第64話「両方困るなら、選ばなかった方のことも引き受けてください」
土曜日。
午前七時五十二分。
八百屋は、今日も閉まっていた。
「二連休」
渾沌ちゃんが言った。
「休みです」
「同じじゃん」
「言い方が違います」
その向かいで。
パン屋の店員が、道路の真ん中に立っていた。
右を見ている。
左も見る。
「何してるの?」
「困ってます」
「見れば分かる」
◇
道路は。
途中から一本だった。
昨日まで二本あった道が、十メートル先で細くなっている。
幅は、人二人分。
その先で。
二つに分かれていた。
右。
保育園。
左。
パン屋の裏口。
「普通じゃない?」
渾沌ちゃん。
「途中が普通じゃないんです」
店員が言った。
細い道の入口に、台車が一台。
奥から。
女が走ってくる。
「すみません!」
◇
女は息を切らしていた。
肩に仕事用の鞄。
手に、小さな青い帽子。
「保育園まで行きたいんです」
「行けば?」
「今、この道を右へ使うと」
パン屋の店員が左を指した。
「こっちが閉じるんです」
「閉じる?」
「やってみます?」
「やらないでください」
秩序ちゃんが来た。
◇
昨日の夕方。
この細道を右へ抜けた人がいた。
その瞬間。
左側の道は壁になった。
二十分後。
戻った。
今朝。
左へ台車を通した。
右が消えた。
二十三分後に戻った。
「交互?」
「そう見えます」
「じゃ順番でいいじゃん」
パン屋の店員が首を振った。
「今日は、両方急いでるんです」
◇
女が青い帽子を握る。
「八時までに迎えなんです」
「朝に迎え?」
渾沌ちゃん。
「夜勤でした」
「子供は?」
「昨日から延長で預かってもらってます」
「八時過ぎたら?」
「先生が残ってくれます。でも」
女は時計を見る。
「昨日、七時に帰れるって言いました」
◇
パン屋の店員が台車を見る。
上に、銀色の箱が四つ。
「こっちは?」
「生地です」
「パン?」
「今日の分」
「二十分待ったら?」
「発酵が進みすぎます」
「全部?」
「たぶん半分以上」
「作り直す?」
「昼になります」
「困る?」
「予約が百二十個あります」
◇
女が言った。
「パンを先にしてください」
店員が顔を上げた。
「いいんですか」
「二十分くらいなら」
「さっき八時って」
渾沌ちゃん。
「先生に電話します」
スマートフォンを出す。
画面を見る。
止まる。
「圏外」
◇
店員が言った。
「じゃ、そっち先で」
「でもパンが」
「百二十個全部なくなるわけじゃないです」
「半分以上って」
「焼ける分だけ焼きます」
「予約は?」
「謝ります」
女が首を振る。
「それは困るでしょう」
「そっちも困るでしょう」
二人とも。
譲った。
道は空いたままだった。
◇
午前七時五十八分。
「あと二分」
渾沌ちゃん。
「言わなくていいです」
女。
「ごめん」
秩序ちゃんは道を見る。
右。
保育園。
左。
パン屋。
どちらも見えている。
どちらも行ける。
ただし。
今は、一つだけ。
「お二人で決められますか」
秩序ちゃんが聞いた。
二人とも答えなかった。
◇
七時五十九分。
秩序ちゃんが言った。
「保育園を先にします」
パン屋の店員が見る。
女も見る。
渾沌ちゃんが。
何も言わなかった。
「理由は?」
店員が聞いた。
「子供が待っているからです」
「パンを待ってる人もいます」
「はい」
「百二十人」
「はい」
「じゃ、なんで?」
◇
秩序ちゃんは一秒黙った。
「数では決めません」
「じゃ何で?」
「今、私が決めました」
◇
渾沌ちゃんが秩序ちゃんを見る。
「それでいいの?」
「よくはありません」
「じゃ変える?」
「変えません」
女が言う。
「私、待てます」
「もう決めました」
「でも」
「あなたに決めさせると、パンの損失まであなたが選んだことになります」
女が黙った。
パン屋の店員も。
◇
「行ってください」
女は走った。
細道へ。
右。
保育園。
角を曲がる。
その瞬間。
左の道が消えた。
白い壁。
パン屋の店員は。
台車の前に立っていた。
「消えた」
渾沌ちゃん。
「はい」
◇
午前八時一分。
店員が銀色の箱を開けた。
生地が膨らんでいる。
「これ、あとどのくらい?」
「分かりません」
「さっき二十分って」
「昨日と同じならです」
「同じじゃなかったら?」
「もっと駄目になります」
店員は蓋を閉めた。
「じゃ、戻るまで待ちます」
「待たなくていいです」
秩序ちゃん。
「え?」
「別の入口を探します」
「あるんですか」
「分かりません」
「ないかもしれない?」
「はい」
「じゃ店は?」
「渾沌ちゃん」
「え、私?」
「お願いします」
「今日も一人?」
「十五分で戻ります」
「昨日それで橋なくなったよ」
「今日は十五分で戻れなければ、戻れないと連絡します」
「圏外だよ」
「……」
「そこ忘れた?」
「忘れました」
◇
店員が笑った。
「いいですよ。そこまでしなくて」
「よくありません」
「選んだだけでしょう」
「私が選びました」
「だから?」
「こちらの損失まで、あなた一人に置きません」
◇
渾沌ちゃんが言った。
「私も行く」
「店は?」
「閉める」
「勝手に閉めないでください」
「じゃどうすんの」
「店にいてください」
「秩序ちゃんだけ責任取るの?」
「私が決めました」
「でも、私止めなかったよ」
「止める必要はありません」
「じゃ私関係ない?」
秩序ちゃんが止まった。
◇
「関係あります」
「どっち」
「私が決めました。でも、一緒にいたことまで消えません」
「じゃ何すればいい?」
「店をお願いします」
「それ責任?」
「私には助かります」
「じゃやる」
◇
午前八時四分。
秩序ちゃんと店員は、左の壁に沿って歩いた。
裏口は見える。
近い。
壁だけが続いている。
「越える?」
「生地を持っては無理です」
「投げる?」
「パン生地を?」
「冗談です」
「秩序ちゃん、冗談言うんですね」
「今は忘れてください」
◇
壁の端まで七分。
その先。
細い階段があった。
下へ。
「パン屋、下じゃないですよ」
「分かっています」
「行きます?」
秩序ちゃんは階段を見る。
湿った空気。
下から、焼いたパンの匂い。
「行きます」
「匂いで?」
「今は、それが一番具体的です」
◇
階段を降りる。
十二段。
地下ではなかった。
パン屋の厨房だった。
「着いた」
「はい」
「なんで?」
「分かりません」
「便利だなあ」
「今日はです」
◇
午前八時十三分。
台車を運び込む。
店員が箱を開ける。
「これはいける」
一つ。
「これも」
二つ。
三つ目。
指で押す。
「これは駄目ですね」
四つ目。
「半分、駄目です」
◇
秩序ちゃんは箱を見る。
「金額は?」
「え?」
「失った分です」
「いいですよ」
「よくありません」
「道のせいでしょう」
「道を作ったのは私ではありません」
「じゃ誰のせいでもない」
「選んだのは私です」
◇
店員が腕を組んだ。
「払うんですか」
「PANDEMONIUMで引き取ります」
「失敗した生地を?」
「食べられますか」
「焼けば。商品にはしませんけど」
「では買います」
「何にするの」
「まだ決めていません」
◇
午前八時二十六分。
PANDEMONIUMへ戻る。
普通の道だった。
壁はない。
「戻ってる」
「はい」
女が店の前にいた。
青い帽子を持っていない。
「間に合いました」
「そうですか」
「七時五十九分に着きました」
「よかったじゃん」
渾沌ちゃんが出てくる。
「先生、まだいた?」
「いました」
「子供は?」
女が笑った。
「怒ってました」
「なんで?」
「遅いって」
◇
女はパン屋の店員を見る。
「パンは?」
「半分駄目でした」
笑顔が消える。
「すみません」
「謝らないでください」
秩序ちゃん。
「でも私が先に」
「私が決めました」
「私のために」
「はい」
「じゃ私にも関係あるでしょう」
◇
秩序ちゃんは答えなかった。
さっき。
渾沌ちゃんにも言われた。
一緒にいたことは消えない。
助かった側も。
選ばれなかった側も。
決めた側も。
同じ場所に残っている。
「関係はあります」
女が頷く。
「じゃ、何かできますか」
◇
店員が言った。
「パン買ってください」
「え?」
「今日、焼けた方」
「それだけ?」
「予約分、キャンセル出るかもしれないんで」
「買います」
「普通!」
渾沌ちゃん。
「普通でいいんですよ」
店員が笑った。
◇
午後零時。
PANDEMONIUMの厨房に。
商品にできなかったパン生地があった。
二箱。
「これどうする?」
渾沌ちゃん。
「買い取りました」
「それは知ってる」
「焼きます」
「パンに?」
「パン生地なので」
「バーガーにしないの?」
秩序ちゃんが止まる。
「……してもいいですね」
「やった」
◇
焼いた。
形は悪かった。
膨らみすぎた生地は、横へ広がった。
丸くない。
「でかい」
「はい」
「挟む?」
「挟みます」
パティ。
レタス。
ソース。
閉じない。
「バーガー?」
「バーガーです」
「秩序ちゃんが言うならそうか」
「そこは疑ってください」
◇
午後一時。
パン屋の店員が来た。
「何これ」
「あなたの生地です」
「こんなことになったの?」
「なりました」
一つ渡す。
店員が食べる。
「うまい」
「商品にします?」
「しません」
「なんで?」
「毎日失敗できないでしょ」
◇
女も来た。
子供と一緒だった。
青い帽子。
「これ、朝のパン?」
「そうです」
子供が大きなバーガーを見る。
「変なの」
「食べる?」
渾沌ちゃん。
「食べる」
母親が聞く。
「売ってるんですか」
「今日は」
秩序ちゃん。
「今日だけ?」
「今日の損失なので」
◇
子供が一口。
ソースが横から落ちた。
「食べにくい」
「ごめん」
渾沌ちゃん。
「でもおいしい」
「じゃ成功」
「商品としては失敗です」
「厳しい」
◇
午後三時。
パン屋では。
予約百二十個のうち。
三十四個が遅れた。
十一人がキャンセルした。
残りは待った。
「怒られた?」
渾沌ちゃん。
「二人に」
店員。
「謝った?」
「謝りました」
「秩序ちゃんも?」
「私も行きます」
「来なくていいですよ」
「行きます」
「なんで?」
「私が選んだ結果だからです」
◇
一人目。
「仕方ないよ」と言った。
二人目。
「困る」と言った。
秩序ちゃんは。
どちらにも同じ説明をしなかった。
一人目には、謝った。
二人目には。
予約代を返した。
「次はちゃんとしてね」
「はい」
「次はどっちを通すの?」
秩序ちゃんは答えなかった。
「決めてないの?」
「決めていません」
「また同じこと起きたら?」
「その時、また選びます」
「今日と違う方かも?」
「はい」
客は少し嫌そうな顔をした。
「頼りないね」
「はい」
◇
帰り道。
渾沌ちゃんが言った。
「それでいいの?」
「何がですか」
「頼りないって」
「そう見えるでしょう」
「次も保育園じゃないの?」
「決めていません」
「子供待ってても?」
「今日と同じ条件なら、同じにする可能性は高いです」
「じゃルールじゃん」
「可能性です」
「細かい」
◇
午後五時四十分。
朝の細道。
もう二本に戻っていた。
右。
保育園。
左。
パン屋。
真ん中に。
知らない男が立っている。
右には。
大きな荷物を持った女。
左には。
自転車を押す高校生。
男が二人へ聞いた。
「どっち、先に行きます?」
二人とも。
「そちらから」と言った。
男が困った。
◇
渾沌ちゃんが笑う。
「朝と同じ」
「違います」
「何が?」
男が右を指した。
「じゃ、こっち先で」
女が聞く。
「なんでですか」
男は少し考えた。
「荷物、重そうだから」
「それだけ?」
「それだけ」
女が笑った。
「じゃ、お先に」
右へ行く。
左の道が消えた。
高校生は自転車を止める。
「二十分くらい?」
「たぶん」
「じゃ待ちます」
◇
秩序ちゃんは近づかなかった。
「いいの?」
渾沌ちゃん。
「何がですか」
「理由、それだけだよ」
「はい」
「確認しないの?」
「しません」
「損したら?」
「今、決めた方がいます」
◇
高校生が自転車の籠を見る。
中に。
アイスが入っていた。
「溶けるかも」
男が青くなる。
「え、先に言ってよ」
「聞かれなかったから」
「ごめん」
「いいですよ。私も言わなかったし」
男は消えた道を見る。
「新しいの買います」
「そこまでしなくていいです」
「いや、俺が決めたから」
◇
渾沌ちゃんが秩序ちゃんを見る。
「広がったね」
「何がですか」
「決めるの」
「はい」
「失敗するのも」
秩序ちゃんは。
男と高校生を見る。
二人で、近くの店にアイスがあるか話している。
「それもです」
◇
店へ戻る。
朝。
秩序ちゃんは。
二つの正しいお願いから、一つを選んだ。
片方は間に合った。
片方は間に合わなかった。
どちらも。
なかったことにはならなかった。
閉店後。
パン屋の裏口から。
焼きたての匂いがした。
保育園の前では。
青い帽子の子供が、母親の手を引いて歩いていた。
二本の道は。
どちらも開いていた。
明日もそうかは。
誰も知らなかった。




