第67話「書いてある『今』が、まだ今だと思わないでください」
火曜日。
午後四時十二分。
PANDEMONIUMのドアが、勢いよく開いた。
「子供、来てませんか」
昨日の母親だった。
青い帽子を握っている。
息が切れていた。
「昨日の子?」
渾沌ちゃんがレジから顔を出す。
「はい。学校にいないんです」
秩序ちゃんが時計を見る。
「下校時刻は?」
「三時半です」
「家には?」
「いません」
「学校には確認しましたか」
「しました。帰ったって」
母親は帽子を握り直した。
「でも、帰る道が違うんです」
◇
三人で学校へ向かった。
昨日は三本だった道が。
今日は一本しかない。
「簡単になった」
渾沌ちゃん。
「そうとは限りません」
校門の横に、白い板があった。
《本日の帰宅路 左》
矢印。
その下。
《午前七時確認》
「左ないよ」
渾沌ちゃんが言った。
矢印の先は壁だった。
◇
先生が走ってきた。
「すみません」
「この表示は、いつまで有効ですか」
秩序ちゃん。
「朝、確認した時は左だったんです」
「今は?」
「三時ごろ、変わりました」
母親が先生を見る。
「変わったの、知ってたんですか」
「はい」
「じゃ、なんでこれ」
先生は白い板を見る。
「消すのを忘れました」
◇
渾沌ちゃんが壁を叩く。
「この向こう?」
「決めないでください」
「でも左って書いてある」
「朝の左です」
「左は左じゃん」
「今の左とは限りません」
母親が口を挟んだ。
「娘は、これ見ましたか」
先生が黙る。
「見てます。帰る前に」
◇
午後四時二十一分。
捜す。
壁の手前。
校庭。
体育館。
昨日の公園。
いない。
母親の歩く速度が上がる。
「一人で行くなって言ってあります」
「はい」
「分からない道は待てって」
「はい」
「じゃ、待ってるはずです」
渾沌ちゃんが言った。
「誰を?」
母親が止まった。
◇
昨日。
女の子は八百屋を待った。
八百屋が今は手伝えないと分かって。
秩序ちゃんたちと学校へ行った。
今日。
学校には。
《本日の帰宅路 左》
と書いてあった。
「道を待ってる?」
渾沌ちゃん。
秩序ちゃんが壁を見る。
「可能性があります」
「道って戻るの?」
「昨日までなら、戻ることもありました」
「じゃ壁の前?」
「そこにはいませんでした」
◇
先生が言った。
「朝の左って、どこでした?」
「公園の裏です」
「行きます」
先生が先に走った。
秩序ちゃんが呼ぶ。
「待ってください」
「でも私が」
「だからです」
先生が振り返る。
「あなたは今、どこへ行くつもりですか」
「朝の道です」
「朝の道は、まだありますか」
「……分かりません」
「では、朝を追わないでください」
◇
渾沌ちゃんが道路を見る。
「この子なら、どうするかな」
「昨日は?」
母親が答える。
「分からなかったら、人に聞くって」
「誰に?」
「いる人」
「断られたら?」
「次の人」
「誰もいなかったら?」
「戻る」
秩序ちゃんが顔を上げた。
「戻る場所は」
「学校」
三人が校門を見る。
先生だけが。
首を振った。
「いませんでした」
「いつ確認しましたか」
「三時五十分です」
「どこを?」
「教室と昇降口」
「校門は?」
「……見てません」
◇
校門の外。
白い板の裏。
狭い隙間。
青いランドセルが見えた。
「いた!」
母親が走る。
女の子はしゃがんでいた。
膝に顔を埋めている。
「お母さん?」
「何してたの!」
抱きしめる。
「道、なくなった」
「なんで先生呼ばなかったの」
「学校、閉まってた」
「閉まってないよ」
「帰ったら戻っちゃだめだと思った」
◇
先生がしゃがむ。
「ごめん」
女の子は白い板を見る。
「左って書いてあった」
「うん」
「待ってたら戻ると思った」
「うん」
「戻らなかった」
「うん」
先生は。
言い訳をしなかった。
◇
秩序ちゃんが白い板へ手を伸ばす。
先生が先に取った。
「私がやります」
板を外す。
消す。
《本日の帰宅路 左》
白くなる。
先生はペンを持った。
止まる。
「何を書けばいいですか」
秩序ちゃんに聞いた。
「私が決めますか」
「……いいえ」
先生は女の子を見る。
「何が書いてあったら、待たなかった?」
女の子は考える。
「分かんない」
「じゃ、何があったらよかった?」
「先生」
◇
先生はペンを置いた。
「板じゃないんだ」
渾沌ちゃん。
「板も使います」
先生。
「でも、帰る時に私が見ます」
「全員?」
「できる日は」
「できない日は?」
「別の先生に頼む」
「その先生も無理だったら?」
先生は少し困った。
「その時は、帰宅路を確認できていないって子供に言います」
女の子が聞く。
「じゃ帰らない?」
「一緒に考える」
「先生も分かんないのに?」
「分かんないから」
◇
母親が立ち上がる。
「毎日迎えに来た方がいいですか」
先生が答える前に。
女の子が言った。
「やだ」
「なんで」
「友達と帰りたい」
「今日みたいになったら?」
「先生に聞く」
「先生も分からなかったら?」
「待つ」
「また?」
「一人で待たない」
◇
先生が頷いた。
「それなら、私も待つ」
母親が先生を見る。
「仕事は?」
「困ります」
「困るんだ」
「困ります。でも今日、この子は一人で四十分待ちました」
先生は白い板を見る。
「書いたのは私です」
◇
帰り道。
女の子は母親と歩いた。
青い帽子を被っている。
渾沌ちゃんが先生に聞く。
「明日の道、もう調べる?」
「明日の朝にします」
「今調べた方が楽じゃない?」
「今調べた道を、明日の道にしたくないので」
秩序ちゃんが先生を見る。
「変わりましたね」
「何がですか」
「昨日は、みんな知っていると思っていました」
先生は苦い顔をした。
「それ、覚えてたんですか」
「はい」
「忘れてください」
「記録はしません」
「覚えてるじゃないですか」
◇
午後五時。
学校の白い板には。
何も書かれていなかった。
空白。
その前で。
別の先生が立ち止まる。
「消したんですか」
「うん」
「明日は?」
「明日書く」
「今日のうちに書いた方が」
「明日のこと、まだ知らないから」
「じゃ、朝忘れたら?」
「忘れたって言う」
「それでいいの?」
「今日、分かったふりしたから」
◇
PANDEMONIUMへ戻る。
八百屋の前。
昨日の札が出ていた。
《今は店を離れられません》
渾沌ちゃんが店を覗く。
誰もいない。
「おばちゃんいないよ」
札だけある。
秩序ちゃんは触らなかった。
少しして。
八百屋の女が向こうから走ってきた。
「あ、それ!」
札を見て頭を抱える。
「しまい忘れた!」
「今、離れてたね」
「離れてたね……」
女は札を裏返した。
「捨てる?」
「捨てない」
「また使う?」
「使う」
「いつ?」
女は店の中へ札を持っていく。
「その時」
◇
閉店後。
学校の板は空白だった。
八百屋の札は店の中だった。
今日の道も。
今日の都合も。
残ってはいた。
ただ。
明日の人より先に。
明日を決める場所には置かれなかった。




