第65話「受け取った分まで、次の人に返さなくていいです」
日曜日。
午前九時十六分。
パン屋の前に、小さな紙袋が三つ並んでいた。
「これ、何?」
渾沌ちゃんが覗き込む。
「昨日の予約キャンセル分です」
パン屋の店員が答えた。
「売れ残り?」
「違います。取りに来られなかった分」
「同じじゃん」
「違います」
秩序ちゃんが紙袋を見る。
名前が三つ。
そのうち一つに、青い丸。
「これは?」
「昨日、保育園を先に通した人の分です」
「なんで青い丸?」
「代金を返した人」
渾沌ちゃんが止まった。
「返金したの?」
「はい。昨日、秩序ちゃんが」
「私が?」
「予約を失った人に」
「そうでした」
「じゃ、これどうするの?」
店員は三袋を持ち上げた。
「今日は別の人に渡します」
◇
午前九時二十三分。
最初の袋を持った人が来た。
知らない女だった。
「これ、昨日の?」
「はい」
「返金されたから、もう受け取らなくていいって思ったんですけど」
「パンは残っています」
「じゃ、もらいます」
女は袋を受け取った。
「ありがとうございます」
「代金はいりません」
「……そうですか」
女は帰った。
渾沌ちゃんが言う。
「得したね」
「そうですね」
秩序ちゃん。
「でも、ちょっと変」
「何がですか」
「昨日パンがなくなったから返金された人が、今日パンをもらう」
「別のパンです」
「でも同じ店」
「はい」
「じゃ、帳尻合った?」
秩序ちゃんは答えなかった。
◇
午前十時。
二つ目の袋。
昨日キャンセルした老人が来た。
「これ、私の分?」
「昨日の予約分です」
「昨日は取りに行けなかった」
「はい」
「孫が熱出してね」
「では、こちらを」
老人は受け取らなかった。
「昨日、返金されたんだ」
「はい」
「だから、これはいいよ」
「パンは残っています」
「でも、別の人にあげた方が」
店員が言った。
「昨日の分だから、昨日の人へ戻したかったんです」
老人が首を振る。
「戻さなくていいよ」
◇
「どうして?」
渾沌ちゃん。
「昨日、困ったのは私だけじゃないから」
「誰?」
「パンを待ってた人」
「あなたも待ってたよね」
「待ってた。でも、私の分を取り返したら、また誰かが待つだろ」
秩序ちゃんが聞いた。
「では、どうしますか」
「分からない」
「渡さない?」
「それも違う」
老人は紙袋を見る。
「これ、今日食べたい人にあげればいいんじゃないか」
◇
店員が笑った。
「それなら、店で売ります」
「返金したのに?」
「別の商品として」
「じゃ買うよ」
「それなら普通です」
老人は財布を出した。
「昨日の分を、今日の分にするんじゃなくて?」
「はい」
「それがいい」
◇
午後一時。
最後の袋が残った。
渾沌ちゃんが値札を書く。
「三百円」
「安すぎませんか」
「形悪いし」
「でも食べられます」
「だから三百円」
店員が札を見る。
「これ、昨日の損失を取り戻すため?」
「違うよ」
渾沌ちゃん。
「今日売るため」
秩序ちゃんが札を貼った。
◇
午後一時十二分。
最後の袋を買ったのは。
昨日、予約を失った人だった。
「また買うんですか」
「昨日は必要だったんです」
「今日は?」
「今日は、食べたいから」
店員が笑った。
「じゃ、どうぞ」
「ありがとう」
袋が渡った。
◇
午後二時。
PANDEMONIUMへ戻る途中。
秩序ちゃんが言った。
「昨日の選択で、失われたものを戻そうとしました」
「うん」
「でも、戻すこと自体が必要とは限りませんでした」
「今日のパンみたいに?」
「はい」
「じゃ、返さない方がいい?」
「違います」
「また違う」
「返す必要があるものと、返さなくてもいいものを分けます」
「どうやって?」
秩序ちゃんは歩きながら考えた。
「受け取った人に、決めてもらいます」
「また本人?」
「はい」
「昨日はそれで揉めたよ」
「だから、今回は一人に背負わせません」
◇
夕方。
八百屋の女が店に来た。
「これ、昨日の話?」
「はい」
「じゃ、私も返す」
「何をですか」
「昨日、子供を送った分」
「返す必要はありません」
「でも、助けてもらったから」
「誰にですか」
「みんなに」
「では、みんなへ返しますか」
「それは無理」
「ですよね」
渾沌ちゃんが笑った。
「じゃ何する?」
女は少し考えた。
「明日、困ってる人がいたら、できる時だけ手伝う」
「昨日と同じじゃん」
「違うよ」
「何が?」
「昨日助けてもらったからじゃない。明日、私ができるから」
◇
秩序ちゃんは黙った。
受け取ったものを、そのまま次へ返す。
それなら。
善意は鎖になる。
昨日の借りを。
明日の義務に変えてしまう。
でも。
何も返さないことが正しいわけでもない。
女は帰る前に振り返った。
「明日、無理だったら断るよ」
「はい」
「その代わり、できる時はやる」
「はい」
「それでいい?」
秩序ちゃんは頷いた。
「それでいいです」
◇
閉店前。
パン屋の店員が、昨日の売上表を破った。
「何してるの?」
渾沌ちゃん。
「昨日の損失を、今日の売上から返そうとしてたんです」
「駄目なの?」
「駄目ではありません」
秩序ちゃん。
「でも、今日売れた理由まで昨日のせいにしたくない」
紙片がゴミ箱に落ちる。
「じゃ、昨日のことは?」
「昨日のことです」
「消す?」
「消しません」
「じゃ残す?」
「残します」
「どっち」
「記録は残します。借りにはしません」
渾沌ちゃんが笑った。
「それ、結構むずかしいね」
「はい」
◇
夜。
八百屋は閉まっていた。
パン屋も閉まる。
その前を。
昨日の杖の男が歩いた。
角で止まる。
今日は誰にも頼まない。
少し歩いて。
パン屋の裏口を見る。
戻る。
「明日は、できるかもしれない」
誰にも聞かれない声だった。
そのまま歩く。
PANDEMONIUMの灯りだけが。
角の向こうに残った。
昨日の選択は。
明日の義務にはならなかった。
けれど。
今日の人間を。
昨日の人間から切り離すこともなかった。




