第58話「私が決めたことでも、今の私が続けるとは限りません」
日曜日。
午前六時五十八分。
パン屋は休みだった。
「暗いね」
渾沌ちゃんが窓を見る。
「定休日です」
「じゃ森さんも来ない?」
「それは分かりません」
昨日の路地は乾いている。
空き瓶。
段ボール。
台車。
全部ある。
昨日と違うのは。
台車が、路地の真ん中に置かれていたことだった。
「邪魔」
「はい」
秩序ちゃんが近づく。
荷台に紙が一枚。
《日曜はここ》
その下に。
パン屋の店員の名前。
「本人が置いた?」
「決めません」
「昨日、瓶戻してた人が?」
「決めません」
「二回言った」
◇
午前七時五分。
森が来た。
今日は袋を持っていない。
「おはよう」
「おはようございます」
台車を見る。
「あら、出してある」
「使いますか」
「今日は使わないよ」
「じゃ邪魔じゃん」
渾沌ちゃん。
「そうだね」
森は台車を押した。
壁際へ。
紙は載せたまま。
「動かしていいの?」
「真ん中にあったら通れないでしょう」
「書いた人、ここがいいって」
「私にはよくない」
◇
七時十二分。
男が路地へ入ってきた。
パン屋の制服。
昨日の店員と同じ顔だった。
同じ髪。
同じ声。
でも。
右袖に、小麦粉が白くついている。
「台車、動かしました?」
森が振り返る。
「私」
「そこに置いといてって書いたんですけど」
「あなたが?」
「はい」
渾沌ちゃんが男を見る。
「今日、休みじゃないの?」
「何がですか」
「パン屋」
「日曜は朝だけやってます」
道路の向こう。
パン屋は暗い。
男も見る。
「……あれ?」
◇
「昨日、森さんに配達を代わってもらいましたか」
秩序ちゃんが聞く。
男は首を振った。
「昨日?」
「はい」
「森さんに?」
「はい」
「頼んでません」
「頼まれてないよ」
森。
「勝手にやった」
「なんで?」
「遅れるって聞いたから」
男は眉を寄せる。
「昨日、俺、配達してますけど」
◇
渾沌ちゃんが秩序ちゃんを見る。
「増えた?」
「数えません」
「同じ人?」
「決めません」
「本人?」
「それも決めません」
「何なら決めるの」
秩序ちゃんは男を見る。
「今、台車をここへ置きたい理由です」
◇
男は紙を取った。
「七時半に、小麦粉が来るんです」
「パン屋閉まってるよ」
「うちは開いてます」
「どこ?」
男が路地の奥を指す。
何もない壁。
「そこ」
森が言う。
「昨日は壁だったよ」
「昨日も入口でした」
男は壁へ手をかけた。
引く。
開いた。
向こうから。
焼いたパンの匂い。
熱い空気。
鉄板の音。
店員が二人、忙しく動いている。
こちら側のパン屋は。
まだ暗い。
◇
「日曜、朝だけ開くパン屋」
渾沌ちゃんが覗く。
「入らないでください」
「まだ入ってない」
「顔が入っています」
「顔はいいじゃん」
「よくありません」
男が笑った。
「台車、戻していいですか」
森が答える。
「今はいいよ」
「今は?」
「七時半までは」
◇
台車を路地の中央へ戻す。
男は紙を載せる。
《日曜はここ》
秩序ちゃんが聞く。
「毎週ですか」
「はい」
「誰が決めましたか」
「俺です」
「いつ?」
「先週」
「なぜ?」
「配達の小麦粉をそのまま奥へ運べるから」
「他の人は通れますか」
「朝は誰も通らないです」
森が手を上げた。
「通ったよ」
男が止まった。
「……今日だけじゃなく?」
「日曜はだいたい散歩してる」
「知りませんでした」
「言ってないもの」
◇
昨日と同じ言葉だった。
でも。
昨日とは違う男が聞いている。
少なくとも。
そう見えた。
「じゃ、端に寄せます」
男が台車を動かそうとする。
森が止めた。
「小麦粉来るんでしょう」
「でも邪魔なら」
「来る時だけ出せば?」
「間に合わないです」
「何分かかるの」
「三十秒」
「間に合うじゃない」
「配達の人、待ってくれないんです」
「三十秒も?」
「向こうでは」
◇
七時二十三分。
路地の奥から。
車の音がした。
壁の向こう。
こちらには車がない。
音だけ近づく。
「来た」
男が台車を押さえる。
森は壁際へ寄る。
「私、ここなら通れるよ」
「狭くないですか」
「狭いけど」
「杖、引っかかります」
「じゃ今日は待つ」
「散歩なのに?」
「散歩だから」
◇
七時二十六分。
壁が開いた。
小麦粉の袋。
二十五キロ。
二つ。
配達員は台車へ載せる。
男が受け取る。
判子。
十七秒。
壁が閉まった。
「早っ」
渾沌ちゃん。
「だから出しておきたいんです」
男。
森は頷いた。
「分かった」
男が台車を奥へ押す。
「紙、置いときます」
「待ってください」
秩序ちゃん。
男が止まる。
「《日曜はここ》では、森さんが毎週通ることが抜けます」
「じゃ書き足します」
「何を?」
「七時半まで」
「来週も七時半ですか」
「たぶん」
「たぶんを固定しますか」
男はペンを止めた。
◇
「めんどくさいね」
渾沌ちゃん。
「はい」
秩序ちゃん。
「認めた」
「固定する方が、後で面倒です」
男が紙を見る。
「じゃ、毎回決める?」
「それも私が決めることではありません」
「昨日の俺なら、どうしたんですかね」
誰も答えなかった。
◇
男は紙を裏返した。
何も書かない。
台車を壁の向こうへ運ぶ。
戻ってくる。
「来週、また俺が決めます」
「来週もあなたですか」
秩序ちゃん。
男が笑う。
「そこから?」
「必要です」
「俺じゃなかったら?」
「その人が決めればいいじゃん」
渾沌ちゃん。
男は少し考えた。
「俺が決めた置き方でも?」
「嫌なら変えれば?」
「昨日の俺が怒るかも」
「昨日のあなたに会えますか」
秩序ちゃん。
「分かりません」
「では、今いる人が困る方を優先して確認してください」
◇
午前八時。
こちら側のパン屋が開いた。
昨日の店員が出てきた。
昨日と同じ顔。
同じ髪。
右袖に小麦粉はない。
「あれ?」
路地を見る。
「台車、どこです?」
渾沌ちゃんが笑った。
「さっきの人が持ってった」
「さっきの人?」
「あなた」
「私?」
「決めません」
秩序ちゃんがすぐ言った。
「でも同じ顔だったよ」
「それは観測できます」
「声も」
「はい」
「パン屋も」
「別の営業状態でした」
店員は二人を見る。
「何の話ですか」
◇
壁を開ける。
開かない。
ただの壁。
台車もない。
紙もない。
「持ってかれた?」
店員。
「はい」
「困るんですけど」
「今日使いますか」
「十時に配達です」
「また!」
渾沌ちゃん。
「昨日の三件ですか」
秩序ちゃん。
「今日は二件です」
「台車が必要?」
「必要です」
◇
「取り返す?」
渾沌ちゃん。
「どこからですか」
「壁の向こう」
「開きません」
「開ける?」
「開けません」
店員が言う。
「別の台車、あります」
二人が見る。
「あるの?」
「小さいですけど」
「じゃそれでいいじゃん」
「一回で運べないんです」
「二回?」
「はい」
「時間は?」
「間に合います」
◇
店員は倉庫から小さな台車を出した。
車輪が一つ鳴る。
きい。
きい。
「うるさい」
「古いので」
「昨日まで、こっち使わなかったの?」
「大きい方が楽なので」
「今日は?」
「ないので、これ使います」
それだけだった。
◇
十時。
店員は二回に分けて配達した。
一件目。
戻る。
二件目。
戻る。
十一時十二分。
「疲れました」
「間に合った?」
「はい」
「じゃ成功?」
「昨日それ言ったでしょう」
渾沌ちゃんが黙る。
「言った」
「覚えてたんですね」
「ちょっと」
◇
店員は水を飲む。
「大きい台車、戻ってきますかね」
「分かりません」
「困ります」
「はい」
「でも、向こうでも使ってるんですよね」
「そう見えました」
「私が返してって言ったら、返してくれますか」
「相手に届けば」
「相手、私なんですよね?」
秩序ちゃんは答えなかった。
店員が自分で言う。
「いや。違うか」
◇
「顔は同じでした」
秩序ちゃん。
「声も同じでした」
「はい」
「名前も?」
「同じ紙がありました」
「じゃ私じゃないんですか」
「それだけでは決めません」
「じゃ別人?」
「それも決めません」
店員は笑った。
「便利ですね、その答え」
秩序ちゃんが止まる。
「はい」
「認めるんだ」
「便利に使いすぎると、何も決めなくて済みます」
◇
渾沌ちゃんが言う。
「台車は決めなきゃね」
「はい」
「誰の?」
「昨日までは、こちらで使っていました」
「向こうは今日使った」
「はい」
「じゃ半分?」
「切りません」
「車輪二個ずつ」
「切りません」
◇
午後二時。
壁が開いた。
一瞬だけ。
大きい台車が出てきた。
誰もいない。
荷台に。
朝の紙。
裏返されている。
《今日は借りました》
その下。
《来週も必要なら、七時二十分から七時三十分だけ貸してください》
店員が読む。
「私の字だ」
渾沌ちゃんが覗く。
「書いた?」
「書いてません」
「でも字は?」
「似てます」
「本人?」
「聞かないでください」
店員が笑った。
◇
「貸す?」
渾沌ちゃん。
店員は紙を見る。
「来週の配達、十時です」
「じゃ七時半なら平気?」
「たぶん」
「たぶんだ」
「でも、来週になったら変わるかもしれない」
秩序ちゃんが言う。
「では、今決める必要がありますか」
店員は考えた。
紙を折る。
捨てない。
ポケットへ入れた。
「来週、決めます」
◇
「返事しなくていいの?」
渾沌ちゃん。
「今は」
店員。
「向こう困らない?」
「来週必要なら、また聞いてくるでしょう」
「来なかったら?」
「使わないんじゃないですか」
「勝手に持ってったら?」
店員は大きい台車を見る。
「その時は怒ります」
「怒るんだ」
「私の台車なので」
少し止まる。
「たぶん」
◇
閉店前。
大きい台車は壁際。
小さい台車は倉庫。
紙は店員のポケット。
壁は閉じている。
朝と同じ路地。
でも。
日曜日に台車を使う人が。
こちら側だけではなくなった。
「共有になった?」
渾沌ちゃん。
「まだです」
「貸した?」
「今日は」
「来週は?」
「来週決めます」
「誰が?」
秩序ちゃんはパン屋を見る。
店員がシャッターを下ろしている。
「来週、そこにいる人が」
◇
シャッターが閉まる。
向こうの壁から。
一度だけ。
台車の車輪の音がした。
きい。
こちらの小さい台車と。
同じ音だった。
渾沌ちゃんが壁を見る。
「小さい方もあるの?」
「分かりません」
「向こうにも?」
「分かりません」
「じゃ何が分かる?」
秩序ちゃんは答えた。
「来週も、今日と同じではありません」




