第60話「会えたからって、帰ってきたことにはしないでください」
火曜日。
午後一時六分。
女がバーガーを落とした。
床ではない。
トレーの上。
包み紙が開く。
レタス。
チーズ。
パティ。
トマト。
「すみません」
秩序ちゃんが近づく。
「お取り替えしますか」
女は答えなかった。
入口を見ていた。
◇
男が立っていた。
五十代くらい。
薄い茶色の上着。
買い物袋を一つ。
男も女を見ている。
どちらも動かない。
渾沌ちゃんが厨房から顔を出した。
「知り合い?」
女の唇が動いた。
「……あなた」
男が眉を寄せる。
「はい?」
「なんで」
女が立つ。
椅子が後ろへ鳴った。
「なんでいるの」
◇
男は一歩下がった。
「すみません」
「三年前に」
女の声が震えた。
「死んだでしょう」
店内が静かになった。
◇
男は買い物袋を持ったまま。
「人違いです」
女が首を振る。
「違わない」
「いや」
「その傷」
男の左眉。
細い白い線。
「自転車で転んだ時の」
男が傷へ触れる。
「小学生の時です」
「知ってる」
「なんで」
「私が何回聞いたと思ってるの」
◇
渾沌ちゃんが秩序ちゃんを見る。
秩序ちゃんは首を振った。
今は聞かない。
渾沌ちゃんも出てこなかった。
◇
女が男の前まで行く。
手を伸ばす。
途中で止めた。
「和彦」
男の顔が変わった。
「なんで名前まで」
「和彦」
「はい」
「私」
女は自分の胸へ手を当てる。
「分からない?」
男は見る。
長く。
「すみません」
女の手が落ちた。
「分かりません」
◇
午後一時十一分。
二人は離れた席に座った。
女は元の席。
男は入口の近く。
渾沌ちゃんが小声で言う。
「帰る?」
「誰がですか」
「あの人」
「本人が決めます」
「女の人は?」
「本人が決めます」
「じゃ私たちは?」
「注文を取ります」
「普通!」
「営業中です」
◇
男が手を上げた。
「すみません」
「はい」
秩序ちゃんが行く。
「テリヤキを一つ」
「セットですか」
「単品で」
「トマト抜きにできますか」
女の肩が動いた。
男は気づかない。
「できます」
「お願いします」
◇
女が笑った。
泣きながら。
「嫌いだった」
男が振り向く。
「何がですか」
「トマト」
「はい」
「ずっと」
「はい」
「私が入れると、毎回抜いてた」
男は少し困った顔をした。
「妻にも言われます」
女が止まった。
◇
「奥さん」
「はい」
「いるの」
「います」
「名前は」
男が黙る。
「そこまで話す必要ありますか」
女も黙った。
「……ないね」
◇
渾沌ちゃんがバーガーを運ぶ。
「トマト抜き」
「ありがとうございます」
男が包み紙を開く。
一口。
女は見ている。
二口。
「食べ方も同じ」
男の手が止まる。
「左から食べるの」
「普通じゃないですか」
「普通じゃないよ」
「そうですか」
「最後に真ん中残す」
男がバーガーを見る。
「……残します」
◇
午後一時十九分。
女が聞いた。
「何歳?」
「五十三です」
女は目を閉じた。
「同じ」
「あなたは?」
「五十二」
「そうですか」
「あなたより一つ下」
「そうなんですね」
「結婚したのは二十六」
男は答えない。
「娘が生まれたのは二十九」
男の手が止まった。
「娘さんがいるんですか」
女が目を開ける。
「あなたの娘」
「俺には息子がいます」
◇
今度は。
女が何も言えなかった。
男も食べなかった。
店の冷蔵庫が低く鳴っている。
外をバスが通った。
その音だけが長かった。
◇
「写真」
女が鞄へ手を入れる。
止める。
「見ますか」
男はすぐ答えなかった。
「娘さんの?」
「はい」
「俺の?」
「私の夫の」
男はバーガーを置いた。
「……見ません」
女の指が鞄から離れる。
「そう」
「すみません」
「謝らなくていい」
◇
渾沌ちゃんが秩序ちゃんの横へ来る。
「見ないんだ」
「はい」
「見たら分かるかもしれないのに」
「何がですか」
「同じかどうか」
秩序ちゃんは二人を見る。
「今、同じである必要がありますか」
渾沌ちゃんは答えなかった。
◇
午後一時二十七分。
男が食べ終わった。
予想通り。
最後は真ん中だった。
女は笑わなかった。
「本当に同じ」
「そうみたいですね」
「でも」
女は男を見る。
「あなた、私のこと知らないんだね」
「はい」
「娘のことも」
「はい」
「三年前の病院も」
「知りません」
女が頷いた。
一回。
「じゃ、帰ってきたんじゃないね」
◇
男が息を吐いた。
「俺から言っていいのか分からないですけど」
「何」
「たぶん」
男は包み紙を畳む。
「そうだと思います」
◇
女の目から涙が落ちた。
今度は拭かなかった。
「会いたかった」
「はい」
「ずっと」
「はい」
「なのに」
男を見る。
「会ったら違った」
「はい」
「顔も、声も、食べ方も同じなのに」
「はい」
「ひどいね」
「俺がですか」
女が少し笑った。
「違う」
◇
男が立つ。
「行きます」
「うん」
入口まで行く。
女が呼ぶ。
「和彦さん」
男が振り返る。
さっきは。
和彦。
今は。
和彦さん。
「はい」
「一つだけ聞いていい?」
「はい」
「幸せ?」
◇
男は困った。
本当に困った顔をした。
「昨日、妻と喧嘩しました」
女が吹き出した。
「何それ」
「幸せかって急に聞かれても」
「そうだね」
「でも」
男は考える。
「帰ったら謝ります」
「あなたが悪いの?」
「たぶん」
「そこも同じ」
「そうなんですか」
「うん」
◇
男は扉を開けた。
「じゃあ」
「うん」
出ていく。
女は追わなかった。
◇
午後一時三十四分。
女は冷めたバーガーを見る。
トマトが一枚、はみ出している。
「取り替えますか」
秩序ちゃんが聞く。
最初と同じ質問。
女は首を振った。
「これ食べる」
「冷めています」
「いい」
「作り直せるよ?」
渾沌ちゃん。
「ううん」
女は包み紙を持つ。
「私、トマト好きだから」
◇
一口。
二口。
左からではない。
真ん中から食べた。
渾沌ちゃんが見ている。
「食べ方違う」
「違うよ」
女が言う。
「私だから」
◇
午後二時。
女は帰った。
写真を見せなかった。
名前も残さなかった。
秩序ちゃんも聞かなかった。
テーブルには何もない。
「終わった?」
渾沌ちゃん。
「何がですか」
「あの二人」
「分かりません」
「また会うかな」
「分かりません」
「会いたいかな」
「それも、本人が決めます」
「でもさ」
渾沌ちゃんは入口を見る。
「会えたんだよ」
「はい」
「死んだ人に」
「同じ顔と名前の、生きている方にです」
「それって、すごいことじゃない?」
「はい」
「じゃ、なんで追いかけなかったんだろ」
◇
秩序ちゃんは。
女が座っていた椅子を戻した。
「会いたかった人と」
テーブルを拭く。
「会えた人が、同じ関係ではなかったからでしょう」
「関係?」
「顔ではなく」
「名前でもなく?」
「はい」
「食べ方でも?」
「はい」
渾沌ちゃんは考える。
「じゃ何が違ったの」
秩序ちゃんは布巾を畳んだ。
「一緒に過ごしていません」
◇
午後五時四十分。
閉店前。
入口の外に。
男がいた。
戻ってきたわけではない。
通りの向こう。
電話をしている。
声は聞こえない。
頭を下げる。
何度も。
渾沌ちゃんが窓に寄る。
「謝ってる?」
「そう見えます」
「奥さんに?」
「決めません」
「そこは決めないんだ」
「聞こえませんので」
男は電話を切る。
PANDEMONIUMを見た。
一瞬。
入ってこない。
そのまま歩いていく。
◇
渾沌ちゃんが言った。
「帰ったね」
「はい」
「どっちに?」
秩序ちゃんは少し考えた。
「今、一緒に過ごしている人のところへ」
「それなら分かる?」
「それなら」
◇
店の灯りを落とす。
今日。
誰も記録を残さなかった。
誰も扉を直さなかった。
何も貸さなかった。
約束も増えなかった。
それでも。
一人は、死んだ人を追わなかった。
一人は、生きている人のところへ帰った。
境界は。
そのどちらも、止めなかった。




