第68話「知っている人を、そこから動けなくしないでください」
水曜日。
午前七時四十八分。
学校の校門に。
先生がいなかった。
「昨日、立つって言ってたよね」
渾沌ちゃん。
「毎日とは言っていません」
秩序ちゃん。
白い板も空白だった。
その前に。
子供が六人。
立っていた。
「今日どっち?」
「知らない」
「先生は?」
「職員室」
「呼んだ?」
「呼んだ」
「来ない」
◇
職員室へ行く。
昨日の先生は電話中だった。
「はい。今行きます」
切る。
鞄を掴む。
秩序ちゃんを見る。
「ちょうどよかった」
「何がですか」
「門、お願いできますか」
「どこへ?」
「公園です。転んだ子がいるって」
「行ってください」
先生が止まった。
「でも、今日の道をまだ見てないんです」
◇
「じゃ私見る!」
渾沌ちゃん。
「待ってください」
「急いでるよ」
「だからです」
先生が鞄を置いた。
「私が見ます。五分で」
「転んだ子は?」
「別の先生に」
職員室の奥から声。
「私、今日は校外出られません」
「じゃ保健の先生」
「まだ来てません」
先生は時計を見る。
七時五十分。
鞄。
校門。
電話。
三つを見る。
「……先に道を見ます」
◇
秩序ちゃんが聞いた。
「なぜですか」
「私が確認するって決めたからです」
「昨日ですね」
「はい」
「昨日、何のために決めましたか」
先生は答えなかった。
電話がまた鳴った。
◇
「子供が一人で待たないためです」
先生が言った。
「はい」
「だから確認しないと」
渾沌ちゃんが電話を見る。
「今も子供待ってるよ」
先生の手が止まる。
「公園で」
◇
先生は鞄を持った。
「行きます」
「門は?」
「分かりません」
「それで行くの?」
「分からないままにします」
◇
校門へ戻る。
六人が八人になっていた。
先生が言う。
「ごめん。今日の道、まだ分からない」
「えー」
「学校入れないの?」
「入れるよ。道が分かるまで、ここから勝手に行かないで」
「先生は?」
「怪我した子を迎えに行く」
「じゃ誰に聞くの?」
先生は。
別の先生を見る。
「お願いしていい?」
「道、私分からないですよ」
「分からないって言ってくれればいい」
「それだけ?」
「それだけじゃない」
白い板を渡す。
「分かったら書いて。変わったら消して。分からなくなったら、それも消して」
「あなたに確認しなくていい?」
先生は少し迷った。
「いい」
◇
走っていった。
渾沌ちゃんが見送る。
「任せた」
「はい」
「昨日は自分でやるって言ってたのに」
「昨日は、それが必要でした」
「今日は?」
「邪魔になりました」
◇
午前八時二分。
別の先生が子供たちと門の外を見る。
道は二本。
右は商店街。
左は川沿い。
「昨日、右だったよ」
青い帽子の女の子が言った。
「今日は?」
「知らない」
「先生も知らない」
「じゃどうする?」
別の子が左を見る。
「向こうから六年生来た」
三人。
ランドセル。
左の道から歩いてくる。
「学校、こっち?」
「うん」
「どこから来た?」
「駅」
「右から来られる?」
「知らない」
先生は板に書いた。
《駅からは左で来られました》
◇
「学校への道は左、じゃないんだ」
渾沌ちゃん。
「確認できたことだけですね」
「地味」
「十分です」
◇
八時十分。
パン屋の店員が右から来た。
台車を押している。
「右、通れますよ」
「どこから?」
「パン屋」
先生がもう一行。
《パン屋からは右で来られました》
子供が聞く。
「家からは?」
「まだ分からない」
「じゃ待つ?」
「家がどこか教えて」
◇
八人。
家は四方向だった。
先生一人では。
全部を見に行けない。
「私、北!」
「僕も」
「私は駅の方」
「駅は来られたって」
子供たちが話し始める。
誰かが知っている道。
誰も知らない道。
さっき通れた道。
昨日しか知らない道。
先生は。
全部を板に書かなかった。
「それ、書かないの?」
渾沌ちゃんが聞く。
「昨日の話だから」
「成長した」
「昨日、怒られましたから」
◇
午前八時十八分。
最初の先生が戻ってきた。
隣に男の子。
膝に絆創膏。
「大丈夫?」
「痛い」
「歩ける?」
「歩いてる」
先生は白い板を見る。
二行。
少ない。
「これだけ?」
別の先生が少し身構える。
「はい」
「北は?」
「まだ誰も来てません」
「昨日は?」
「書きませんでした」
先生は。
しばらく板を見た。
「うん」
それだけ言った。
◇
青い帽子の女の子が聞く。
「先生、直さないの?」
「何を?」
「板」
「間違ってる?」
「分かんない」
「私も」
「じゃそのまま?」
「今分かってるところは」
女の子は頷いた。
◇
午前八時二十五分。
北から。
昨日の母親が来た。
「今日、こっち通れます」
「どこからですか」
「団地」
別の先生がペンを持つ。
最初の先生が言った。
「書いて」
別の先生が見る。
「私が?」
「見た人から聞いたの、あなたでしょ」
「あとで違ったら?」
「消して」
「私が?」
「気づいた人が」
◇
渾沌ちゃんが秩序ちゃんの袖を引く。
「どんどん雑になってない?」
「逆です」
「どこが?」
「誰が正しいかを、決めなくなっています」
「じゃ間違えるよ」
「はい」
「いいの?」
「間違えた時に、直せる人を一人にしない方がいいです」
◇
午前九時。
白い板には四行。
字が違った。
先生の字。
別の先生の字。
母親の字。
六年生の字。
最後の一行だけ。
赤い線で消されていた。
《公園からは裏門で来られました》
その横。
《八時五十分、裏門はありません》
「なくなったんだ」
渾沌ちゃん。
「はい」
「誰が消したの?」
「分かりません」
「いいの?」
秩序ちゃんは板を見る。
消した線の横に。
小さく。
《見に行ったら壁でした》
「十分です」
◇
昼。
最初の先生がPANDEMONIUMへ来た。
「怖いですね」
「何が?」
渾沌ちゃん。
「自分が見てないことを、他の人に書かせるの」
「じゃ全部見る?」
「無理です」
「昨日はやろうとしてたよ」
「はい」
先生は苦笑した。
「昨日の私は、毎日ずっと門にいるつもりだったんですかね」
「たぶん、そこまで考えていません」
秩序ちゃん。
「厳しいですね」
「私もよくやります」
「何を?」
「正しくするために、正しくできる人を動けなくすることです」
◇
渾沌ちゃんが笑わなかった。
「秩序ちゃんも?」
「はい」
「今も?」
「たぶん」
「どこで?」
「それが分かれば、減らせます」
「分かんないんだ」
「はい」
◇
放課後。
白い板の前に。
朝の先生はいなかった。
別の先生もいない。
青い帽子の女の子が立っていた。
母親を待っている。
板の一行を指す。
《団地からは北で来られました》
「これ、帰りも北?」
渾沌ちゃんが聞く。
「知らない」
「じゃどうする?」
「お母さん来る」
「来なかったら?」
「先生に聞く」
「先生も知らなかったら?」
女の子は少し考えた。
「一緒に知らない」
「何それ」
「一人で知ってるふりしないの」
◇
母親が来た。
「北、今は壁だったよ」
女の子が板を見る。
「消す?」
「消そうか」
母親が赤いペンを取る。
一本。
線を引く。
《団地からは北で来られました》
その下に。
《帰りは確認できません》
◇
秩序ちゃんは。
直さなかった。
渾沌ちゃんも。
触らなかった。
母親と女の子は。
先生を探しに校舎へ戻った。
白い板だけが残る。
朝より。
字は増えていた。
正解は。
増えていなかった。
でも。
誰か一人がそこに立ち続けなくても。
分かったことは渡せた。
分からなくなったことも。
渡せるようになっていた。




