第57話「代わりにやったことを、代わりに決めたことにしないでください」
土曜日。
午前六時十二分。
厨房の床が、濡れていた。
「漏れてる?」
渾沌ちゃんがしゃがむ。
「踏まないでください」
「もう踏んだ」
「昨日も聞きました」
水は冷たい。
流し台からではない。
裏口から、細い跡が続いている。
外へ。
秩序ちゃんが扉を開けた。
朝の路地。
濡れた靴跡。
その先に。
パン屋の店員がいた。
ホースを持って。
「おはようございます」
「何をしていますか」
「掃除です」
◇
PANDEMONIUMとパン屋の間。
細い路地。
昨日までは。
段ボール。
空き瓶。
古い台車。
今朝は全部、端へ寄せられている。
地面も洗われていた。
「きれい」
渾沌ちゃん。
「なぜ掃除を?」
秩序ちゃん。
「森さんが今日ここ通るので」
「森さん?」
「朝、荷物運ぶって」
「頼まれましたか」
「いいえ」
店員はホースを止めた。
「昨日、杖の人がここで滑りそうになったでしょう」
「はい」
「だから今朝だけ」
◇
午前六時二十分。
森が来た。
大きな布袋を二つ。
「おはよう」
「おはようございます」
森は路地を見る。
「片付いてる」
「通りやすいでしょう」
店員が言う。
「うん」
森は袋を持ち直した。
歩く。
三歩。
止まる。
「台車は?」
「端にあります」
「そこじゃ出せない」
◇
台車は壁際。
その前に空き瓶。
段ボール。
掃除道具。
きれいに並んでいる。
「使うの?」
渾沌ちゃん。
「毎週土曜はね」
「聞いてませんでした」
店員。
「言ってないもの」
「じゃ戻します」
店員が瓶を持つ。
森が止めた。
「いいよ」
「でも」
「今日は手で運ぶ」
袋を持ち上げる。
重い。
腕が下がる。
「何キロ?」
「二つで三十くらい」
「台車出そ」
渾沌ちゃんが瓶へ手を伸ばす。
森がまた言った。
「いいって」
◇
渾沌ちゃんの手が止まる。
「なんで?」
「せっかく片付けたんでしょう」
「使うための台車でしょ?」
「今日だけだから」
森は歩き出した。
袋が膝に当たる。
一歩。
二歩。
秩序ちゃんが言う。
「森さん」
「なに」
「今日だけなら、重いものを手で運んでも問題ありませんか」
「問題ってほどじゃないよ」
「痛みは?」
「腰はいつも痛い」
「では、今日増えても分かりません」
「そういう言い方する?」
「します」
◇
森は袋を下ろした。
「じゃ、台車出して」
「はい」
店員が動く。
「待って」
森。
今度は店員が止まった。
「私が出す」
「でも私が動かしたので」
「だから?」
「戻すのは私が」
「戻す?」
森が笑った。
「台車を出すのに、戻すも何もないでしょう」
◇
店員は瓶を抱えたまま立っている。
「私が勝手に片付けたので」
「うん」
「森さんが使えなくなりました」
「うん」
「だから私が直します」
森は瓶を見る。
「じゃ、明日も?」
「え?」
「明日、私が別のもの動かして、あなたが困ったら、私が直す?」
「それは……」
「困った人が自分で動かせるなら、それでよくない?」
店員が黙る。
渾沌ちゃんが言った。
「森さん、昨日までの私たちみたい」
「どのへん?」
「説明しないで動かすとこ」
「失礼だね」
「褒めた」
「もっと失礼」
◇
森が空き瓶を二本持つ。
横へ。
段ボールを足でずらす。
台車の取っ手が出る。
「これでいい」
店員が言う。
「でも、私が掃除した意味が」
「なくならないよ」
「崩しましたけど」
「通り道はきれい」
森は台車を引き出す。
「台車も使える」
◇
がらがら。
布袋を載せる。
二つ。
森が押す。
路地を抜ける。
昨日より速い。
店員は、動かされた瓶を見る。
「私、余計なことしました?」
秩序ちゃんが答える。
「一部は助かっています」
「一部」
「路面はきれいになりました」
「台車は塞ぎました」
「はい」
「じゃ半分失敗?」
「数えません」
「渾沌ちゃんみたいなこと言いますね」
「どういう意味ですか」
「雑」
「撤回してください」
◇
午前七時。
パン屋が開く。
店員は戻った。
路地はそのまま。
瓶は二本だけ、元の列から外れている。
台車があった場所は空いている。
「戻さないの?」
渾沌ちゃん。
「何をですか」
「瓶」
「今は邪魔ではありません」
「きれいじゃないよ」
「整列させる必要もありません」
「成長した」
「評価しないでください」
◇
午前九時四十分。
問題は。
別の場所で起きた。
パン屋の店員が走ってきた。
「すみません!」
「どうしました」
「森さん、見ませんでした?」
「朝、荷物を運んでいました」
「そのあとです」
「知りません」
店員は息を整える。
「私、十時から配達だったんです」
「はい」
「代わってくれたみたいで」
「誰が?」
「森さんが」
◇
「頼んだの?」
渾沌ちゃん。
「頼んでません」
「なんで代わったの?」
「私が朝、掃除してたからだと思います」
「掃除と配達、関係ありますか」
秩序ちゃん。
「昨日、私が『明日は朝から片付けるから、配達遅れるかも』って言ったんです」
「誰に?」
「森さんに」
「代わってほしいとは?」
「言ってません」
◇
十時。
森は戻らない。
配達先は三件。
パン屋の店員が伝票を見る。
「一件目は近いんです」
「二件目は?」
「橋の向こう」
「三件目」
「知らない住所です」
「森さんは知っていますか」
「たぶん」
「確認しましたか」
「してません」
渾沌ちゃんが外を見る。
「追いかける?」
「どこへ?」
「一件目」
「もう着いている可能性があります」
「じゃ二件目」
「順番を変えている可能性があります」
「めんどくさ!」
◇
十時十二分。
電話が鳴った。
パン屋。
店員が出る。
「はい」
聞く。
顔が変わる。
「え?」
受話器を持ったまま、秩序ちゃんを見る。
「三件目、届いたそうです」
「森さん?」
「はい」
「じゃ順番逆?」
渾沌ちゃん。
「たぶん」
「なぜですか」
「三件目、十一時から留守になる家だったみたいで」
「店員さん知ってた?」
「知りませんでした」
◇
十時二十五分。
二件目も届いた。
十時四十一分。
一件目。
最後に届いた。
全部。
時間内。
「成功じゃん」
渾沌ちゃん。
店員は笑わなかった。
「私、配達するつもりだったんです」
「でも助かったよ?」
「はい」
「じゃ何が嫌?」
店員は伝票を置く。
「分かりません」
◇
十一時三分。
森が戻った。
空の台車。
「終わったよ」
「森さん」
店員が立つ。
「なんで配達したんですか」
「遅れるって言ってたから」
「代わってとは言ってません」
「でも朝、掃除してたでしょう」
「終わりました」
「そうなの?」
「七時には」
森が止まる。
「あら」
◇
「じゃ、余計なことしたね」
森が言った。
店員はすぐ答えなかった。
「……配達は助かりました」
「ならいい?」
「よくないです」
「どっち」
「助かったけど、よくないです」
渾沌ちゃんが笑う。
「両方あるやつだ」
秩序ちゃんは黙っている。
◇
店員が言う。
「一件目、私が直接渡したかったんです」
「なんで?」
「先週、パンを一つ入れ忘れて」
「謝るため?」
「はい」
森の顔が変わる。
「知らなかった」
「言ってないので」
「じゃ、私が謝っとけばよかった?」
「それはもっと嫌です」
「難しいねえ」
「私の失敗なので」
◇
森は台車の取っ手を握ったまま。
「でもパンは届けたよ」
「はい」
「時間も守った」
「はい」
「それでも駄目?」
店員は考えた。
「配達は、駄目じゃないです」
「じゃ何が?」
「私が行くはずだったことまで、なくなったみたいになったのが嫌です」
◇
秩序ちゃんが口を開く。
「森さん」
「はい」
「代わりに仕事をしたことと、その人がするはずだったことを代わりに決めることは、同じではありません」
森が眉を上げる。
「私、決めた?」
「結果として」
「でも知らなかったよ」
「はい」
「知らなかったら、どうすればよかった?」
「私にも、先に分かる方法はありません」
「ないの?」
「ありません」
◇
森が笑った。
「じゃ困るじゃない」
「はい」
「秩序ちゃんが困るって言った」
渾沌ちゃん。
「困ります」
「珍しい」
「今日はそればかりですね」
店員も少し笑った。
◇
昼前。
パン屋の店員は。
一件目の家へ行った。
配達ではない。
自分で。
PANDEMONIUMの前を通る。
「行くの?」
渾沌ちゃん。
「はい」
「パンもう届いてるよ」
「知ってます」
「何持ってくの?」
「何も」
「謝るだけ?」
「はい」
店員は歩いていった。
◇
午後一時。
戻ってくる。
「どうだった?」
「笑われました」
「怒られなかった?」
「先週もう怒ってないって」
「じゃ行かなくてもよかった?」
店員は首を振った。
「行ってよかったです」
「なんで?」
「私が行きたかったので」
◇
森は午後になっても路地を通った。
瓶が二本ずれているのを見る。
直さない。
「戻さないの?」
渾沌ちゃん。
「誰か使ってるんでしょう」
「もう台車戻ってるよ」
「じゃ、戻したい人が戻せばいい」
「森さんは?」
「私はどっちでもいい」
◇
少しして。
パン屋の店員が来た。
瓶を見る。
二本持つ。
元の列へ。
戻した。
「戻すんだ」
渾沌ちゃん。
「私が朝並べたので」
森が言う。
「それ、私が崩したよ」
「知ってます」
「じゃ私が戻す?」
「いいです」
「なんで?」
店員は瓶の向きを揃える。
「私が戻したいので」
◇
森は手を出さなかった。
秩序ちゃんも。
渾沌ちゃんも。
瓶は並んだ。
朝と同じに見えた。
でも。
朝とは違った。
◇
閉店前。
パン屋の店員が言った。
「明日、私が遅れそうでも、勝手に代わらないでください」
森が頷く。
「分かった」
少しして。
「でも、倒れてたら?」
「その時は代わってください」
「遅れてるだけか、倒れてるか分からなかったら?」
「その時は」
店員が止まる。
秩序ちゃんを見る。
秩序ちゃんは何も言わない。
店員は森を見る。
「その時は、森さんが決めてください」
「私が?」
「はい」
「間違えたら?」
「あとで文句言います」
「言うんだ」
「言います」
森が笑った。
「じゃ、決めるよ」
◇
二人は別々の方向へ帰った。
渾沌ちゃんが言う。
「任せたのに、文句言っていいんだ」
「はい」
「決めた人が責任取るんじゃないの?」
「取ります」
「じゃ任せた人は?」
「結果を受け取ります」
「同じじゃない?」
「違います」
「どう違うの?」
秩序ちゃんは路地を見る。
乾いた床。
並んだ瓶。
使える台車。
「明日、同じことが起きたら分かります」
「起きなかったら?」
「分からないままです」
渾沌ちゃんが笑った。
「それでいいんだ」
「今は」
扉を閉める。
誰も。
明日の代わりを決めなかった。




