第66話「待っている人がいることを、まだ知らない」
月曜日。
午前九時。
八百屋は開いていた。
「復活」
渾沌ちゃんが言った。
「営業再開です」
秩序ちゃんが言う。
「同じじゃん」
「少し違います」
店先には、キャベツ。
大根。
トマト。
その横に。
ランドセルが一つ置いてあった。
「野菜じゃない」
「見れば分かります」
◇
持ち主は、店の脇にいた。
小学三年生くらいの女の子。
しゃがんで、道路を見ている。
「学校は?」
渾沌ちゃんが聞いた。
「行く」
「今?」
「うん」
「遅刻じゃん」
「うん」
女の子は平気そうだった。
でも。
ランドセルは背負わない。
「何を待っているんですか」
秩序ちゃんが聞いた。
「おばちゃん」
「八百屋の?」
「うん」
◇
八百屋の女は。
店の奥で段ボールを開けていた。
昨日まで二日休んだ分。
野菜が朝からまとめて届いている。
「ごめんね。もうちょっと」
女が言う。
「うん」
「十分くらい」
「うん」
渾沌ちゃんが時計を見る。
「何するの?」
「学校まで一緒に行くの」
「なんで?」
女の子が道路を指した。
角の先。
道が三つに分かれている。
「朝は、学校がどれか分かんなかった」
「昨日は?」
「二つだった」
「増えたね」
「増えましたね」
秩序ちゃんが見る。
どの道にも。
同じ黄色い標識。
《学校》
矢印だけが違った。
◇
「一人で試さなかったんですか」
「お母さんに、分かんない道は一人で行くなって言われてる」
「正しい」
渾沌ちゃんが頷いた。
「で、おばちゃん?」
「昨日、できる時は手伝うって言ってたから」
八百屋の女の手が止まった。
「聞いてたの?」
「うん」
「誰に?」
「みんなに」
「みんなには言ってないよ」
「店の前で言ってた」
「ああ……」
女は段ボールを見る。
まだ六箱。
「ごめん。十分じゃ無理かも」
「いいよ」
女の子はまたしゃがんだ。
◇
午前九時二十分。
トラックが来た。
さらに四箱。
「増えた」
渾沌ちゃん。
「増えたね……」
八百屋の女。
女の子は何も言わない。
「学校、何時まで?」
「三時」
「そうじゃなくて」
「もう遅刻してるから同じ」
「同じじゃないよ」
「でも、おばちゃん忙しいし」
◇
秩序ちゃんが女の子の前にしゃがんだ。
「私たちと行きますか」
女の子は。
八百屋を見る。
「おばちゃん待ってる」
「どうして?」
「約束したから」
八百屋の女が顔を上げた。
「約束?」
「できる時はやるって」
「それ、約束じゃないよ」
女の子が黙った。
◇
店の前が。
少しだけ静かになった。
女は軍手を外した。
「ごめん」
「なんで?」
「待たせたから」
「でも、できる時だけでいいんでしょ」
「うん」
「今、できないんでしょ」
「うん」
「じゃ、いいよ」
女の子は笑った。
それでも。
ランドセルを背負わなかった。
◇
「行かないの?」
渾沌ちゃん。
「待つ」
「なんで?」
「できるようになるかもしれないから」
◇
秩序ちゃんが。
八百屋の女を見る。
女も。
秩序ちゃんを見る。
「これ、私が悪い?」
「分かりません」
「そこは分かんないんだ」
「手伝える時だけ手伝うことは、悪くありません」
「じゃ、この子が待つのも?」
「悪くありません」
「じゃあ」
「でも、お互いに知りませんでした」
「何を?」
秩序ちゃんは。
女の子を見る。
「待っていることを」
◇
午前九時二十八分。
八百屋の女は。
店先に札を出した。
白い紙。
黒いペン。
《十一時まで手伝えません》
渾沌ちゃんが読む。
「営業時間みたい」
「嫌だなあ」
「じゃやめる?」
「やめない」
女の子が立った。
「十一時?」
「うん」
「じゃ、待つ」
「待たないで」
「なんで?」
「学校行って」
「誰と?」
◇
秩序ちゃんが手を上げた。
「私が行きます」
女の子が見る。
「道、分かる?」
「分かりません」
「だめじゃん」
「一緒に確かめます」
「三つあるよ」
「はい」
「間違えたら?」
「戻ります」
「学校なくなったら?」
「その時考えます」
渾沌ちゃんが笑った。
「頼りない」
「知っています」
◇
三人で角まで行った。
女の子。
秩序ちゃん。
渾沌ちゃん。
「渾沌ちゃんも来るんですか」
「三本あるし」
「一人一本ではありません」
「じゃ私、真ん中」
「聞いてください」
◇
標識。
右。
《学校》
真ん中。
《学校》
左。
《学校》
「どれ?」
女の子。
「分かりません」
「全部行く?」
渾沌ちゃん。
「一つずつです」
秩序ちゃんは。
右の道を見る。
舗装。
新しい靴跡。
小さい。
何人分もある。
「右から行きます」
「なんで?」
「子供の靴跡が多いからです」
「学校じゃなくて公園かも」
「ありえます」
「じゃ、違うかも?」
「はい」
女の子が。
ランドセルを背負った。
「行こ」
◇
右へ行った。
三分。
公園だった。
「公園じゃん!」
渾沌ちゃんが笑う。
「公園でした」
秩序ちゃん。
女の子も笑った。
「外れ」
「戻ります」
◇
戻る途中。
公園から男の子が出てきた。
同じ学校の帽子。
「学校そっちじゃないよ」
「知ってる?」
「真ん中」
「なんで?」
「さっき行ったから」
「学校あった?」
「体育館だけ」
「だけ?」
「校舎は左」
◇
四人になった。
真ん中へ。
体育館があった。
体育館の裏から。
細い道。
左の道へ繋がっていた。
「全部学校だった」
女の子が言った。
「入口が違いました」
秩序ちゃん。
「じゃ一人で行けたじゃん」
渾沌ちゃん。
「朝は知らなかったもん」
「そうだね」
◇
午前九時四十七分。
校門。
先生が立っていた。
「遅かったね」
「道が三つあった」
「今日は三つだったね」
「知ってたの?」
「七時に見たから」
「教えてよ!」
「ごめん。みんな知ってると思ってた」
◇
秩序ちゃんが止まった。
女の子も。
先生を見る。
「みんなって誰?」
先生が困った。
「……みんな?」
「私、知らなかった」
「うん」
「八百屋のおばちゃんも知らなかった」
「そうか」
「だから待ってた」
先生は少し考えた。
「明日から、門の前に書いておく」
「明日も変わる?」
「たぶん」
「じゃ書いて」
「書く」
女の子は校門へ走った。
◇
帰り道。
「結局、掲示板」
渾沌ちゃんが言った。
「そうですね」
「ルール増えた?」
「いいえ」
「じゃ何?」
「今日知っている人が、今日知らない人へ伝えるだけです」
「毎日?」
「必要なら」
「面倒」
「はい」
◇
午前十時。
八百屋へ戻る。
女はまだ箱を開けていた。
「着いた?」
「着きました」
「よかった」
店先の札。
《十一時まで手伝えません》
女はそれを見る。
「これ、変かな」
「どうしてですか」
「十一時になったら、絶対手伝えるみたい」
「そう見えます」
「じゃ、消す」
紙を裏返す。
少し考える。
《今は店を離れられません》
渾沌ちゃんが読む。
「今っていつまで?」
「分かんない」
「役に立つ?」
「待たなくていいことは分かるでしょ」
◇
午後。
杖の男が八百屋の前で止まった。
札を読む。
《今は店を離れられません》
店の中を見る。
女と目が合う。
「病院?」
女が聞いた。
「今日は違う」
「じゃ何?」
「大根」
「それなら売れるよ」
「一本」
「はいよ」
男は大根を受け取った。
金を払う。
「明日は?」
女が聞く。
「何が?」
「病院」
「行くかもしれない」
「手が空いてたら行くよ」
男は札を見る。
それから笑った。
「じゃ、明日聞く」
「うん。明日聞いて」
◇
閉店後。
札は店の中へしまわれた。
約束にはならなかった。
断りにもならなかった。
明日の返事を。
今日のうちに決めなかった。
ただ。
待っている人がいるなら。
待っていることだけは。
相手にも見えるようになった。




