽子の女の子が読む。
「いた」
その下。
《昨日、北から帰ったら途中で道がなくなりました。昨日の情報で今日も子供が行くと思って、全部違うと思いました》
「名前ない」
渾沌ちゃん。
さらに下。
《名前は書きません》
◇
先生が板を見る。
「勝手に全部消したのは困るな」
女の子が聞く。
「でも、間違ってた?」
「全部は間違ってなかった」
「この人も困ったんじゃない?」
「たぶん」
「じゃどうする?」
先生はペンを持った。
少し考えて。
匿名の文の下に書く。
《教えてくれてありがとうございます。次は、違うと思った行だけ消してください。全部なら、理由も残してください》
◇
秩序ちゃんが言った。
「名前を求めないんですね」
「聞きたいです」
「では、なぜ?」
「名前を言わないと直せない場所にしたくないから」
「でも、誰でも消せるよ?」
渾沌ちゃん。
「うん」
「また全部消されたら?」
「また困る」
「怒る?」
「たぶん」
「禁止する?」
先生は板を見る。
「その時考える」
◇
放課後。
女の子が母親と帰る。
北の道は。
途中まであった。
板には。
《十五時五十分、団地方面。途中まで確認》
その横に。
《母と子》
「名前書かないの?」
渾沌ちゃんが聞く。
母親が答える。
「今日はこれでいい」
「誰か分かんないよ」
「娘と私には分かる」
「他の人は?」
「途中までって分かればいいでしょ」
◇
閉店前。
白い板は。
きれいではなかった。
字の大きさも。
書き方も。
名乗り方も。
揃っていない。
赤い線も残っている。
朝の匿名の文も。
消されなかった。
誰が直したか分かるところ。
分からないところ。
名乗らなかったところ。
それぞれが。
同じ板に残った。
正しさを。
名前のある人だけのものにはしなかった。
でも。
誰が見たのかを尋ねる道まで。
消さなかった。




