第59話「覚えていない約束でも、待った時間まで消えるわけではありません」
月曜日。
午前十一時四十八分。
PANDEMONIUMの窓際に。
コーヒーが二つ置かれていた。
「二人?」
渾沌ちゃんが見る。
「一人です」
秩序ちゃん。
女が一人。
四十代くらい。
灰色の上着。
窓の外を見ている。
向かいの椅子は空いていた。
「じゃなんで二つ?」
「私に聞かないでください」
◇
十一時五十二分。
女は片方に口をつけた。
もう片方は触らない。
十二時。
入口を見る。
十二時五分。
また見る。
渾沌ちゃんが小声で言った。
「待ち合わせ?」
「そう見えます」
「来ないね」
「まだ五分です」
「待つ?」
「私たちが待つ理由はありません」
「最近それ好きだね」
「好きではありません」
◇
十二時十一分。
扉が開いた。
男が入ってきた。
濃紺の作業着。
胸に小さな会社名。
女が立った。
「吉田さん」
男も止まった。
「はい」
女が笑う。
「よかった」
男は笑わなかった。
「すみません。どちらさまですか」
◇
女の笑顔が残った。
一秒。
二秒。
「……え?」
「俺に、何か?」
「今日、ここで」
「はい」
「十二時に」
女は空いた椅子を見る。
「会う約束、しましたよね」
男が時計を見る。
「してません」
◇
渾沌ちゃんが秩序ちゃんを見る。
秩序ちゃんは見返さない。
男が言う。
「俺、ここ初めてです」
「先週来たでしょう」
「来てません」
「月曜日」
「先週の月曜は出張でした」
「ここでコーヒー飲みました」
「飲んでません」
女の手が。
紙カップから離れた。
◇
「写真ある?」
渾沌ちゃんが言った。
「渾沌ちゃん」
「だって確認できるじゃん」
女が鞄からスマートフォンを出した。
「あります」
画面。
先週の月曜日。
この席。
女。
隣に男。
同じ顔。
同じ作業着。
胸の会社名も同じ。
男が画面を見る。
「……俺だ」
「じゃ覚えてないだけ?」
渾沌ちゃん。
「決めません」
秩序ちゃん。
男が顔を上げる。
「何を?」
「あなたが写真の人物と同一かどうかです」
「俺でしょう」
「そう見えます」
「でも?」
「あなたは来ていないと言っています」
◇
女が椅子に座った。
「先週、ここで会ったんです」
誰も止めない。
「駅で財布を落として」
男を見る。
「この人が拾ってくれた」
「俺が?」
「はい」
「財布は?」
「戻りました」
「なら、よかったです」
女は少し黙った。
「それで、お礼したいって言ったら」
空の椅子。
「今日、ここでコーヒーをって」
◇
男が二つ目の紙カップを見る。
「俺、コーヒー飲まないんです」
女が止まる。
「先週は飲んでました」
「苦手で」
「ブラックでした」
「無理です」
渾沌ちゃんが小声で言う。
「かなり違う」
「聞こえています」
男。
「ごめん」
◇
十二時二十分。
男は立ったままだった。
「俺、仕事の途中なので」
「はい」
女が言う。
「すみません」
「いや」
「違う人なら」
「違うかどうかも分からないです」
「そうですね」
女は二つ目のカップへ蓋をした。
男が扉へ向く。
三歩。
止まった。
振り返る。
「その人、何て言ってました?」
◇
女が顔を上げる。
「何がですか」
「今日のこと」
「十二時にここで、って」
「それだけ?」
「はい」
「来るって?」
「はい」
「俺が?」
「吉田さんが」
男は腕時計を見る。
十二時二十二分。
「あと八分ならいます」
「え?」
「休憩、十二時半までなので」
◇
「約束したから?」
渾沌ちゃん。
男は首を振った。
「俺はしてないです」
「じゃなんで?」
男は女を見る。
「待ってたみたいだから」
女が言う。
「無理しなくていいですよ」
「無理はしません」
「でもコーヒー」
「飲みません」
「そこは飲まないんだ」
渾沌ちゃん。
「飲みません」
◇
男が座る。
女の向かい。
二つ目のコーヒーは真ん中。
誰も飲まない。
「財布、どこで落としたんですか」
男が聞く。
「駅前です」
「どの駅?」
「北口のある駅」
「この辺、北口ないですよ」
「私のところにはあります」
男が黙る。
「そういうやつか」
「分かるの?」
渾沌ちゃん。
「分からないです」
「じゃなんで納得した顔?」
「最近、会社の裏口が二つあるので」
「二つ?」
「開ける日によって駐車場が違うんです」
「慣れてる!」
「慣れてません」
◇
女が笑った。
初めて。
待っていた時とは違う笑い方だった。
「先週の吉田さんも、似たこと言ってました」
「何て?」
「会社の裏口が、昨日と違ったって」
男の顔から笑いが消える。
「俺、それ先週からです」
◇
秩序ちゃんが口を開く。
「一致する情報はあります」
「じゃ俺?」
「決めません」
「またそれ?」
渾沌ちゃん。
「ただし」
秩序ちゃんは二人を見る。
「今、決める必要があることは別です」
「何?」
「十二時半まで、ここにいるかどうかです」
男が答える。
「います」
「コーヒーは?」
「飲みません」
「そこ大事?」
「本人が決めました」
◇
十二時二十九分。
男が立った。
「行きます」
女も立つ。
「ありがとうございました」
「俺、何もしてないです」
「八分いました」
「それだけです」
「はい」
女は笑った。
「それで十分です」
男が扉を開ける。
外へ。
◇
女は残ったコーヒーを持つ。
二つ。
「捨てる?」
渾沌ちゃん。
「持って帰ります」
「飲むの?」
「一本は」
「もう一本は?」
「分かりません」
女は扉へ向かった。
秩序ちゃんが呼び止める。
「一つ、確認していいですか」
「はい」
「今日来た方は、約束を守りましたか」
◇
女は考えた。
長く。
「守ってないと思います」
「そうですか」
「約束した人か分からないから」
「はい」
「でも」
女は二つのカップを見る。
「待ったことは、無駄じゃなくなりました」
◇
午後二時。
渾沌ちゃんが窓際のテーブルを拭く。
「変なの」
「何がですか」
「約束守ってないのに、よかったんだって」
「本人がそう言いました」
「じゃ約束いらなかった?」
「それも違います」
「なんで?」
「約束がなければ、待っていません」
「でも来た人は約束してない」
「はい」
「なのに座った」
「はい」
渾沌ちゃんは布巾を止めた。
「誰の続きだったんだろ」
秩序ちゃんは答えなかった。
◇
午後四時十三分。
男が戻ってきた。
一人で。
「さっきの人、もう帰りました?」
「はい」
「これ」
小さな紙袋。
中に。
ティーバッグが三つ。
「コーヒー飲めないから」
渾沌ちゃんが覗く。
「渡すの?」
「もし、また来たら」
「いつ?」
「分かりません」
「来週?」
「来週とは言ってません」
秩序ちゃんが男を見る。
「これは約束ですか」
男はすぐ首を振った。
「違います」
「では何ですか」
「今日、八分座った俺が」
紙袋をカウンターへ置く。
「次に会えたら渡したいだけです」
◇
「預かっていいの?」
渾沌ちゃん。
秩序ちゃんは紙袋を見る。
「期限は?」
「一週間」
「来なければ?」
「俺が取りに来ます」
「来なかったら?」
「捨ててください」
「誰か別のあなたが取りに来たら?」
男が止まる。
「それ、聞くんですか」
「必要なら」
「じゃ」
男は少し考える。
「『今日、八分座った』って言った俺に返してください」
◇
渾沌ちゃんが笑った。
「顔じゃないんだ」
「顔は同じかもしれないので」
「名前も?」
「同じかもしれない」
「じゃ八分?」
「今日の俺がやったことだから」
男は帰った。
◇
閉店前。
紙袋はカウンターの下。
名前は書かなかった。
顔も。
会社名も。
秩序ちゃんが小さな紙を貼る。
《今日、八分座った人から》
渾沌ちゃんが読む。
「変な名前」
「名前ではありません」
「でもこれなら、今日の人って分かる?」
「少なくとも、顔よりは今日の判断に近いです」
「来週、本人が覚えてなかったら?」
秩序ちゃんの手が止まる。
紙袋。
三つのティーバッグ。
今日生まれた、まだ誰にも渡っていない続き。
「その時は」
秩序ちゃんは言った。
「今日の人が、来週の人に残したものになります」
「同じ人でも?」
「同じ人でも」
「違う人でも?」
「違う人でも」
渾沌ちゃんが紙袋を棚へ置いた。
「じゃ、受け取るかは?」
「来た人が決めます」
店の灯りを一つ消す。
紙袋は残った。
約束ではない。
それでも。
明日へ残るものが、一つ増えた。




